ビルとビルの間を渡って行く風が、いやな音を立てていた。
俺は足を止め、つと上空を見上げる。
薄汚れ、大きな亀裂がいくつも走る崩れかけた壁と壁の間に、厚い雲におおわれた鈍色の空が広がっていた。
(どこもここも、薄汚れた灰色だ)
俺は小さく肩をすくめて胸に呟くと、再び歩き出した。
そこは、とある地方都市のはずれに広がる一画だ。
ほんの十数年前までは、この都市で最も賑やかで人の多い場所だと言われていた。
何十階もある高いビルがいくつも建ち並び、その間を広々とした道路が走る。
ビルの用途はさまざまで、多くの人々が住むマンションから、大きな会社のオフィス、雑多なものを売る店舗に飲食店の数々。街のはずれには映画館があって、その周辺には賭け事を扱う店や大人たちのための場所――いわゆる歓楽街が広がっていた。
だが、今そこにあるのはいくつもの崩れかけたビルの群れだけだ。
道路もすっかり朽ちてひび割れ、伸びた草や苔におおわれてしまっている。
おかげで、車もバイクもまともに走れないと知り、俺は街の入口にバイクを置いてこうして歩いているわけだ。
昔、まだここが賑やかだったころ、俺はこの街に住んでいた。
俺の父親が働いていた会社が、ビル群の中の一画にあるマンションを買い上げて、社員のための家として提供していたらしい。
それで、子供だった俺と両親は、そのマンションの一部屋でくらしていたのだ。
当時の俺の家は、十何階建てのマンションの五階だか六階だかにあった。
毎朝エレベーターで一階まで降りて、そこから歩いて駅まで向かい、電車で一駅の小学校へ通っていた。
もちろんそれは、俺一人じゃない。
なにしろ社宅なわけだから、同じ階にも同じビルにも、俺と同じ小学校に通っている子供は大勢いた。
その中には知らない奴もいたし、知ってる奴も、友達もいた。
もっとも、俺がそうやってここでくらしていたのは、小学校の四年生ぐらいまでだっただろう。
俺が五年生になるころには、この街も、そして父親の会社も景気が悪くなっていたらしい。
俺たち一家は社宅を出て、小学校のある街のアパートへ引っ越した。
そこも一応は会社の持ち物で『社宅』ではあったらしいが、それまでくらしていたマンションとは大違いの古くて狭い部屋だった。
それはともかく。
俺が今日ここに来たのは、このビル群が近々取り壊されることになったと知ったからだ。
建物を取り壊すには、金がいる。
その数が多ければ多いほど、必要な金は膨大だ。
市はその金を捻出できなくて、長い年月ここを放置して来たらしい。
だが、最近になってようやくあたり一帯の再開発計画にメドがついたようだ。
とある企業が費用を半分出すことになったのだ。
それを聞いて俺は、ここに来た。
子供時代の思い出の場所をもう一度見ておきたかった、というのもある。
だがそれよりも――俺はここに、心残りというか後悔ともいうべきことがあったからだ。
俺がここに住んでいたころ、近くのビルに『やっちゃん』と呼ばれる若い男が住んでいた。
住んでいたというか……今思うと、いわゆるホームレスだったんだろうと思う。
年は二十代後半から三十代はじめのいくつとも取れた。
坊主頭に長袖のTシャツとGパンという格好で、冬はその上から薄いパーカーを羽織っていた。背中には古びたリュックを背負っていて、その中には彼の全財産が入っているらしかった。
やっちゃんは普段は俺の住むビルから二つ三つ離れた場所にあるビルの一階にいた。
そこはたしか雑居ビルで、一階はロビーみたいになっていて誰でも自由に入れたのだ。二階より上は、小さな企業のオフィスだったり、個人経営の事務所や店だったりといった感じだったが、全体にあまり人のいない建物だった。
だから、やっちゃんが住み着くこともできたのかもしれない。
やっちゃんは、まるで幼児のようだった。
言葉もうまく話せないし、文字の読み書きはもちろん、数を数えたりすることもちゃんとできなくて――だから正直、俺たちそのビル界隈に住む小学生は皆、彼のことをバカにしていた。
俺や俺の友人たちは、せいぜいからかったりする程度だったけど、中には彼を小突き回したりものを投げたりとあからさまな嫌がらせをする者もいたほどだ。
もっとも、大人になった今となっては、それはどちらも彼を一人の人間として扱っていないという点では変わらないと思いはするのだが。
ちなみに、そのビルに出入りする大人たちは、やっちゃんの存在には無関心だった。
彼が一階のロビーで寝起きしているのを見ても、追い出そうとする人もいないかわりに、彼に話しかけたり食べ物をあげたりするような人もいなかった。
なので、彼からすれば、近隣の小学生たちは、たとえからかったり嫌がらせをされても、かまってくれていると感じていたのかもしれない。
