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第2話 廃ホテル

 凄まじい轟音と共に雨が地面を叩きつける。

 なんとか屋根のついた駐輪場に滑り込み、俺は思わず吐息をついた。

 バイクを降りてしばらく待ってみたものの、雨は止みそうにない。

 少し考え、俺はバイクをそこに停めたまま、屋根伝いに歩き出した。

 ここに入って来た時目にした看板には、温泉とかホテルとかいった文字が並んでいたように思う。

 とにかく雨をしのぐことしか考えていなかったから、看板をちゃんと見たわけではないが、温泉付きのホテルとかなら、しばらく休んで行くこともできるだろう。もしこのまま雨が降り続くようなら、一泊して明日の朝、出発することにしてもいい。

 取材の帰りとはいえ、そこまで急ぐ必要はない旅だ。

 俺は駐輪場からそのまま軒先を伝うようにして、建物の玄関へとたどり着いた。

 石造りの広々とした玄関には名前を掲げた看板が出ていて、やはりホテルのようだった。

 ただ、ガラスの自動ドアから覗けるロビーは暗く、人の気配もない。

(電気がついてない……? 営業してないってことか?)

 俺は思わず眉をひそめ、自動ドアへと歩み寄った。

 だが、ドアは開く気配もない。

 ドアとドアの間に手をかけると、動く。

 どうやら、電気が通っていないだけで、鍵はかかっていないようだ。

 俺はそのままドアを動かして、中へと滑り込んだ。

 ロビーは薄暗く、しんと静まり返っている。

 俺は、背中のリュックの中から、懐中電灯を出してあたりを照らしてみた。

 なぜこんなものを持っているかというと、取材先が地下に掘られた穴倉だったからだ。

 俺の仕事は、不思議な出来事やものを紹介するweb雑誌のライターだ。

 今回の取材は、とある屋敷の庭の地下に掘られた穴倉を調査する、というものだった。

 なので、懐中電灯やらロープやら軍手やらといったもの一式を装備していたわけだ。

 電灯の光に照らし出されたそこは、どう見ても営業しているとはいいがたい風情だった。

 床にはうっすらと埃が積もっていたし、天井の隅には蜘蛛の巣がいくつもかかっているのが見える。

(廃業したホテル……とかなのか?)

