低い声で祈りを唱えていた女は、ふと口をつぐみ、目を開けた。
耳を澄ますと、小さく雨音が聞こえる。
「雨……」
しわがれた低い声で呟きを漏らすと、女は再び目を閉じた。
女がいるのは、古い壊れかけた教会の礼拝堂の中だ。
さほど広い場所ではない。
二人掛けのベンチが十脚、二列に並び、その奥に小さな祭壇がある。
祭壇の奥の壁は、かつては壮麗なステンドグラスになっていたようだが、今はガラスのほとんどが割れてしまって、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
祭壇の左右に据えられた聖母とイエスの像もまた、腕や頭などが壊れ、埃と蜘蛛の巣とでひどいありさまだった。
更に、祭壇側の天井はいったい何があったのか、崩れ落ちてしまっている。
おかげで、ふり仰ぐと鈍色の空がわずかに覗け、今は細かな雨が壇上を濡らしていた。
幸い女は、その祭壇からは離れた場所にいた。
一番前のベンチに横たわり、目を閉じている。
ベンチの上も埃にまみれていたが、女は気にしていなかった。
というか――女の衣類もまた薄汚れていて、袖やスカートの裾は朽ちてボロボロで、気にしてもしようがないというのが、実情だった。
長い髪は白髪交じりで、後ろで束ねて編んでいるものの、長らく櫛を通していないのかボサボサだ。顔にも手にも深いしわが刻まれ、目元は落ちくぼんで頬はこけている。
そもそも、顔色がひどく悪い。
そう。女は、死にかけていた。
「……天使様のお迎えが来ようって時に、この教会にたどり着くなんて……ねぇ……」
女は低く呟き、口元にかすかに笑みを浮かべる。
女にとって、この朽ちた教会は、知らない場所ではなかったのだ。
この教会が建てられたころ、女は生まれた。
女が生まれたのは小さな村で、信心深い村人たちは、長い間村に教会が欲しいと望んでいた。
その念願がかなってようやくこの教会が建てられ、そして神父がやって来たあとに、女は生まれたのだ。
「この教会で初めて洗礼を受けたのが、あなたなのよ」
女が幼いころ、女の母はよくそう言って、その時の様子を語ってくれたものだ。
教会がなかったころ、村人たちは少し離れた町まで出かけていた。
葬儀の時にはさすがに、その町の神父が来てくれたが、洗礼や日曜の礼拝は出かけて行くしかなく、子供連れの者や足腰の悪い老人にとっては、大変なことだったらしい。
だが、教会ができて駐在の神父が来てくれて、村人たちはいつでも祈りたい時に教会に出向くことができるようになったのだと。
そして、そこで最初に洗礼を受けたのがあなただと、母は誇らしげな顔で締めくくるのが常だった。
母のその様子のせいか、幼いころの女は、自分は特別な子供なのだと思っていた。
実際、村人たちも、彼女に対しては親切で優しかったから、女はよけいにその思いを強くした。
もっとも、村人たちが彼女に親切で優しかったのは、別の理由があったけれど。
このころ村には女の子が少なく、彼女は男の子のいる村人からは、有力な嫁候補と見られていたのだった。
ちなみに、彼女の母は黒髪と青い目の美人で、料理や裁縫にも長けていたため、村では器量良しだと評判だった。彼女はその母によく似ていて、村人たちからはそこも期待されていた原因の一つだった。
そのまま何事もなければきっと、女はこの村で成長し、年の近い村の男と結婚して、母と同じような評判を得ながら幸せにくらしたことだろう。
けれど。
女が十歳になるころ、村はなくなってしまった。
何日も日照りが続き、飢えと渇きで村人たちは次々と死んで行き、村から人が絶えてしまったのだ。
女の父も母も、教会の神父も死んだ。
女は死にかけているところを、かろうじて旅の商人に助けられた。
女は、助けてくれた商人の家の下働きになった。
十歳から二十を過ぎるころまでを、都に住む商人の元で下働きとして過ごした。
商人の家は裕福で、彼もその妻も寛容な人物だったので、そこでの日々はそこまで辛いものではなかった。
かつて村人たちが期待していたように、女は手先が器用で料理も裁縫も得意だったので、商人の妻からは重宝されていた。
