秘密結社蠱道会の集会所では、弟子たちがいつものように造蠱に励んでいた。彼らは開運、安眠、纒足用の麻酔などに用いる蠱を売って日々の糧を得ている。
そんな日常のなかで、外から妙な気配が感じられた。スンが窓の隙間を覗いてみると、集会所を取り囲もうとする大群がこちらに迫っていた。大半は都市に住む北方の者たちであろう。その中において紳士風の洋人はマホガニーで出来た丈夫なステッキを持ち、肉体は筋骨隆々。一際大きな存在感を放つ青年だ。これはただごとではないと感じたことから、師であるリンに報告をした。
「先生、見知らぬ者たちがすぐ近くまで迫っています」
大群の放つ物々しさを目の当たりにしたリンは、汗ばむ手のひらを握った。
「わたしが話をつけてくる。お前は秘籍を持ってここにいなさい。私の身に何かあれば兄弟弟子たちと迷わず脱出するのだ」
スンは師を置いて逃亡することに後ろめたさを感じはしたが、言いつけに従った。秘籍には蠱道会の開祖が編み出した奥義が記述されている。体得した弟子に乱心する者が続出したことから門外不出の経典である。リンは洋人の男に向かって激昂した。
「何者だ、貴様は」
洋人は余裕の笑みを浮かべている。申の和人街で購入した煙管をくわえ、煙を燻らせていた。
「私はマーシャル・アーティストのスティーブン・ハワードという者だ。秘籍は君が持っているのだろう。私に譲って欲しくてここへ来たのだよ。もちろんただとは言わない」
「なぜ我らの奥義を欲する。立ち振る舞いからしてそれなりの手練れであろう。我々の呪術に頼らずとも名声を得るには困らんはずだ。北方で正派の者に武芸を教える西洋人がいると耳にしたことがある。貴様のことであろう」
「その通りだ。この国の人々にも私のバリツのテクニックは評判が良い。私はマーシャル・アーツに関心があってね。すでにサムライの古武術はものにしている。ジャポニスムの次はシノワズリーというわけさ。なかでも蠱術は謎に満ちていて、とても神秘的に見えるのだよ。渡す気が無いのであれば、こちらにも考えがある」
スティーブのシルバー&マホガニー製ステッキがリンの足首を打った。
「くらいたまえ、ジャケット・トゥ・ダークネスを!」
スティーブの上着が漆黒に染まるとリンの視界を奪った。
背後から奥襟を握り、腕を首に回して頸動脈を締めはじめた。
「サムライ・スリーパーの食らい心地はどうかね。このテクニックは意識など容易く飛ばせられるのだよ」
スンたちは言いつけの通り脱出を図ると総髪に袴を履いた和人が立ち塞がり逃亡を阻んだ。
「なぜ和族のあなたが洋人と協力してまで私たちを狙うのだ!」
「まずはじめに言っておくが、私はこの地に住む和族では無い。海を渡り大陸へやってきた、大和人の金剛砕と申す者だ」
金剛砕はおもむろに眼鏡を拭く余裕を見せた。
「警視庁で行われた柔道家との対決に同胞の古武術家たちは敗れてしまった。このまま世の銃器が発達していけば、衰退に歯止めが効かなくなることだろう。私は柔術に改良を加え、金剛流吸気会を立ち上げた。スティーブ氏を含め、伝道の範囲を今以上に拡大させる気だ。若き邪教の者よ、改心して我らと行動を共にせよ」
邪教の扱いを受けたことでスンに憤怒の情が燃え上がった。毒物や呪物を扱う蠱師は役人にも目をつけられやすく、武の世界においては通常邪派として分類されている。
だが蠱道会においては蠱術の濫用防止策として厳しい戒律を定めている。快楽に耽る廃人を出すような蠱術や、営利目的の呪殺をした者は厳罰の対象としていた。
纒足の苦痛を和らげるために阿片を用いる家庭もあるが、蠱師はその副作用の深刻さを把握していた。阿片よりも緩やかな麻酔となる蠱を勧めることもあるのだが、蠱師を信用して買い求める者は多くない。
「柔術か、和族の間で有名だ。我が国や西洋において打が発達したのに対し、大和の武芸は固技が強力と聞く」
