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第20話


「人魚のお陰って?」


「なんだい希は人魚の話なんてもんが気になるのかい?」

ばあちゃんは少し意外だと言わんばかりにそう言って笑う。


人魚の話を信じているのかと尋ねられたら、俺は『わからない』と答えるだろう。いや、『それは空想上の生き物だ』と答えるかもしれない。だけど……


「そう言えば昔、じいちゃんに人魚が居るって聞いたことあったなって思い出したんだ」


「ああ、希もじいさんから聞いたことがあったかい?じいさんは言ってたよ『夜の海で人魚に逢って希を助けて貰った』ってね。何でも、人魚に何かを分けて貰ったって言ってたねぇ」


「何を?!何を分けて貰ったって?」

俺はそれに食いついた。


何かヒントが見えてきそうなそんな思いが過る。

俺が勢いよく尋ねると、ばあちゃんは目を丸くした。


「希、あんたも人魚なんて信じてるのかい?希がそういう話に興味があるなんて知らなかったねぇ。

うーん……何て言ってたかねぇ……肉とか血とか……何かそんな恐ろしい物の事を言っていた様な気がするよ」


俺の頭の中で何かぼんやりとした光が灯る。その光に手を伸ばせば、答えが見つかる様な気がしてもどかしい。その光はまだ弱々しくて、無理して掴もうとすると消えてしまいそうだ。

点と点が繋がりそうで繋がらない。


俺が考え込んだまま黙っていると、


「私はじいさんの話なんて信じちゃいなかったけど、確かにあの大病の後からあんたは驚くほど丈夫になった。本当に安心していたんだよ。

だから昨日はあんまり顔色が悪いんで、つい心配になったよ」

とばあちゃんはそう話を続けた。


俺は……自分でも物心ついた時から、熱を出したとか、具合が悪くなったとか、そんな事で寝込んだ記憶がない。

嫌な授業の日や参観日に風邪や発熱で休んでいる友達を羨ましく思った事を覚えている。……参観日は特に苦手だった。母親が参観日に来ないという事実に小学生の頃は傷ついたものだ。


「確かに……俺、寝込んだ事とかないからずっと体が丈夫なんだと思ってた。入院している俺にじいちゃんは何かしたの?」


「お百度参り以外でかい?あん時は……希が心配であっちにじいちゃんと二人で数日泊まったり、帰って来たりを繰り返してたけど……どうだったかな。

ああ、後は希が元気になるまで酒は飲まんと言って、断酒したりねぇ。……願掛けとか何とか、意外とそういうのが好きな人だったからねぇ。

だから人魚の話なんかもし始めたんだろうけど。あぁ……そうそう。ある日ね、看護婦さんが希の掌が赤く染まってるって騒いだ時があったよ」


「赤く?血が出た……とか?」


「いや、それが不思議な事にもう一度確認した時には消えていたんだってさ。看護婦さんは担当医にも報告したし、傷の有無も確認したって言うんだけどね……。看護婦さんってのも大変な仕事だから疲れが出て見間違えたのかも……っていう結末で落ち着いたんだけどね。で、その翌日には希の状況が安定してきて……一週間後には退院出来るまで元気になったんだよ」

ばあちゃんはそう言うともう一度『良かった、良かった』と頷いた。



俺は部屋に戻ってさっきのばあちゃんの話を思い出していた。


体が弱かった俺が急に丈夫になった。じいちゃんは『人魚のお陰』って……。人魚に何かを分けて貰ったって……。赤く染まった俺の掌……。


俺はふと机に置いた小さな紙袋に目が留まる。

告白する時に葵に渡そうと思っていたプレゼントの入った袋。

俺はその袋を覗き込む。そこには綺麗に包装され、可愛いリボンが付いた長細い箱が入っている。


それは彼女に贈るはずだった、ネックレス。十六の俺が買えるものなんてたかが知れてるが、それでも悩みに悩んだ。

俺は箱のリボンを解いて、包装を剥がすとその箱を開けた。


そこには小さなアクアマリンの付いたネックレスが入っていた。

俺はそれを摘み上げると、掌に乗せた。

小さな青い石は綺麗な海を切り取った様な青色を輝かせていた。

アクアマリン……『人魚の涙』の異名をもつ宝石。

実は人魚の涙と例えられている宝石は真珠らしいのだが、高すぎて手が出なかった。まぁ、アクアマリンもピンキリだったが、この小さな小さな石が俺の貯めたお小遣いで買える限界だった。



「……っ!そうだ!!」

俺は勢いよく立ち上がると、玄関に向かう。


「ばあちゃん、ごめん、出掛けてくる!!」

靴を履くのももどかしい。俺はばあちゃんに大声でそう告げると玄関の引き戸に手をかけた。


廊下の奥から、


「今からかい?もう遅いよ?!」

とばあちゃんがパタパタと玄関までやってきて

そう心配そうに言った。俺は、


「ばあちゃん、ごめん。大切な人が待ってるんだ。だから俺、行かなきゃ」

そう言うと、ばあちゃんの返事を待たずに玄関を出る。

ばあちゃんは、


「気をつけて行っておいで。……会えると良いね」

と優しく俺を送り出してくれた。



俺は自転車を漕ぐ。坂を下る俺の足が空回りするが、それにも構わず俺は必死に前へ前へと急いでいた。


空には星が光っていた。夜だというのにまだ暑さが残る。俺の額に汗が滲む。


夏の終わりが近付いている。少しずつ昼が短くなって、夜がその存在感を増してくる。


それは俺のタイムリミットが近付いている事も意味していた。


俺は間違えていたんだ。葵との話にたくさんヒントがあったじゃないか。いや、ヒントどころか答えがあったんだ。

彼女は言っていた。人魚には癒しの力がある……と。

あの入り江に答えがある。俺は入口に自転車を乗り捨てて、緩やかな坂を駆け下りる。

夜の海は月の光を浴びて、幻想的に煌めいていた。

俺は息を整えながら、辺りを見渡す。……頼むよ。俺には時間がないんだ。零時を過ぎた。あと三日で八月が終わる。


「おい!!もし俺の声が聞こえてるなら、出てきて欲しい!」

俺は穏やかな海に向かってそう叫んだ。

寄せては返す波の音が俺のその声を飲み込んだ。


「頼むよ!お願いだ!力を貸して欲しい!」

俺のその問いに答えてくれているのは、波の音だけ……。静かな海は静かなままだ。


葵が俺に『みつけて』欲しかったのは……人魚だ。


「……頼むよ……」

俺は砂浜に膝をついた。そのまま両手も砂浜へつくと、俺の涙で砂の色が変わる。


……俺ってこんなに泣き虫だったか?



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