「あ、あった!!」
俺は四つん這いでびしょ濡れになりながら、彼女の涙を見つける事に成功した。
で……後はこれを……どうすれば良いんだ?
血や肉なら食べる……とか飲む……とかやりようはあったかもしれないが、これを飲ませる?
しかも葵は眠ったまま。病室にだって俺は入れないしない……あ……詰んだかも。
じいちゃん……あの時、まだ何か言ってたんだよな、何だっけ?
俺が食べるのは可哀想だと言った後の言葉だ。……落ち着け俺、思い出せ。きっと何か重要な事の筈だ。
俺が必死に頭を悩ませていると、
「希」
と静かに俺を呼ぶ声が聞こえた。
その声が聞こえた途端、俺は泣きそうになった。胸が苦しい。俺は膝を付いていた姿勢から、ゆるゆると立ち上がる。振り向くのが怖い。聞き間違いだったらどうしよう。
でもこの声は、俺が誰よりも心待ちにしていた声だ。
「……葵……」
俺は涙を拭う事もせず、振り返った。
そこには葵がいた。この入り江で会っていた時と同じ姿で。
「希。ありがとう。みつけてくれたのね」
「葵が欲しかった物は……コレ?」
俺は掌を開いて、さっき海の中から奇跡的に見つけた白くて小さな珠を葵に見せた。
葵は俺に近づく。俺も葵に近づく。波打ち際で二人向かい合った。二人の足元の砂を波がさらっていく。
葵は俺の掌からその白い珠を指でそっとつまむと、月の光にかざして見ていた。
「綺麗ね」
「だな。本当に真珠みたいだ。……これで葵は助かるの?」
俺はそう尋ねていた。
「わからない。だって試したことないんだもん」
葵はそう言って少し笑った。
「目が……覚めると良いな」
俺がそう言うと。
「なんだか『人魚姫』じゃなくて『眠り姫』のお話みたいになっちゃったね」
とまた葵が少し笑う。
「じゃあ、俺は王子様?」
「フフッ。希が?王子様って柄じゃないね」
「うるせー」
こんね風にやり取りしながらも、俺の心はざわついていた。
人魚は居た。だけど、葵が助かるのかどうかはわからない。
「ねぇ、私の王子様。眠り姫は王子様のキスで目覚めるのよ?」
と葵は可愛らしく首を傾げた。
俺は葵の両手をそっと自分の手で包む様に握って……ゆっくりと顔を近づける。
そして俺達は二度目のキスをした。
「お姫様、これで目覚めてくれますか?」
唇と唇が触れ合うだけの優しいキス。
「うーん……どうかな?もう一度?」
と葵に可愛く強請られ、俺はもう一度葵の唇にキスをした。
葵は俺を見つめると、
「希。私、希に出逢えて良かった。自分にはもう何もないと思ってたけど、誰かを好きになるのって、こんなに温かいんだね」
「俺も。俺も出逢えて良かった。葵を好きになって良かった」
やっと気持ちを伝える事が出来た。初恋は実らないって誰が言ったんだ?
すると葵の姿が足元から少しずつ薄くなっていく。
「葵?!」
俺は握っていた両手に力を込める。手を離せば二度と会えない様な……そんな不安に駆られる。
「希、もう時間みたい」
少しずつ消えていく葵を必死で抱き締める。でも、もう葵を感じる事が出来ない。まるで空気を抱き締めている様だ。
「葵、また会えるよな?」
俺のその問いに葵は曖昧に微笑むと、スッ……と消えてしまった。
俺は葵が今まで居た空間をジッと見つめるが、もうそこには誰も居ない。
さっきまであった葵の足跡も波がさらっていって、跡形もなく消えてしまっていた。
真夜中に帰った俺を、ばあちゃんは温かく出迎えてくれた。
そして特に何も問いただす事もなく
「おかえり」
とだけ一言笑顔で言ってくれた。
翌朝、俺は意を決して葵が居る病院へと行ってみる事にした。人魚の涙は……果たして葵の願いを……俺の願いを叶えてくれているのだろうか?
病院の受付では「面会は十時からです」と言われた為、俺は病院の待合室で時が過ぎるのを待った。
こうして見ていると色んな人がいるな……と思う。車椅子に乗っている人、顔色の悪い人、意外と元気そうに見える人に松葉杖の人。この人達、一人一人に暮らしがあって、生活がある。今まで俺は狭いコミュニティで生きてきたんだな……と実感させられた。
面会可能な時間になったので、この前内村さんが教えてくれた手順で俺は手続きを終えた。
部屋を探すのに、少しキョロキョロしてしまったが、目的の部屋を見つける事が出来た。
『五十嵐 葵』ここだ。
部屋の中に入り、俺はこの前と同じ様に、ガラス越しに部屋の中を見る。そこにはこの前と変わらない葵の姿があった。
……ダメだったのか……。俺は絶望した。
きっと人魚の伝説なんて嘘なんだ。人魚にはなんの力もなかったんだと、そして俺は葵と二度と会うことは出来ないのだと悟った。
目的を果たした葵はもうあの入江には現れない。期待した自分が悪かったのか?期待した葵が悪かったのか?
俺が赤ちゃんの時に回復したのは、偶々……偶然だったって事なのか?
俺は心の中で昨日逢った人魚に不満をぶつけていた。
しばらく葵の様子を見ていたが、変化はない。
もう此処に居ても辛くなるだけの様な気がしてきた。
俺は部屋を後にする前に、もう一度だけ葵の姿をを目に焼き付けようとガラス窓を覗く。
葵は『覚えていて欲しい』とそう言っていた。
きっと俺だけじゃなく、皆、君のことを覚えているよ……と心の中で葵に語りかける。
すると……葵をの瞼が微かに揺れている事に気づいた。
俺はこれ以上近づけないぐらいまで顔を窓ガラスに押し付けて、葵を凝視した。
瞼が動いたのは気のせいかもしれない。俺の願望がそう見せただけかもしれない。俺は息を詰めて、彼女に変化がないか、じっと観察する。
心電図のモニターは同じ波形を同じリズムで繰り返している。これは葵が生きている証。
胸の上下も証の一つだが、これといって、他の変化は見当たらない。
すると、また瞼が微かに動いた様に見えた。俺は思わず、
「葵!」
と呼びかける。
この声が届いているのかは分からない。俺はもう一度、さらに大きな声で、
「葵!葵!」
と名を呼び続けた。