とりあえず葵が目覚めた事、体には異常がない事が嬉しかった。
俺は葵の願いを叶える事が出来た事で有頂天になっていた。
明日……何を話そう。第一声は何と声を掛けたら良いだろうか?
俺はすっかり葵とのめくるめく未来を夢見ていた。
告白したんだし、されたんだし……キス……だって三回もしたし(回数じゃないかもだけど)これって、両思いって事だよな?
今度こそ……幻じゃない葵と水族館や、カフェに行けるんだと思うとニヤけてしまって、バスの窓ガラスに映る自分の締まりの無い顔に、自分自身でギョッとした。
ばあちゃん家に帰ると、
「希、裕司から電話があったやろ?」
と声を掛けられた。
俺は急いでスマホを確認すると、着信が二件、父親から入っていた。
「あ、ごめん。マナーモードにしてて気づかなかった」
ばあちゃんに謝ると、
「そうかえ。何か裕司が明日迎えに来るって言うとったよ」
とばあちゃんに告げられた。
明日?!それは無理だ。俺は葵に会いに行かなければならない。
「え?!明日?明後日の予定じゃ……」
「何でもこっちの方に用事があるからついでに寄るってな。希もそろそろ帰る支度をしとかんね」
『ついで』で予定を変えられても困るんだよ!だから大人ってのは嫌いなんだ。
「いや、俺にも都合ってもんが……!」
「……大切な友達にも、ちゃんとお別れを言うんだよ」
俺の言葉にばあちゃんは優しくそう言うと、
「なぁーに、永遠の別れじゃないんだから、また会えるさな」
と微笑んだ。
「分かってるけど……」
大人にとっては大した事ない距離でも、俺達子どもには、意外と距離って大切だ。
同じクラスで仲が良かった奴が違うクラスになった途端、別人の様に余所余所しくなった経験なんて、いくらでもある。子どもなんてそんなもんだ。
葵がスマホで連絡取れる様になるなら話は別だが……いや、それでも会って触れ合える距離ってのは大事なわけで……。
この約一ヶ月、毎日顔を合わせて話が出来ていた事を考えると不安は募る。
俺が少し不貞腐れる様に黙っていると、
「希……さてはあんた好きな娘が出来たんだね」
とばあちゃんが俺をからかうように、そう言った。
「なっ!そ、そんなんじゃないよ!」
と慌てる俺に、
「青春だねぇ~」
とばあちゃんはカラカラと笑いながら、台所へと引っ込んで行った。
青春って……。まぁ……確かに俺は青春真っ只中だけどな!
とりあえず、帰り支度を俺は適当に済ませた。
父さんが来る時間ははっきりしないと言う。
その用事とやら次第だと言うから、本当に身勝手なもんだ。
大人は仕事だ、用事だと子どもを振り回したって良いって思っている節がある。そういう大人に俺はならないぞ!と意気込んでみたが、ここに来てから、俺はばあちゃんを振り回しっぱなしだと気づいて、思わず自分の身勝手さにも苦笑した。
翌日、俺は朝早くからばあちゃん家を抜け出した。
病院の面会が十時からなのは理解していたが、それまでに父親に迎えに来られては困る。
流石に家に居なければ、無理やり連れて帰られる事はないだろう。ほんの少しでもいい。……葵に会いたい。
俺はもしかしたら、葵とゆっくり話す時間がないかもしれないと、昨日手紙を書いた。手紙なんて書いたことないな。スマホで伝える言葉より何故か緊張した。
洒落た便箋なんて物は無かったから、ルーズリーフを半分に切って、そこに自分の連絡先と、これから付き合って欲しい事と、それだけを書いた。それだけなのに、何回書き直したかわからない。せめてもう少し字が上手かったらな……と思っても今更だった。
俺と葵が過ごした、この約一ヶ月を思えば、きっと多くを語らなくても、想いは通じるはずだと信じたい。……そして葵も同じ気持ちでいてくれるはずだと、期待を込める。
幻ではない葵との対面にドキドキする。俺は、二人が出逢ったあの人魚の入り江にも別れを告げるため、足を運んだ。
最近は夏が長い。もう八月は終わるというのに、今日も真夏の暑さだ。
入り江はいつも通り、静かにそこにあった。
「ここで出逢ったんだよな」
目を閉じて、あの日を思い出す。葵に出逢ったあの日。彼女は俺を見て目を丸くした。
『あれ?君は誰?』
彼女の少し首を傾げたその姿に……俺は多分一目惚れしたんだ。あの時は気づかなかったし、最初は怒られるかと思ったけどな。そう考えて俺は一人笑う。
俺は海に近づいて、そっと両手で海水を掬った。
まだ日差しは痛い程だというのに、海の水は確かに少し冷たくなっていて、四季が曖昧になったこの国にも、きちんと秋の足音が近付いているのを感じさせた。
俺は少しの間、海を見つめていた。
じいちゃんもこの入り江で人魚に出会ったのだろうか。
俺達の前に姿を現した人魚は……同じ人魚だったのだろうか?
人魚の寿命なんて考えた事はなかったが、肉を食べれば不老不死になるぐらいだ。きっと人魚自体も長生きなんだろうな……と漠然と思った。
だけどあの人魚は凄く寂しそうだった。どうしてあの人魚がこの入り江に現れたのかはわからない。もしかして人魚に恋をしたとか?……だけど、人間を好きになったって報われないし、その人間はきっと先に死んでしまうだろう。あの人魚がとても孤独に見えて、俺は少し胸が苦しくなった。
「ありがとう」
俺は海に向かってそう一言残すと、緩やかな坂を登る。
今から隣町へ行けば、面会時間の少し前には病院に着くだろう。振り返らずに坂の上を目指す俺の耳に、海風に乗って微かに人魚の歌声が聴こえた気がした。