そんな中、どういうわけかやっちゃんは、俺に殊更なついていた。
特別親切にしたとか、優しくしたとかではなかったのに、彼は何かと俺にお菓子やジュースをくれようとする。
だが、俺はいつもそれを受け取らなかった。
彼がどうやってそれらを手に入れているのかわからなかったし、一緒の友人たちにからかわれるのもイヤだったのだ。
正直、子供心にも彼が普通に働いて生活しているのではないことは、理解していた。
「やっちゃん、屑拾いしてお金もらってるんだってさ」
友人の一人は、誰に聞いたのか、彼についてそう言っていた。
「俺は、東の方のビルの掃除をして食べ物もらってるんだって聞いたことある」
「私もその話は聞いたわ。窓拭きとか、ちょっと危険なこともやってるんですって」
その話に、他の友人たちも口々に言う。
――やっぱり、そうなんだ。
その話を聞いて、俺は自分の考えが間違っていなかったことを知ったものだった。
俺は結局一度も、やっちゃんからお菓子もジュースも受け取らなかった。
それなのに彼は、俺を見るたび「これ、美味しいよ」とか「これ、やる」とお菓子やジュースを差し出す。
そのうち俺は、そうされることにうんざりし、彼に会うのがイヤになった。
それで俺は、あからさまに彼を避けるようになった。
そんなある日。
たまたま母とでかけた先で、やっちゃんに会った。
そこはケーキ屋で、出入口の傍にはガラス張りのショーウィンドーがあって、綺麗で美味しそうなケーキが並んでいる。
やっちゃんはそのショーウィンドーの前にいて、ガラスに張り付くようにして中のケーキを見つめていた。
俺はその姿に驚いて、一瞬足を止めた。
気づかれないように中に入ろうとしたのに、向こうはこっちを見ると、嬉しそうに笑いながら歩み寄って来る。
「ケーキ、買う?」
笑顔のまま、舌足らずに問われて俺は、一瞬言葉に迷う。
母は俺が立ち止まったのに気づかず、店の中に入ってしまった。
「あ……えっと……そ、そうだよ。ケーキを買いに来たんだ。急ぐから、またな」
俺はなんとか言葉を押し出し、慌てて母のあとを追う。
店に入ってそっと外を見ると、やっちゃんはなんとなく寂しげな顔をしてこちらを見つめ、立ち尽くしていた。
その翌日。
俺はなんとなく気になって、やっちゃんのいるビルへと一人で出かけた。
あの店のケーキは高価で、俺も特別な時にしか買ってもらえないものだった。
そもそもあの日だって母は、親戚のおばさんが遊びに来るからって、ケーキを買いに行ったのだから。
そんなケーキを、やっちゃんが買えるはずがない。
なのに、店の前にいた。
そのことが、気になっていたのだ。
ビルに行くと、一階のロビーにいつもどおり、やっちゃんはいた。
俺の姿を見ると彼は、嬉しそうに笑いながら歩み寄って来る。
「昨日、なんであんな所にいたんだ? お高いケーキ屋の前にいただろ」
俺が訊くと、彼は笑った。
「ケーキ、見るの好き。甘いクリーム、果物一杯。赤とか、黄色とか、きれいで、いい匂いする」
「見るだけか? 食べるのは?」
「好き。でも、食べられない」
俺が尋ねると、彼は少しだけ悲しげな顔になって、首をふる。
彼のたどたどしい言葉から俺は、彼が食べたくても高くて食べられないケーキを見るために、時おりあの店に行っていることを知った。
その時俺の胸に湧いた気持ちを、なんと言ったらいいのだろうか。
苛立ち、憐憫、痛ましさ、怒り。
そのどれでもあるような、どれでもないような。
あるいはもっと下世話な、優越感のようなものだったのだろうか。
なんにせよ、よくわからない感情が込み上げて来た。
「おまえ、なんでいつも俺にお菓子とかジュースをくれようとするんだよ? 好きなケーキも食べられないくせに、人にものをやる余裕なんか、ないだろ」
きつい口調で言うと、彼はふいにへらっと笑った。
「ぼく、きみとともだちになりたいから。ともだち、プレゼントする。むかし、教えてもらった」
その言葉に、俺は一瞬胸を突かれた。
だが、次にはそのことに苛立ちと、強い怒りを感じた。
なぜだ、と思った。
俺も、他の子供たちと変わらない。
彼を蔑んでいたし、からかってバカにしていた。
彼が自分に示す好意を疎ましいと感じ、拒絶し、無視しようとしていた。
それなのに。
「わかったよ」
俺は、言った。
きっと、誰か見ている者がいたら、俺の口元にはひどくゆがんだ笑みが浮かんでいたに違いない。
「じゃあ、俺からもプレゼントだ。明日、昨日の店のケーキを買って来てやるから、ここの屋上で待ってろ。見晴らしのいいところで、ケーキパーティーをやろう」
やっちゃんは、聞くなり目をまんまるく見開いた。
