街道をはずれた森の奥に、崩れた塔があった。
塔はもともと五階建てで、うっそうと茂る木々のどれより高く、街道や少し離れた町からでも、天気のいい日はその頂が見えたという。
だが今は、三階あたりから上はすっかり崩れ、木々の間に埋もれていた。
残った部分もいつ崩れるかわからず、危険だからと人々は近寄ることを避けていた。
そんな中、崩れた塔に魔物が住み着いたとの噂が流れる。
夜ごと、塔からは不気味な魔物の唸り声が聞こえるとて、人々はますます近寄らなくなって行った。
ある嵐の日のこと。
一人の吟遊詩人が、この塔へとやって来た。
旅の途中で道に迷い、嵐に遭って、逃れる場所を探していた時に、塔を見つけたのだ。
上階が崩れ落ちた塔を見た時、彼はすぐにそれが、途中で立ち寄った街で聞いたものだと気づいた。
けれど、外は叩きつけるような大粒の雨と、今にも吹き飛ばされてしまいそうな強い風が吹いている。周囲の木々はみしみしと恐ろしい音を上げてしなり、足元はすでに川のようになっていた。空は昼間だというのに真っ暗で、このまま戸外にいるのは危険だった。
吟遊詩人は、覚悟を決めて、塔の戸口へと歩み寄った。
短い階段を昇り、入口の扉に手をかける。
分厚い板に鉄板を当てて補強された扉には、鍵はかかっていなかった。
中に入って扉を閉めると、外のすさまじい雨風の音は一気に遠のいた。
吟遊詩人は旅行用の革の外套の下から、カンテラを取り出して明かりを灯す。
それを掲げると、塔の中が照らし出された。
目の前には、上へと向かうための石造りの螺旋階段があって、階段の左側は奥へと続いているようだ。
階段はところどころひびが入って崩れかけていて、危険そうだった。
なので彼は、階段の左側へと歩き出した。
「ここは……」
短い通路はすぐに終わり、カンテラの光の中に、厨房らしき部屋が現れる。
手前には長方形の木のテーブルと椅子が並び、奥には調理台やかまど、流しが並んでいる。
壁には、フライパンや鍋などが掛けられていて、流しの隣には大きな水がめが二つ、置かれていた。
吟遊詩人は、慎重に室内へと歩み入る。
魔物は噂だとしても、ここは森の中だ。
危険な獣が入り込んでいる可能性は、ないとはいえない。
だが。
(こいつは……子供?)
彼は、思わず眉をひそめて、胸に呟いた。
水がめの傍にうずくまっている、小柄な影を見つけたためだ。
それは一見すると、人間の子供と見えた。
しかしよく見れば、ボサボサの髪の間から、髪と同じ黄色っぽい毛皮におおわれた耳が覗いている。また、体のすぐ傍には丸まった毛皮のようなものが見えて、それが尻尾だということは、すぐに知れた。
(獣人か、それとも魔物か……?)
吟遊詩人は更に眉間のしわを深めて、その子供を眺める。
外見だけでは、獣人と魔物の区別はつけにくい。
獣人は、体の一部、あるいは全部が獣の特徴を持っていて、基本的には人語を話す。
どこかの国や村に所属していて、獣の特徴を持つだけの人間だ。
一方、魔物は同じように体に獣の特徴を持っているが、人語を話せない者が多く、攻撃的で人間を下等なものとみなして襲って来る場合が多い。
両者を見分けるためには、日の光を当てるとか、鏡に映してみるとかする以外なかった。
というのも古来から、魔物は日の光に弱く、また鏡に映らないと言われているからだ。
だが、この状況ではどちらの方法も使えない。
吟遊詩人は、どうしたものかと考えた。
子供が魔物だった場合、最悪命の危険もあるだろう。
魔物の中には、一見子供でも、実は凄まじく凶暴だったり強い魔力や破壊力を持っている者もいる。この子供がそうではないとは言えないのだ。
とはいえ、嵐の戸外へ戻る気にも、彼はなれなかった。
(……しようがない。あの崩れた階段を昇ってみるか)
胸元に吊るした魔除けの石をそっと手でまさぐって、彼は小さく溜息をつく。
そのまま踵を返そうとした時だ。
