目の前に突然開けた風景に、私は思わず息を飲んだ。
遠くに見えるのは、赤く錆びついた観覧車。その傍には、ジェットコースターのものらしい赤茶けた線路も見える。
すぐ傍には、これまた錆びついた鉄の大きな門があって、その向こうは広場になっていた。
広場の中央には、巨大なウサギの彫像を据え付けた噴水らしいものがある。
「これって……遊園地……?」
私は低く呟き、ようやくあたりを見回す。
そこは、さほど標高の高い山ではなかった。
多少は整えられた道があって、登山というほどでもない、ハイキング程度の軽い気持ちで登れる山として有名な場所だ。
私は友人三人と共に、春先の休みを利用してハイキングに来た。
だが、途中で友人たちとはぐれてしまい、とにかく上へと登り続けるうちに、ここへとたどり着いたのだった。
ちなみに、上を目指したのには理由があって、携帯電話の電波が入るかもしれないと思ったためだ。
友人たちとはぐれてすぐ、連絡を取ろうとした私は、ケータイが圏外になっていることに気づいた。
それで、高い場所なら大丈夫かもしれないと、上を目指したというわけだった。
それにしても、こんなところに遊園地が――それも、打ち捨てられて長いように見える遊園地があるなんて、思いもしなかった。
インターネットでこの山のことを調べた時にも、出て来なかった気がする。
(人のいない遊園地……か。なんだか変な感じ)
小さく胸に呟いて、私は好奇心に駆られてそちらに足を踏み出した。
わずかに開いた鉄の門扉を抜けて、私は広場を歩いて行く。
地面は雑草が伸びて、ところどころ敷き詰められた石畳が、剥がれてしまっていた。すっかり苔におおわれている所もある。
噴水の水は涸れて、あちこちにできたひび割れから、やはり雑草や苔が生えているのが見えた。
広場を横切って歩いて行くと、その向こうには入場ゲートがあった。
私はゲートを抜けて、更に歩いて行く。
壊れて錆びつき動かなくなったコーヒーカップや、すっかり塗装が剥げて一部は馬が横倒しになっているメリーゴーランドなどなど、中は最初に遠目に見たとおり、すっかりさびれ果てていた。
当然人の姿はなく、あたりは静まり返ったままだ。
(こんなに広いところに誰もいないなんて……なんか、変な感じ……)
私はあたりを見回しながら、また胸に呟く。
考えてみれば、もうずいぶんと長い間、遊園地になんて行っていなかった。
高校を卒業してすぐに就職した会社は休日出勤が当たり前のところで、私は三年目に体を壊して辞めた。
そのあとは、父がやっていた小さな文房具店を手伝っていたけれど、それも父が突然倒れて亡くなって、あとかたずけがけっこう大変だったっけ。
今は、父の後を継いでようやく再開した店もなんとか軌道に乗って、少しでも店の宣伝になればと始めた文房具紹介の動画配信も少しずつ再生回数が多くなったところだ。
なんにせよ、ずっと忙しくしていて、どこかに遊びに行くようなヒマなんて、なかった。
(そうだよね……。佳苗たちと連絡取ったのだって、本当に久しぶりだったし……)
ふと、私はそんなことを思い出す。
今日一緒にハイキングに来た友人たちは、高校の時の同級生だ。
私を含めて四人とも、地元に残って働いている。
つまり、会おうと思えば簡単に会えるはずなのだけれども……案外、そうはならないようだ。
そんなことを考えながら歩いていた私は、目の前に現れた建物に、思わず足を止めた。
そこに建っていたのは、半ドーム状の屋根がついた野外劇場だった。
客席には横長のベンチがいくつか並んでいるが、どれも朽ちて汚れている。
舞台は床からはところどころ雑草が大きく伸びて、天井やソデの一部からは蔓草が垂れ下がっていた。
「ここ……」
だが、客席の真ん中に立って舞台を眺めた時、私はふと、何か脳裏に閃くものを感じた。
「私……昔、ここに来たことがある……?」
呟いた途端、頭の中に騎士とお姫様の姿が浮かび上がって来た。
ああ、そうだ。
私は子供のころ、この騎士とお姫様の物語が、大好きだった。
黒い化け物がたくさんいて人間を襲う世界で、お姫様を守って、その人のためだけに生きる騎士。
彼と、そんな彼をけなげに愛し続ける姫の物語が。
野外劇場で行われたそれは、名前も知らない役者さんたちが、今思えばずいぶんと不格好な着ぐるみを着て演じるものだったけれど、当時の私は夢中になって見たものだった。
「そっか……あれって、ここだったんだ……」
私は呟いて、改めて周囲を見回す。
苔むしてところどころひび割れた石畳の床と、すっかり汚れて色褪せたベンチ。中には壊れて傾いているものや、植物の蔓におおわれているもの、雑草に埋もれてしまっているものもある。
舞台の上も、雑草と蔓草におおわれて、見る影もない。
けれど、昔来たところだと、騎士と姫の活躍に胸を躍らせながら見守った場所なのだと思うと、不思議と懐かしいような、感慨深いような気持ちが湧いた。
「あの時は、舞台を見て、それからどうしたっけ……?」
上空へと視線を泳がせながら、私は当時の記憶を探る。
そう、たしか……舞台を見終わったあとは、すぐ傍にあった屋台でソフトクリームを買ってもらったんだった。
私は記憶のままに、視線を野外劇場の隣へと向ける。
そこには屋根が崩れてぺしゃんこになった屋台の成れの果てがあった。
「あ……」
思わず小さく声を上げ、私はそのままかつての記憶をたどるように歩き出す。
ソフトクリームを食べながら、両親に手を引かれて移動して、三人でコーヒーカップに乗ったんだった。
その中でたしか私がソフトクリームをこぼしそうになって、大変だった。
そのあとはジェットコースターに母と二人で乗って、メリーゴーランドへは父と二人で乗って、最後に観覧車に三人で乗って上からの眺めを楽しんだのだ。
父がジェットコースターに乗る私たちに手を振りながら座っていたベンチは傾いて、石畳から伸びた雑草におおわれていた。ジェットコースターの線路は途中ではずれ、大きく穴が開いている。メリーゴーランドの傍にあったベンチは色褪せて汚れ、座ることもできなくなっていた。
そして観覧車は、ずっと同じ位置で止まったままで、ゴンドラが時おり吹く風に小さく揺れているだけだ。
「ここ……いつこんなになったんだろう……」
それを見上げて、私は呟く。
ゴンドラが小さく軋んで揺れる音だけが、あたりに響く。
あのあと、母は病気になって亡くなり、父も今はもういない。
私は子供のころに大好きだった物語も忘れ、ここに来たことも忘れ、遊園地に来ることもないくらしをずっと続けて来た。
この遊園地が閉園したことも知らなかったし、こんなふうに打ち捨てられていることも、知らなかった。
ふいに強い風が吹き付けて来て、私は思わず身を震わせた。
自分で自分の肩を抱いて目を閉じ、その場に立ち尽くす。
その時。
ふいに、携帯電話の着信音が鳴った。
私は我に返って目を開くと、上着のポケットからケータイを取り出す。
相手は、一緒に来た友人たちの一人だった。
どうやら向こうも私を探していてくれたようだ。
互いにマップで今いる場所を確認すると、さほど遠くない場所にいることがわかった。
「――待っててくれたら、そこに行くわ。うん、ごめんね。じゃあ」
私は言って、電話を切ると、最後に観覧車を一瞥して歩き出す。
ゲートを出て、錆びついた鉄の門をくぐると、私は友人たちの待つ場所へとゆっくりと歩き出した。