 俺は胸に呟きつつ、奥のカウンターへと歩み寄った。

 そこには、いかにも重そうな錆びついた鉄のレジスターが据えられている。

 カウンター内には狭いスペースがあって、後ろには棚があり、その手前には電話が置かれてあった。

 だが、ここにも人の姿はなく、どこもここもうっすらと埃が積もっているばかりだ。

 さほど荒れ果てていないところを見ると、廃業してからそれほど年月は経っていないのかもしれない。

 とはいえ、営業していないのは事実で、俺の思惑はあっさりと消え去ってしまった。

「……さて、どうしたものか……」

 思わず声に出して呟き、俺は外に視線を向ける。

 雨は相変わらずすごい勢いで降り続けており、止む気配もない。

 少し考え、俺は雨の中をバイクで走り続けることよりも、廃業したホテルで一夜を過ごすことを選んだ。

 とりあえず、休める場所を探すことにして、俺は歩き出す。

 カウンターから中へと向かう廊下を進むと、すぐに左右二手に分かれる分岐にぶつかった。

 壁に残された案内板によると、左に進むと食堂、右に進むと浴場に行くらしい。

 どうやら一階には客室はないようだ。

 思わず眉をひそめた俺は、カウンターのすぐ傍にエレベーターがあったことを思い出した。

 電気が通ってないならエレベーターは使えないだろうが、きっとその近くに階段があるはずだ。

 俺は踵を返すと、エレベーターの所まで戻ってみた。

 よく見ると、エレベーターの隣に非常階段へと続くドアがある。

 俺はそれをくぐって、階段を昇り始めた。

 二階にたどり着くと、エレベーターホールから一番近い部屋のドアを開いてみる。

 シングルらしい室内は、ベッドが一つと丸いテーブルと椅子、チェストがあるだけの、シンプルな作りだった。

 懐中電灯の光で見ると、壊れたものなどもなく、埃が積もっていることを除けば、営業中だと言われてもうなずけそうな雰囲気だ。

 ベッドには敷パッドや掛布団はなかったが、マットレスは残されている。

 一晩ぐらいならここに横になって眠ることができそうだ。

 俺は、やれやれと溜息をついて、窓際へと寄った。

 カーテンはなく、広々とした一枚ガラスのドアの向こうには小さなベランダというか、バルコニーのようなスペースが広がっている。

 だが、ドアを開けて外に出るのはやめた。

 雨は来た時よりも更にひどくなっていて、バルコニーの上に施された庇が役に立たないほどだったからだ。

 懐中電灯に照らし出されたバルコニーの床はびしょ濡れで、ガラスドアにも水滴がいくつもついている。

 それを見て、俺はもう一度溜息をつく。

 たとえ廃ホテルだとしても、屋根のある所に逃げ込めた俺は、少しは幸運だったのだろうと考えた。

 窓際を離れると俺は、途中のコンビニで買った新聞紙をリュックから出して、ベッドの上に敷いた。

 この暗闇の中で埃を払うよりも、この方が効率的だろう。

 その上に腰を下ろして、リュックの中身を広げる。

 幸い、新聞と共にコンビニでペットボトルのお茶と食べ物を少し、買っていた。

 なので、飢える心配はない。

 スマートフォンで時間を確認すると、雨が降り始めてからそろそろ一時間が経とうとしていた。

 建物の中が暗いせいで感覚がおかしくなっているが、実際には日が落ちるにはまだ早い。

(夏でよかったというべきかな……。朝には、雨が止んでるといいんだが……)

 俺は胸に呟き、スマートフォンで天気予報を確認し始めた。


 どこかで靴音のようなものが響いていた。

 俺は目を開け、固く強張った体を動かし、起き上がる。

 外からは、相変わらず大雨のたてる轟音が響いていた。

 あのあと食事を済ませた俺は、ベッドに横になり――そのまま眠ってしまっていたようだ。

(靴音……?)

 耳を澄ますと、音はまだ続いている。

 廊下をゆっくりと遠ざかって行くかのように、音はさっき聞いたよりも小さくなっている気がした。

(誰かいるのか? ここに?)

 俺は思わず立ち上がると、懐中電灯をつかんで部屋の外へと駆け出した。

 音のする方へ、点灯した懐中電灯を向けて叫ぶ。

「おい! 誰かいるのか!」

 同時に靴音は止まり、懐中電灯の光の中に黒い影がふり返るのが見えた。

 相手が、軽く手を上げて頭をかばう仕草をする。

「まぶしいな。……そっちこそ誰だ?」

 返って来たのは、男の声だった。

 俺は慌てて懐中電灯を下げ、答える。

「俺は、この雨でここに迷い込んだ者だ。表の看板を見て温泉付きのホテルだと思ったら、すでに廃業しているようだったから、とりあえず宿だけ貸してもらっている。そっちは?」

