八月ももう終わるというのに、厳しい暑さのせいか、まだセミが鳴いている。
バス停は病院の目の前だが、玄関にたどり着く頃には、俺の額には薄っすらと汗が滲んでいた。
病院に着いて今まで通り面会の手続きをしている俺の手元を覗き込んだ受付の女性が、俺に声をかけてくれる。
「あ、五十嵐さんならお部屋を変わられたの。五階のナースステーションで改めて部屋を教えてもらってね」
「わかりました。ありがとうございます」
俺は軽く会釈してエレベーターホールへと向かう。
目覚めた葵はもうあの隔離された様な部屋ではないらしい。
検査も異常がなかったというし、そうなれば退院も近いのかもしれない。
ただ、二年以上寝たきりだったというなら、すぐに学校へ行く……というのは難しいのだろうか?
彼女の高校生活はずっとベッドの上だ。
俺はナースステーションで部屋を教えてもらい、真っ直ぐにそこを目指した。
病室の扉に手をかけるが、ドキドキし過ぎて大きく一つ息を吐く。
何と声を掛けよう。『おはよう』……いや違うな、『調子はどう?』何か軽いな。それも違う気がする。
俺は中々決心がつかぬまま、部屋の外に立ち尽くしている。廊下を歩く看護師さんに、
「ご面会ですか?どうかされました?」
と声を掛けられ、慌てて
「いや!大丈夫です!何でもありません!」
と頭を下げて、第一声の言葉を決める事が出来ないままに、扉をノックした。
「はーい」
中から声が聞こえる。……葵の声だ。
「失礼します……」
俺はその返事を了承と受け取って、静かに扉を開いた。
その部屋は元々二人部屋だったのを葵一人で使っているようで、もう一つのベッドは綺麗に整えられたままだった。
葵はベッドの背もたれにもたれ掛かる様にして上半身を起こしていた。手元には文庫本が開かれていた。
扉から顔を覗かせた俺に葵は驚いた様な顔を向けた。
俺は葵が現実としてそこにいる事で胸が一杯になり、次の言葉が言えないでいた。
部屋に一歩だけ入って黙り込んでしまった俺に葵が先に声をかける。
「あれ?君は誰?」
『あれ?君は誰?』
あの日……運命のあの日の言葉を同じ様に葵は口にした。
あの時と同じ声音のその言葉は俺の胸に深く突き刺さる。
葵に俺をからかっている様子はない。心から『君は誰?』と尋ねていた。
同じ言葉でも、あの日の入り江とは状況は全く違う。
俺は思わず『葵……』と彼女の名前を口にしていた。
葵の耳にその声が届いたのかはわからないが、少しだけ葵の表情が曇る。葵は改めて、
「あの……どなたですか?」
と俺に尋ねた。そこに微かに警戒の色が窺える。
俺はその言葉にハッとして、弾かれるように勢いよく頭を下げた。
「す、すみません!部屋を間違えたみたいです!」
俺は一目散に部屋を出た。
後ろから葵の『え?』という声が聞こえた気がしたがそれからも逃げるようにして、俺は病院を飛び出していた。
俺はそのまま立ち止まる事なく走ってバス停に向かう。
バス停にたどり着いた俺はそこのベンチに力なく腰を降ろして……人目も憚らずに涙を流した。
葵は俺を忘れていた。いや、忘れたというより俺自体が彼女の何処にも、もう存在していない。
彼女と過ごしたあの日々も、あの涙も、あのキスも……全てが幻だったのか。
こんな結末を迎えるなんて誰が想像出来ただろう。
葵の願いを叶えたかった。
彼女はあそこで人魚を待っていた。きっと、俺があの入り江に行くずっと前から。
彼女があそこに現れなくなった理由は分からない。だけど彼女は俺に託してくれた。人魚をみつける役目を。彼女の求める人魚の涙を手に入れる願いを。
俺は人魚に逢えた。
葵の願いを叶える事が出来た。そのお陰で彼女は長い眠りから覚めたのだと俺は今は確信している。
それは心から嬉しかったし、これから俺達の未来が始まるのだと思っていた。……でも人生そんなに上手くはいかないようだ。
しかし……はじめからこの結末が分かっていたとして、俺は人魚を……葵の願いを叶える事を諦めていただろうか?
自問自答してみるが……その答えは『否』だ。
結末が決まっていても、俺は結局この道を選んでいただろう。たとえ葵に忘れ去られても。
そう、王子の幸せを願った人魚姫のように。
俺はやっぱり王子様って柄じゃなかったんだな……と自嘲気味に笑って涙を拭った。
そう、人魚姫だったのは俺の方だ。俺は葵の記憶の海で泡となって消え去ったのだ。