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第8話 水没都市

 岸壁に打ち寄せる波の静かな音と、耳元をくすぐる風が心地いい。

 鼻につく磯の香りは好きになれないけれど、雲間から射し込む光が海面を輝かせている光景は、絵画のようで悪くないと思える。

 私は小さく伸びをすると、リュックを背負い直して、波打ち際へと足を向けた。

 ここは俗に『水没都市』と呼ばれている。

 大きく亀裂が入り、ところどころ陥没した道路と、立ってはいるものの窓からは大量に水を吐き出す使い物にならない数多のビルたち。倒壊し、海中から頭だけ出ている瓦礫と化した建物。

 周囲はそういったもので囲まれている。

 この付近は、二十一世紀に頻繁に起こった地震による地盤沈下と、温暖化による海面上昇によって本来都市だったものが、半水没してできた地域なのだ。

 波打ち際には、友人の真央が今日のために用意してくれたボートが浮かんでいる。

「おはよう」

「おはよう。雨、降らなくてよかったね」

 声をかけると、ボートの上から真央が笑顔で返して来る。

 ボートには、真央の他に二人、人がいた。

 一人はボートの操縦者である柳瀬さん。もう一人は、真央と同じく友人でカメラマンの尚樹だ。

「今日は、よろしくお願いします」

 柳瀬さんと尚樹に挨拶して、私はボートに乗り込んだ。

「それじゃ、行くぞ」

 私に軽く手をふってみせて、柳瀬さんが言うと、ボートをスタートさせた。

 目的地は少し先に小さく埠頭のように見えている、水没したビルの頭部とそこから続く陸地だった。さほど遠い距離ではないが、泳ぐには水温が低い上に、水深も深い。乗り物を使う方が安全だ。とはいえ、空中を自由に移動できるホバギーはレンタルでもけっこう高い。