「今まではその通りだが、兵器が発達したことで戦場の殺法は衰退しつつある。このままでは武家の技は途絶えるに違いない。せいぜい投げ技を使った逮捕術となって生きながらえることになるだろう。無慈悲な虐殺がはびこり世の侠気は失われるのを防ぐため、なんとしてでも伝統の武芸を残すのだ」
スンは冷笑を浮かべた。
「話しがところどころ胡散臭いぞ。金目的ではないか」
「我が教理を理解し得ぬ者は成敗してくれる」
金剛砕がそう言い放つと女と見紛うような側近の若者が肩に手をかけた。
「教祖様、羽織りが傷みます」
側近は羽織を脱がせて甲斐甲斐しく畳み始めた。
金剛砕は一転して笑みを浮かべると、腰を抑えて後方へ下がらせた。
「ランよ下がっておれ」
側近はしなをつくって目をふせた。
「小姓がついているとは立派なものだな、金剛砕」
「この毒虫ふぜいが」
「毒魚喰らいし民が言うことか」
「よくも教祖様を侮辱したな。とくと見よ。秘技締塞糸を!」
繰り出す縫い糸がスンの全身に絡みついた。
「ランよでかした。さあ覚悟しろ!」
スンは手技で足を払われた。金剛砕は天に向かって陽気を吸うと、勢いよく掌を突き出した。
「とどめだ! 奥義金剛砕!!」
スンは短刀で糸を切断した。そして金剛砕の攻撃を危うく避けたところ、背後の巨大な岩石が粉々になった。回避の隙を金剛砕は見逃さず、腕を固めにかかった。渾身の力を込めたが太刀打ちできず、スンは完全に動きを制された。地面に伏す格好でリンとスティーブの争いが目に入る。
スティーブは軽功の使い手で、空中を鷲のように滑走してリンへ襲いかかった。身動きの取れぬスンとリンは共に死を覚悟した。
そのときスンの脳天から虫の羽音が響いた。こうなったら助けを求めるしか無い。気が共鳴する近くの存在に向けて、引誘蠱を放った。
草むらをかきわける音がした。そこにはすらりとして背の高い青年の姿があった。
「何者だ?」
「呼ばれた気がして来たんだ。だれか呼んだか」
「わ、わたしだ。助太刀願いたい」
金剛砕が青年に詰め寄った。
「見たところ服装などが蝦夷族に少し似ているな。話しに首をつっこむな」
「おれは銀毛狼、一族の間でそう呼ばれている」
銀毛狼の目は切れ長。色は翡翠のようで、視線に魔力めいた力が感じられた。肌は羊脂のような白さで、肩まで伸びた銀髪からはまばゆい輝きが放たれている。その人間離れした美しさには見惚れざるを得ない。スンはかつて夢に見ていた銀髪の青年を思い出して息を飲んだ。あれは予知夢だったのか。
「毒虫の味方をする気か? 蠱師をかばうとは物好きな。そのうち役人に捕まって死罰を受けるに違いない」
「我が身が朽ちようと一族が滅びようと意思は変わらぬ。逃げられぬ戦がいつか。それはよく心得ているつもりだ」
「面白いじゃないか。私のジャポニスム、お見せしよう」
スティーブが銀毛狼の足元を杖で払うため深く腰を落とした。しかし銀毛狼は尖端を茶杯の如く握り、涼しい顔をして受け止めている。
「遅いぞ。ティンジュ・セリガラ!」
ひねりを加えた拳がスティーブの頬にめりこんだ。その技は生き残りを賭けた実践の中でみがかれたものであろう、俊敏さはまさしく狼そのものであった。そして携えたブーメランを抜くと、負ける可能性ありと考えたかスティーブ一行は立ち去った。
銀毛狼はスンに近づくと、傷の具合を見た。
「呪術師、手当をしてやるからおれたちのところに来い。よろしければお師匠様もぜひ」
「ありがたいが心配には及ばない。われらは正派から蠱毒を操る魔族扱いをされている身。しかし毒とつきあっておれば解毒にも精通し、おのずと治療にも目が向くものだ」
リン師が苦笑いを浮かべた。
「断るのはかえって失礼だぞ、スン。歓迎されているのだ」
「スンというのか。本当に遠慮はいらんぞ」
「それならお言葉に甘えるとするかな」
師弟は銀毛狼についていくことにした。秘密結社故に部外者との接触を極度に避ける生活をしていた蠱師たちは、初めて出会った少数民族に興味津々であった。