子供が小さくうめいて、目を開けた。
「誰……? じいちゃん……?」
舌ったらずな呟きに、吟遊詩人は足を止める。
「おまえ、獣人か?」
尋ねる彼に、子供は身を起こし、琥珀色の猫のような目を大きく見開いた。
「あんた、吟遊詩人だね?」
子供の目は、彼の背中の革袋に包まれた小さな竪琴を、キラキラ輝く目で見つめている。
「あ、ああ……」
うなずく彼に、子供は跳ねるように立ち上がると、叫んだ。
「俺、吟遊詩人に会うの、初めてだ! すごい、すごい! ねぇ、何か聞かせてよ! ねぇ、ねぇ」
子供の要求にいくらか面食らいはしたものの、吟遊詩人はようやく安堵した。
子供の反応は、彼が町や村を訪れた際にそこの住人たち、とりわけ子供らが示す反応そのものだったからだ。
つまり、この子供は獣人だということだろう。
彼はうなずき、椅子の一つに座ると、背中の竪琴を下した。
そして、子供に要求されるまま、歌をうたい始めたのだった。
一曲歌って子供が落ち着いたところで、吟遊詩人はかまどに火を焚いた。
暖炉があればありがたかったが、そこにはなく、濡れた体を温め、暖を取るためにはかまどに火を入れるほかなかったのだ。
お茶を入れたいと思ったが、当然ながら水がめはからっぽだった。
中を確認した彼が溜息をついていると、子供が問うて来る。
「お兄さん、何を探しているの?」
「水がないかと思ってな」
「水?」
「ああ。お茶を入れたかったんだが……こんな場所では、無理な話だったな」
答えて再度溜息をつく彼に、子供は小さく首をかしげて、水がめに歩み寄った。
「この中に、水があればいいの?」
「ああ。あったら、ありがたかったんだがな」
うなずく彼に、子供は水がめを覗き込む。
中に向かって、「水!」と叫んだ。
その声が、水がめの中で反響し、小さくうわんうわん……と音が響いた。
次の瞬間、水がめの底から水が湧き出して、あっという間に一杯になった。
「な……っ!」
吟遊詩人は驚いて、小さく声を上げる。
「水だよ」
子供は、さあどうぞと言いたげに、水がめを示した。
「おまえ……魔法が使えるのか……?」
吟遊詩人は、子供を見つめて眉間にしわを寄せ、呟いた。
生粋の人間とは違い、獣人と精霊族には生まれつき魔力があって魔法を使える者もいる、ということはさすがに吟遊詩人も知っている。
旅の間に、そういう者たちをいくらも見て来たし、彼らの魔法で助けられたことも幾度もある。
それでも、この状況で、獣人か魔物かと怪しんだ子供が魔法を使えるというのは、なんとも都合がよすぎる気もした。
だが、彼の問いに子供は大きくうなずく。
「ああ。もっと小さいころから、魔法でじいちゃんを助けて来た。それに、困ってる人がいたら、助けてあげなさいとも言われてたからな」
「そ、そうか」
子供の無邪気な物言いに、彼は悪意はないのだと判断する。
水がめの水を、少し手ですくって舐めてみれば、まるで清い泉から湧き出たもののように、冷たく美味だった。
そこで彼は、荷物からケトルとカップと茶葉を取り出し、その水でお茶を入れた。
もちろん、子供にもそのお茶をふるまう。
子供は熱いものが苦手なのか、フーフーとお茶を冷まして口にした。
嵐はそれから三日三晩続き、吟遊詩人は崩れた塔の中で、獣人の子供と過ごした。
子供はどうやらこの森の中で、祖父と二人で幼いころからくらして来たらしい。だが、最近になって祖父が亡くなり、一人になったようだ。
祖父は亡くなる前、子供に一人になったら近くの村の村長を頼れと言い残した。
子供はその言葉に従ったものの、途中で道に迷ったあげくに、この崩れた塔にたどり着いたということらしい。それから森を出るための正しい道を見つけられず、ずっとこの塔で過ごしていたということだ。
「そういうことなら、嵐が止んだら俺がその村まで送って行ってやろう」
話を聞いて、吟遊詩人は言った。
「ありがとう、お兄さん」
子供は彼の申し出に、うれしそうに笑ってうなずく。
