道観に戻ったものの、秘籍を使用した二人は尋常ならざる挙動をしていた。スンは目を見開き、昂ぶった表情で深い呼吸をしている。銀毛狼は虚空の一点を見つめ、静かな態度である。あおは師に状況を説明した。
「さっきの戦いの時とは真逆の様子になったみたい」
「陰陽の気の比重を不自然に操るのだから当然の道理だろう」
「僕、恐ろしくて秘籍なんて使いたくない」
「私も窮地に立たされたはずみで文面を見てしまった。リン師父よ。軽率な行動をお許し下さい」
「相手は強敵だ。読まねばやられていただろう。無事で何よりだ」
道士の弟子が白粥を用意してスンと銀毛狼に手渡した。二人が口に運ぼうとするとリンが制止して言った。
「蠱が忍ばせてあるか確認したか」
緊急事態のことに平時の営みが抜けていた。リンはサイの角を使って粥をかき混ぜると、泡が立ち始めた。
「やはり蠱か。ここに長居するわけにもいかんな。次なる拠点を定めねば」
道士は心配そうな表情を浮かべた。
「私も知人の近況について聞いていますが、とにかく物騒になったと言います。お互い気をつけましょう」
その時天井から物音がした。窓という窓から、蠍や毒蛇が投げ込まれた。そして僵尸の着地音とともに妖術師の姿もあった。以前、山で襲ってきた者だ。さらにもう一人、見覚えのある男スティーブの姿もあった。
噛まれたり裂かれでもしたら、たちまち毒で致命傷を負う。そんな魔物や虫、爬虫類が飛び交う中でスンたちは必死の抵抗を見せた。劇団員の五穀一揆盟は鉄扇を八の字に振って切り落としていた。
僵尸は飛び跳ね、弟子の一人に噛みついた。弟子たちはとっさに僵尸の両脇を抱えて動きを封じ、道士は桃木剣を手に取った。
スティーブがリンの背後を取った。そして腕を絡め取ると、膝裏を蹴って跪かせた。 そこに弟子たちの拘束を振り払った僵尸が飛んできた。リンは首筋を噛まれ、苦悶の表情を浮かべた。
「リン先生!」
スンは急いで外骨格の装甲を身にまとったものの、スティーブの素早い踏み込みに距離を詰められてしまった。
「銀毛狼、受け取れ!」
奪われることへの危機感で秘籍を投げたところ、宙返りした妖術師に掴み取られてしまった。
「よくやったな。あとは頼んだぞ」
高笑いするスティーブは妖術師に駆け寄って秘籍を受け取ると、入口の外に姿を消した。道士は逃亡を阻止しようと試みたものの、スティーブの剛腕が直撃して床に倒れてしまった。
あおは落ちている桃木剣を拾った。
「湖面浮蓮突!」
螺旋状に回転したあおは僵尸の胸を突き刺した。僵尸は大型鳥類のような唸り声をあげて真後ろに倒れた。ひるんだ妖術師は深緑色の蠱毒を銀毛狼めがけて放ったが、スンが背中の装甲で受け止めた。
走る銀毛狼がナタを振った。その一刀をくらった妖術師は声もなく床に伏した。強敵たちを退けたものの、その惨状にため息すら出なかった。
涼風の吹く楼閣にて、腰掛けたリンの奏でる古琴の音色と、くすぐるような鼻唄が聞こえてくる。
スンにとって最高の目覚め方だった光景だが、今や思い出すたびに涙が頬を伝う思い出だ。
師は僵尸の毒牙の餌食となってしまったのだ。その強力さは道士ですら匙を投げるほどだった。
手当たり次第に妖術師を探していけば、解毒できる者がいつか見つかるかもしれない。しかし蠱師は例外なく秘密結社として存続していることは、スンたちが一番よく知っていることである。こちらから探そうとするのは雲を掴むような話しであった。
「師よ、無力な弟子をお許しください」
スンはリンの汗を拭い、水差しを咥えさせた。
「誠に成長したぞ、スンよ。秘籍を使いこなせる器なのであれば、私は安心して蠱道会を任せられる。よろしく頼んだぞ」
「先生、道士様ほどの賢人であれば、解毒法についてもきっと良い案がひらめくことでしょう。もう少し生きてください。そして琴の音をまたお聴かせください」
笑顔を見せたリンの歯は、牙となって伸びていた。
「畜生道に転生して、仲間に襲いかかるわけにはいかぬ」
リンは爪に仕込んでいた蠱を口内へ弾いた。リンは間も無く息を引き取った。天に還ったリンの肉体を、スンはいつまでも抱きしめていた。