「おまえもそろそろ、先のことを考えないとね。いい人はいないのかい?」
十五を過ぎると、商人の妻は、女にそう尋ねた。
女がいないと言うと、「それじゃあ、私が誰か探してあげよう」と商人の妻は、彼女の夫探しを始めた。
きっと何事もなければ、女はそのまま、年と身分が釣り合う男と一緒になって、商人の元でずっと働き続けるか、何人か子供を産んで良い母親になっていただろう。
けれど。
女が二十になる前に、商人とその妻は流行り病で死んだ。
商売は息子が継いで続けたけれど、父親ほどの商才がなかったものか、家は傾いて行くばかり。
とうとう、女が二十を過ぎるころには店をたたんで田舎に移ることになった。
女は他の下働きと共に解雇され、都で一人、途方にくれた。
そんな女に声をかけたのは、昔、商人の家で働いていたという男だった。
住む場所と仕事を紹介してやると言われ、男についって行った女がたどり着いたのは、いわゆる売春宿だった。
この時代、春を売るのは若い方がよく、女はすでにそうした仕事をするには年が行きすぎていると思われた。
だがここでは、母親ゆずりの容貌が仇となった。
宿の主が女の容色を気に入って、彼女を買い取ったのだ。
そしてそのまま女は、宿の主の妾となった。
妾とはいっても、金で買われた身だ。
しかも主には正妻がいたから、女は名目上はここでも下働きだった。
ただし、給金はなく、以前とは違って正妻からもひどい仕打ちを受けることが多く、女は次第にすさんで行った。
女が売春宿の主に買われて、五年が過ぎるころ。
何やら違法なことをしたとて、宿に役所の手が入った。
そのどさくさに紛れて、女は売春宿を逃げ出した。
そのあとの日々は、物乞いとして生きた。
売春宿での日々は、女の外見を著しく変えていた。
黒く美しかった髪は艶を失い、白髪だらけになっていた。肌もシミとシワでひどいありさまで、とてもまだ三十前には見えなかった。
おまけに、左手は正妻の折檻のために指が曲がってろくに動かない状態だ。
無事な右手と合わせても、もはや昔のように巧みに針や包丁を操ることはできなかった。
「神様……私がいったい、何をしたというのですか。私は、どうやって生きて行けばいいのですか……」
絶望した女は、売春宿を逃げ出したあと、そう神に祈ったものだった。
けれど答えは得られず、彼女はただ唯一自分にできることとして、他人にものをもらって生きることにしたのだった。
それから、長い年月が過ぎた。
年老いた女は病のために物乞いすらできなくなって、今この朽ちた教会にいた。
女は盗みだけは働いたことがなかったが、物乞いを盗人と同様に考える人々に追われて、街から街を渡り歩くうち、かつて故郷の村があったここへとたどり着いていたのだった。
目を閉じた女の脳裏に、かつて美しかった教会の様子が浮かぶ。
白く高い天井と、色とりどりのステンドグラスから射し込む、荘厳な光。
祭壇の左右には、白い石で造られた聖母像とイエス像が並んでいる。
きれいに磨かれた祭壇の上には、清潔な法衣をまとった神父が立って、聖書を手に神の教えをその場に集まった人々に語っている。
木のベンチはスベスベにやすりがかけられ、いい匂いがしていた。
そこに座って神父の話を聞いているのは、生まれた時から知っている村人たち。
どの顔も喜びに輝き、神父の話に真剣に聞き入っている。
「……母さん、父さん」
女の口から、低い声が漏れた。
ベンチに座る幼子姿の女の左右には、父と母がいた。
二人とも笑顔で彼女を見やると、祭壇へと視線を巡らせる。
「母さん、父さん……」
女の口から、もう一度呟きが漏れた。
深いしわの刻まれた頬を、涙が一筋、伝って行く。
あの時なぜ、自分は生き残ってしまったのだろう。
なぜ両親や村の人々と共に死ななかったのだろう。
売春宿の主に買われたあと、それからそこを逃げ出したあと。
女は何度も何度も思ったものだ。
あの時に死んでいれば、自分は幸せなままだったのにと。
だがそれも、もうすぐ終わる。
「神様……。最後にここへ連れて来てくだすって、ありがとうございました……」
吐息のように呟いて、女はそのまま、眠るようにこと切れたのだった――。