でもすぐに、満面を笑顔にして大きくうなずく。
「うん、わかった!」
答える声もはずんでいた。
その声と顔に、再び苛立ちと怒りを募らせながら、俺は背を向けた。
もちろん、俺は翌日、そのビルの屋上には行かなかった。
あの店のケーキを俺の小遣いなんかで買えるわけはなく――俺は最初から、ケーキを買う気も約束の場所へ行く気もなかったのだ。
しばらくして、友人たちからやっちゃんの姿が見えなくなったと聞いた。
俺は、俺に嘘をつかれたと気づいた彼が、住処を変えたのだろう、ぐらいに思ってわずかに溜飲を下げたものだ。
もっとも、少しだけ寂しいような奇妙な気持ちもあったけれど。
今俺は、その時やっちゃんに待っていろと言ったビルの屋上にいた。
傾いたビルはもちろんエレベーターも止まっていて、俺はえっちらおっちらと階段を昇り、肩を喘がせながら屋上まで来た。
屋上の扉は壊れて難なく開き、床を形成するコンクリートはひび割れて、そこここに雑草や苔が生えている。だが、それ以外は何もない。
俺はあたりを見回しながら、ゆっくりと歩き始めた。
扉は、屋上の中央に設置された給水塔の土台の一画に作られていた。
コンクリート製の四角い塊に見えるその周辺を、俺は一周する。
扉の傍に戻って俺は、つと上を見上げた。
傾き、ところどころ崩れた塊の上には、錆びついた鉄球が乗っている。
給水用の貯水タンクだ。
そして、土台の壁にはそこへ向かうための鉄の梯子が取りつけられていた。
これも錆びている上に、ところどころゆがんだり朽ちて切れたり折れたりしていて、昇るのはかなり危険だと思えた。
だが俺は、その梯子に手をかけた。
ゆっくりと気をつけながら、昇って行く。
なんとかタンクの所まで昇り終え、俺は大きく息をついて額の汗をぬぐった。
そして、前方を見やる。
巨大な貯水タンクの足元にうずくまる、白いものが見えた。
俺は、そちらに歩み寄る。
それは、白骨だった。
ボロボロになった長袖のTシャツとGパンを着て、足には薄汚れたスニーカーを履いている。
傍にはこれまたボロボロの、黒く汚れたリュックが置かれていた。
「……やっちゃん」
俺は、思わず低く呟いて、その場に膝をついた。
やっちゃんがこのビルのロビーから姿を消したあと、屋上にいたらしいと知ったのは、昨年のことだ。
小学校の同窓会で十数年ぶりに会った友人の一人が言ったのだ。
あのあとやっちゃんを、屋上で見かけた人が何人かいると。
友人の会社の先輩が、たまたま昔このビルにある事務所で働いていたことがあって、その当時のことを話す機会があったおりに、教えてくれたのだそうだ。
つまり、やっちゃんはあのあとどこかに行ってしまったわけではなくて、ずっと屋上で俺が来るのを待っていたのではないか――その可能性に気づいたのは、同窓会が終わって家に帰ったあとのことだ。
そのあと俺は、なんとかしてやっちゃんの消息を知ろうとした。
けど、消息なんてわかるはずがない。
俺は彼の本当の名前すら知らなかったんだから。
この街は打ち捨てられ、役所も何もなくなっている。
いや、あったところで、本名すらわからない人間のことなんて、尋ねようがない。
結局俺は、胸の奥にモヤモヤを抱えたまま、一年を過ごした。
そんな中、このビル群が取り壊されるという話を耳にしたのだ。
やっちゃんがどうなったのか確かめるためには、もうここに足を運ぶしかない。
そう思って、やって来た。
同窓会で友人が教えてくれた話では、やっちゃんは屋上のこの給水塔の周辺で見かけた人が多かったらしい。中には、ビルから追い出そうとした人もいて、その時には貯水タンクの方へと梯子を昇って逃げたとも言っていた。
だから、この周辺を探したわけだが――。
「やっちゃん……」
まさか、あんたはずっとここにいたのか。
ここで、俺がケーキを買って持って来るのを、ずっと待っていたのか。
こんな、何もないところで。
「すまない」
俺は額を地面にこすりつけるようにして、頭を下げた。
「ちょっとした悪戯……いや、意地悪のつもりだったんだ。本当に、すまなかった」
頭を上げると俺は、手にした袋からケーキを取り出す。
白骨死体の前に、それを置いた。
「約束のケーキだ。……あの店はもうないから、他の店のだが、味は保証する」
言って俺は、もう一度頭を下げると、立ち上がった。
こんなことで、俺の罪が消えるとは思えない。
たとえこのビル群が取り壊されなくなっても、罪は罪だ。
それでも俺は、こうせずにはいられなかった。
ビルの谷間を渡って行く風が、悲しげな音を奏でる。
俺はそれを聞きながら、ポケットから取り出した携帯電話の番号をタップする。
やっちゃんの死体がここにあることを、警察に伝えるために。
俺の罪を、暴くために――。