「俺は――ここに住んでるんだ。いわゆる、ホームレスってやつさ」

 問い返すと、相手は小さく肩をすくめて言った。

「ホームレス……」

 その言葉に驚いて、俺は思わず呟く。

 だがすぐに、昔どこかで聞いた話を思い出した。

 廃業したホテルや人が住まなくなったアパートやマンションには、時おりそういう住む場所のない者たちが住み着くと。

「あんた一人なのか?」

 俺は尋ねた。

「ああ」

 男がうなずく。

 そして、ゆっくりとこちらに歩み寄って来た。

 おかげで、相手の顔や服装がはっきりと見える。

 年は四十代後半から五十代というところだろうか。

 髪は短く整えられていて、鼠色のスラックスにくすんだ空色のポロシャツ、紺色のジャンパーといった恰好だった。手には指先のない軍手を履いている。

「あんた、なんか食べるものを持ってないか?」

 問われて俺は、肩をすくめる。

「残念ながら。持ってたやつは、ここを見つけた時に食べたからな」

「そうか。タバコはあるかい?」

 再度問われて、俺はズボンのポケットを探る。

 禁煙中だというのに、コンビニでつい買ってしまったものがあったはずだ。

 出て来たタバコは、まだ封を切っていない。

 そいつを差し出してやると、男は目を見張る。

「いいのかい?」

「ああ。実は、禁煙中でね。なのに、いつもの癖でつい買っちまったんだ。……だから、あんたにやるよ」

 苦笑と共に言うと、男はうれしそうに笑ってそれを受け取った。

 男が壁に背を預けるようにして廊下に座り込み、ポケットから出したマッチでタバコに火をつける。

 それでなんとなく、俺もその隣に腰を下ろした。

「ここって、最近廃業したのか?」

 俺はふと思いついて尋ねる。

「ああ。……といってももう、五年ぐらい前にはなるか」

 男はうなずき、煙を吐き出した。

「温泉は泊まらなくても入れたし、足湯なんかもあって、有料だけどそれほど高くもなかったから、俺たちみたいな者にとっちゃ、なかなかいい場所だったんだがな」

「なんで廃業したんだ?」

「さあな。噂じゃ、経営者が他の事業にここの売上をつぎ込んで大赤字。あげくの果てに夜逃げしたって話だがな」

 男は小さく肩をすくめて言うと、改めてタバコをくわえ、紫煙をくゆらせる。

「ふうん」

 曖昧にうなずきながら俺は、そんな騒ぎがあったわりには、中はきれいだと考える。

 経営者が夜逃げした、なんて話を聞くとなんとなく、そのあと借金取りらが詰めかけて建物の中は荒らされて――といった構図が浮かんだせいだ。

「あくまで噂だがな」

 男がそんな俺に、念を押すように言った。

「……ここには、あんたみたいなホームレスが、大勢いるのか?」

 話が途切れたあと、俺は興味が湧いて尋ねる。

「大勢ってほどじゃないが……住みついてるのは、二人ぐらいだな。他にもたまに来る奴らもいるから、今は俺を入れて五、六人ってとこか」

「そっか……」

 思ったよりも少ないと感じながらうなずく俺に、男は笑った。

「安心しろよ。そんな凶暴なやつらじゃないからさ」

 そのあとも、俺は男とポツリポツリと話をした。

 男はやがて、フィルターぎりぎりまでタバコを吸い終わると、床にこすりつけて火を消し、立ち上がる。

「それじゃ、ごちそうさん」

 軽く挨拶して、廊下の奥へと消えて行く。

 それを見送り、俺は元いた部屋へと戻った。

 スマホを見ると、時刻は明け方だった。

 バルコニーの方へと近寄ってみると、雨はまだ降っていたが、勢いはだいぶマシになっている。

(朝には止んでくれるといいんだがな……)

 胸に呟き、俺は再びベッドに横になった。


 翌朝。

 窓から射し込む日光に俺は、目を覚ました。

 雨はすっかり上がり、日射しはまぶしいほどだ。

 俺は大きく伸びをすると、荷物を手に部屋を出た。

 廊下に出て、昨夜のホームレスがいるかとあたりを見回してみたが、それらしい気配はない。

 廃ホテルといっても、それなりに広い建物だ。男の住処がこの二階とは限らない。ゆうべはたまたま、この階にいただけかもしれないのだ。

(ま、もう一度会ってどうってことでもないしな)

 俺は胸に呟くと、そのまま非常階段へと向かう。

 一階へ降りて、玄関ロビーへと出た。

 入口の自動ドアは、昨日俺が入って来た時のまま、薄く開いている。

 俺はそこを通り抜けて、外へと出た。

 アスファルトの地面はまだ濡れていて、いくつも水たまりができている。

 だが、中で見たとおり、空はすっかり晴れ上がってあたりにまぶしい光をふりまいていた。

 俺はその空を見上げて小さく呼吸すると、駐輪場へと足を向けた――。

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