翌朝、俺はばあちゃんにおにぎりのお礼を言うと、早速入り江に出掛けた。
やはりという気持ちとがっかりする気持ちが入り混じる。……そこに葵の姿は無かった。
今日は少し波が高いようだ。お盆も終えこの田舎町に海水浴で来る客も減った。
だがこの入り江はいつも通り誰もいない。そう俺以外誰も居ない。
確か、盆を過ぎると海月が出るようになるから海には入るなってじいちゃんに言われてたよな。
俺は波打ち際ギリギリを歩く。海月の姿は見えないが、水が少しだけ冷たい様な気がした。
俺は心の中で葵に語りかける。俺は他に何を見つけたらいいんだ?どうしたら、葵にまた会える?何が正解なのかわからぬまま、俺は海を眺めていた。
夕方、俺は諦めて入り江を後にした。もしかしたら『希』って呼ぶ葵が姿を現すのではないかと期待する事をやめられなかったのだが、空振りに終わった。
葵の本当の姿を……病院に居る葵を見つけない方が良かったのではないかと、俺は今更ながらに後悔していた。
「ごめんばあちゃん。俺今日も食欲ないや」
食卓の上には昨日元気が無かった俺の為に作られた俺の好物が並んでいる。ばあちゃんの優しさにグッと力を入れていないと、涙が零れそうだ。
「そうかい……まぁ、あんまり無理せん事だ。ゆっくりとお休み」
とばあちゃんは俺に近づくと背中を撫でた。
「ばあちゃん……」
ダメだ、泣くな。ばあちゃんが余計に心配するじゃないか。
「希。あんたは昔っから我慢強い子だったよ。コケて膝を擦りむいても泣かんかった。覚えとるかい?あんたにじいちゃんが自転車の乗り方を教えていた時の事」
ばあちゃんは俺の背を擦りながらそう言った。
そうだった……俺に自転車の乗り方を教えてくれたのは、他でもない、じいちゃんだった。大好きだったじいちゃん。じいちゃんが亡くなった時、おれはまだ子どもで『死』の意味をちゃんとは理解していなかった。
だから、また此処に来れば会えるんじゃないかと……そう子どもながらに思っていた事を思い出す。
あれから此処に来る事がなくなってしまったから、会えない事がじいちゃんが亡くなってしまったからなのか、俺が此処に来なくなってしまったからなのか、曖昧なまま、いつの間にか俺はじいちゃんの死を受け入れていた。
「覚えてるよ。じいちゃんが根気良く教えてくれたんだ」
「そうそう。あんたは何度転んでも口を真一文字にグッと結んで泣くのを我慢してた。膝から血が出ていても、何度も何度も乗れる様になるまで諦めなかったね」
そうだった。諦めたらじいちゃんに見放されてしまうのではないかと、それが怖かったんだ。
自転車でコケて怪我をする事より、俺はじいちゃんに嫌われるのが怖かった。
仕事ばかりの父親、あまり俺に感心のない母親。この田舎のこの場所が幼い俺の心の拠り所だった。
「そうだったね……」
「希……今のあんたはその時と同じ顔をしているよ。何があったのかは、ばあちゃんわからないけどね。あんたが泣いても、諦めても……誰も希を責めやしない。誰もあんたを嫌いにならんよ」
と言うばあちゃんの言葉に俺は、
「大切な人と会えなくなった時、……人はどうやってその悲しみを乗り越えたら良い?その人を忘れるにはどうしたら良い?」
と思わず尋ねていた。
「希、少し話をしようか」
ばあちゃんは優しくそう言うと、俺と縁側に腰掛けた。
「希。人はいつか死ぬ。これは昔っから変わらない。その分悲しみも増える。それも仕方ない事だ。それを無理に乗り越える必要はないんだよ。その悲しみを抱えたままで良いんだ。悲しければ泣けばいい。辛ければ辛いと言えばいい。我慢する必要なんてどこにもない。
ばあちゃんだってじいちゃんが天国に行って悲しいし、寂しいさ。じいちゃんを忘れた事はないし、この家のそこかしこに思い出がある。でも、それで良いと思ってるんだ。じいちゃんだって忘れ去られるより、ずっと嬉しかろうて。希も覚えててやれば良いんだよ。誰かとの思い出を」
とばあちゃんは俺の頭を撫でた。
葵の事をばあちゃんに話した事はないのに、何故かばあちゃんには見透かされている様な感覚になる。
「一生……会えなくなるかもしれなくても?」
「折角知り合えたんだ。きっと縁があったんだよ。それにその人がこの世の何処かに居る限り、また会えるかもしれないじゃないか」
じいちゃんには二度と会えなくても……葵にはいつの日かまた会えるのだろうか?
俺は涙を堪えられなかった。
「うっ……ふっ……う」
涙を流す俺をいつまでもいつまでも、ばあちゃんは撫でてくれた。
「希、お皿洗ってくれたんね、ありがとう」
結局、俺は夕飯を食べた。折角の好物とばあちゃんの心遣いを無駄にしたくなくて。
夕飯の後、お風呂を洗ってくるよと言ったばあちゃんの代わりに洗い物をするのはいつもの事なんだけど、ばあちゃんは毎回こうしてありがとうを口にする。
「今、お風呂沸かしとるけんね。でもまぁ、ご飯が食べれて良かったよ」
とばあちゃんは笑う。心配かけたことを申し訳なく俺が思っていると、
「希は今、とっても体が丈夫になったけんども、赤ちゃんの頃は本当に体が弱くてねぇ。あんたはもちろん覚えとらんだろうけど、一度大きな病気をして入院した時なんかは、小さな体に管をたくさんつけられて、見るのも辛いぐらい可哀想でね……」
とばあちゃんは思い出す様に頷いた。
「え……?俺、体弱かったの?」
……そう言えばこの前、母親にこの町で会った時そう言われた事を思い出す。本当の話だったのか……。
「そうだよ。あの時は本当に代わってあげられるもんなら代わってあげたいと思ったもんだ。裕司も毎日仕事終わりに顔を見に来ては、そう言ってたよ。じいさんも本当に心配してねぇ。お百度参りして来るって言って夜中神社に行ったりしてたよ」
「俺……そんなに危なかったの?」
「今だから言えるけどねぇ。医者に急変するかもと言われた事もあったんだ。だけと、ある日突然急に回復してきてね。あんときは嬉しくて泣いたもんだよ」
「急に?」
「そうなんだよ。ああ、そう言えば、あの時じいさんが変な事言ってたねぇ。
希の病気が治ったのはもちろんお医者さんの努力や希の頑張りが実を結んだんだけど、じいさんは『人魚のお陰だ』って言っててねぇ」
俺は『人魚』という言葉を聞いてドキッとする。俺が初めて人魚の話を聞いたのはじいさんからだ。それは鮮明に覚えている。しかし、最近もまた人魚の話を聞いた……そう葵から。