 そんなわけで、ボートを借りることになったわけだ。


 ほんの数分で、目的地へと到着した。

 水没したビルはずいぶんと傾いていて、側面が海面に出た状態になっている。

 が、ボートをつけるにはちょうどいい。

 私たちはその一画でボートを降りて、側面を滑らないように気をつけて歩き、ビルの頭頂部へと登った。

 そこと目の前に続く陸地との間には、わずかに隙間があって、板が渡されている。

 一応手すりもついているが狭いし、水面からはかなり高い位置にあるので、けっこう怖い。

 柳瀬さんをボートに残して、私と真央と尚樹は、一人ずつその板を渡って陸地へと向かった。

 ようやくしっかりした地面のある広い場所に着いて、私たちは安堵の息をつく。

 そこも草ぼうぼうだったし、コンクリートの地面は割れたりひびが入ったり剥がれたりしていたけれど、それでもとりあえず落ちる心配はないのだから、安心だ。

 海辺から少し離れた場所に移動すると、まずは簡易テントを立てた。

 テントは真央が持って来てくれていたもので、主に私の着替え用の場所だ。

 その中で、私と真央が用意している間に、外では尚樹がカメラを準備する。

 私たちがここに来た目的。それは、コスプレ写真の撮影だ。

 コスプレ――コスチュームプレイは、二十世紀の終わりごろから盛んになったアートだ。

 最初のころは、主にアニメやゲームのファンが、自分の好きなキャラクターとの一体感を得るために、その扮装をするものだった。

 当時はかなりマニアックな趣味だったらしいが、二十一世紀前半には徐々に市民権を得るようになり、それから半世紀が過ぎた今では、誰もが楽しめるアートとなった。

 今でも主流はアニメやゲームキャラの扮装だが、自分の考えたオリジナルのキャラクターや世界観を中心にする者や、それを他の者とシェアする者もいて、なかなか楽しい。


 用意が整って、私はテントの外に出た。

 今日の私のコスプレは、ゲームキャラクターのものだ。

 黒いベルベットのゴシック風のドレスと、ミニハット、かかとの高いショートブーツ。

 腰には二本の剣を吊るしている。

 何本もの縦ロールのある銀色の長い髪は、もちろんウィッグだ。

 二十一世紀前半に作られ、最近リメイクされたゲーム『Lost Eden』。

 最近の私の推しは、そのゲームのプレイヤーキャラクターの一人、『エム』だ。

 そしてこれは、そのエムのコスプレ、というわけだ。

「今日はいつもにも増して、気合が入ってるなあ」

 出て来た私を見て、尚樹が小さく口笛を吹いて言う。

「当然でしょ。こんなゲームの舞台まんまの所に来たら、いやでも気合入るってものよ」

 私は笑って返した。

 そうなのだ。

 ここは、ゲームの中に登場するその名も同じ『水没都市』そっくりだった。

 一部では、ここがあの場所のモデルだと言われている。

 ただ、ゲームのオリジナルが作られたのは五十年以上前で、当時ここはまだごく普通の海辺の街にすぎなかったのだ。

 リメイクとはいえ、ゲーム中のステージは全てオリジナルのままだという話なので、そうではなくて、本当に偶然ここがそっくりな場所だっただけなのだろうと私は思っている。

 ともあれ。

 そんな場所にエムのコスで立つと、自分が本当にあのゲームの中にいるようで、ものすごくテンションが上がるのを感じる。

 真央が、レフ板を持ってこちらへやって来た。

「それじゃ、尚樹、真央。よろしくお願いします」

 それを見て、私は二人に改めて一礼する。

「はい。よろしく」

「おう、まかせとけ」

 真央が笑って答え、尚樹がうなずいてカメラを構えた。

 さっそく、撮影が始まる。

 現在のコスプレ活動は、レイヤーたちが集まるイベントに参加する他に、撮影した写真をSNSや自分のブログ・サイトなどに掲載するもの、映像化して専用サイトにアップしたり、ブルーレイとして販売・配布したりするものがある。

 どれも、昔に較べるとずいぶんと手軽になったと聞いている。

 イベントも、会場が遠くて行けない場合、オンラインを通じて参加する方法もあったりで、そういう手段がなかったころよりは、各段に参加しやすくなっているらしい。

 私は、カメラの前でさまざまなポーズを取って行く。

 ゲームの場面を思い出しながら、剣を抜いて構えたり、ふり返ったり。

 エムのコスをやるようになって、いわゆる殺陣たてというものを習ってみたりもした。

 今のコスプレ界隈には、実際、なんでもそろっている。

 衣装やウィッグなどを扱う店は、すでに二十世紀末からあったらしいが、今では武器や小物類など、なんでもそろうし、必要に応じて技術を学ぶこともできた。

 たとえば、衣装を自分で作りたいと思えば、コスプレ衣装専門に教えてくれる学校や個人の教師がいる。中には自分もレイヤーで、技術を学びたい者に教えている、なんて人もいる。

 私が殺陣を習った先生もそういう人で、自分のコスキャラをかっこよく見せたくて最初は独学だったと言っていた。

 私がエムのコスをしていることを伝えると、彼女の動きをまねするためのアドバイスをくれたり、ゲーム内の技を再現する方法を教えてくれたりした。


 昼を過ぎたころ。

 海の向こうの空に、ぽつぽつと黒い雲が現れ始めた。

 風が湿り気を帯びて、強くなっている。

「そろそろ、撤収した方がよくね?」

 尚樹が、カメラを下ろして私を見た。

 と、ボートの方にいた柳瀬さんが、こちらに上がって来るのが見える。

「嬢ちゃんたち、そろそろ戻らないか? 空模様が良くない」

 近づいて来て、言った。

「たしかに、戻った方がよさそう。降水確率九十パーセント、だって」

 ちらりとスマートフォンを見た真央が、うなずく。

 スマートフォンで見られる気象予報は、今ではずいぶんと正確だ。

「そうね。終わりにしようか」

 私もうなずき、着替えて来ると断って、テントの方へと向かった。

 真央が手早くレフ板をかたずけて、私のあとに続く。

 私はテントに入ると、彼女に手伝ってもらってウイッグをはずし、衣装を脱いで着替える。化粧はボートの中でも落とせるのでそのままにして、真央を手伝ってテントをたたんだ。

 撤収が終わってボートに戻った時には、空は真っ黒な雲におおわれていた。

 風もずいぶんと強くなっている。

 私たちが乗ったのを確認して、柳瀬さんがボートを出した。

 来る時と違って、ボートはけっこう揺れている。

 それでも、さほど時間もかからずに、朝と同じ波打ち際へと到着した。

 ボートを降りて、ふと今まで自分たちがいた方をふり返る。

 波が大きくうねり、水没したビルにぶつかっては高くしぶきを上げていた。

 ついさっき私たちが渡った板が、打ち寄せる波に飲まれているのが見える。

 水平線に目をやれば、そちらも真っ黒な雲の下、暗い海の上に白い波がいくつもできていた。

 私の脳裏に、ゲームの一場面が浮かぶ。

 海の底で長い間眠っていたモンスターが、地上で行われている天使と悪魔の戦いによって目覚め、現れるそのシーンだ。

 巨大な魚の外見を持つモンスターと、それへ必死に戦いを挑むエムたち。

「尚樹……!」

 ふり返り、ここを撮ってと言いかけた私は、思わず口をつぐんだ。

 尚樹はすでに、水平線に向かってカメラを構えていたのだ。

「何?」

 何度かシャッターを切ってから尋ねる彼に、私はかぶりをふる。

「なんでもない」

 その時、空からパラパラと大粒の雨がこぼれて来た。

「二人とも、急ごう!」

 真央に言われて、私たちは走り出す。

 その後ろで、水没都市が静かに雨の幕に包まれ、遠くなって行った――。

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