やがて四日目に嵐が止むと、吟遊詩人は子供を連れて塔の外に出た。
ところが、どれだけ進んでも街道が見つからないのだ。
(妙だな。……来た時には、さほど歩くことなく、塔にたどり着いたはずなのに……)
吟遊詩人は眉をひそめて胸に呟く。
だが、歩いても歩いてもあたりにはただ、うっそうとした森が広がるばかり。
ふと来た道をふり返れば、遠くの方にあの崩れた塔らしきものが見えている。
吟遊詩人が、これは何かの魔法にかかったかと怪しみ始めた時。
「お兄さん、俺を置いて行って」
獣人の子供が、つと足を止めて言った。
「お兄さん一人なら、きっとこの森を出られると思うから」
「おまえ……」
驚いて子供を見やる吟遊詩人に、子供は俯いていた顔を上げ、続ける。
「俺、この森から出ちゃいけないんだと思う。じいちゃんはああ言ったけど、神様は俺がここから出ることを喜ばないんだと思うんだ。だから……お兄さんは、一人で行って」
そのまま子供は踵を返した。
「あ……」
たった今自分を見上げた子供の、不安に揺れる琥珀色の目に、吟遊詩人は思わず呼び止めようとした。
だが、子供の背中にはどこか、それを拒絶するものがあって、彼はただ声なく子供を見送った。
獣人の子供と別れてしばらく行くと、森の木々は途切れ、目の前に街道が現れた。
驚きながらも吟遊詩人は歩を進め、街道をたどって、まずは子供が行こうとしていた村へと足を運んでみることにした。
村はそこからさほど遠くはなく、昼を少し過ぎたころには、到着した。
吟遊詩人は村長を訪ね、自分が森で出会った子供のことを告げる。
すると村長は驚いた顔になり、やがて深い溜息をついて呟いた。
「森の中の崩れた塔に住み着いた魔物とは、あれのことでしたか……」
「魔物? いや、さっきも言ったとおり、俺が出会ったのは、獣人の子供だが」
思わず眉をひそめて返す吟遊詩人に、村長は小さくかぶりをふる。
「その子供は、魔物なのです」
そして、村長は語った。
昔、村長には弟がいて、その弟には娘がいた。
村長の弟は娘を風にも当てないほど大切に育てていたが、十七になった年、誰の子ともわからない子供を孕んだ。
こんな小さな村では、未婚の娘が孕むなど、醜聞にしかならない。
おそらく、子供を産めば娘はこの村で生きていけなくなるだろう。
そう思った村長の弟は、ひそかに子供を堕ろすことを提案したが、娘は頑として言うことを聞かず、人目をはばかるようにして、出産した。
だが、生まれて来たのは魔物の子で、娘はそのまま死んでしまった。
魔物の子の祖父となった村長の弟は、娘の遺言にしたがって、赤子を育てることとなった。
とはいえむろん、この村の中で育てることはできない。
そこで村長の弟は森の中に小さな家を建て、そこで孫と共にくらし始めたのだという。
「……このしばらく、連絡が途絶えておりましたが、弟は亡くなっていたのですなあ……」
話し終えて、村長はどこか悲しげに呟いた。
そのあと村長は、弟とその孫の消息を伝えてくれた礼だと言って、吟遊詩人に一夜の宿を貸してくれた。
翌朝、吟遊詩人は村長の家を辞し、再び旅路に就いた。
旅立つ際に、子供をどうするのかと問う彼に、村長は迎えに行くつもりだと答えた。
それから季節一つ分が過ぎたころ。
吟遊詩人はある噂を耳にする。
件の村が川の氾濫によって村人ともども消えたこと。
それを魔物の仕業と考えた付近の人々によってあの森が焼き払われ、崩れた塔にも火がかけられて、今では塔の面影すらなくなってしまったということを。
人々は口々に、安堵の思いを口にする。
「魔物がいなくなって安心だ」
「気味の悪い声が聞こえなくなって、ぐっすり眠れる」
「焼き払われた森の跡には、領主様が砦を建てられるそうだ」
「砦ができて、兵士が来るなら、なお安心だ」
そんな人々に、吟遊詩人は歌う。
崩れた塔で自分が出会った、無邪気な子供のことを――。