ガラッと部屋の扉を開いて、内村さんは中へ入る。
俺は何故か足が床に縫い付けられたかの様に動けず俯いてしまった。この部屋に入るのが怖い。真実を知る事が恐ろしかった。
内村さんは、そんな俺を見て、
「覚悟出来ないなら、ここで帰って。別にそれで斎藤くんを責めたりしないから。でも、この病院を出たら葵の事は全部忘れて欲しいの」
そう言った。
そう言われて俺は決心がついた。葵を忘れる事なんて出来ない。
俺は意を決して顔を上げた。黙って俺を見ていた内村さんと視線がかち合う。
「帰りません。俺は葵を見つける。それに……彼女を忘れないと葵と約束したから」
あの夜の海で葵は俺に言っていたじゃないか。
『もし私がいなくなっても、君は……君だけには覚えていて欲しいな』って。
俺は内村さんに続いて、その部屋へと大きく一歩を踏み出した。
内村さんは俺に振り返りながら、
「原因不明だから、家族以外は近づけないの。だから私はいつもこの窓ガラス越しに葵に会いに来てる」
そう言うと自分の横を空ける様に少し横にずれた。
俺は一つ大きく息をつくと、彼女の横に並んで窓ガラスの先を見た。
そこには葵が居た。
たくさんのコードと点滴に繋がれている。目を閉じてはいるが、ベッドに横たわる人物は間違いなく葵だ。
白すぎる肌が彼女の存在が幻なのではないかと思わせる。胸が上下している事で辛うじて彼女の存在が幻でも、夢でも無いことを証明していた。
俺は静かに窓ガラスへと掌をつけて、もっと良く葵の姿を見ようと一歩そこへと近づく。
「葵がここに入院したのは、高校の入学式の日。入学式を終えた所までは皆、葵の姿を確認してるの。でも彼女はその後、クラスに現れる事はなかった。
彼女が倒れていたのは体育館の裏。たまたま通りかかった用務員さんが救急車を呼んでくれたの。色んな検査をしたけど、外傷もなければ、内蔵にも異常がなかった。ただ、彼女は眠り続けているだけ」
俺の横で、内村さんは淡々とそう語った。
俺は辛うじて、
「病気……じゃない?」
と質問した。喉がカラカラでひっついて声が出し辛い。
「専門的な話をされたけど、私には理解出来なかった。ただ原因は不明。此処にいるのは、生命維持の為よ。食事も出来ないしね。でも葵ね、ちゃんと成長してるの。背も伸びたし、髪も爪も……ちゃんと伸びてるのよ。葵は生きてる。それだけは間違いない事実なの」
内村さんも俺と同じ様にガラスに掌を付けて部屋の中を覗き込む様にすると、
「あとは葵が目を覚ますだけ。皆がそれを待ってる」
そう言った内村さんの目には涙が浮かんでいた。
俺と内村さんは病院を後にした。
病院を出るまでお互いに無言だった。
彼女は別れ際に、
「これで満足?斎藤くんが何処でいつ葵と知り合ったのか……本当の話なんてもうどうでも良いわ。
でも葵がこうなってからもう二年以上が経つの。だから、あなたの話は……有り得ないって言ったのよ。もう葵との話は誰にもしないで。皆、辛いの。私だけじゃなく、皆。特に葵のお母さんは物凄く疲れてる。変な話をして混乱させないであげてね。じゃあ」
と俺の返事を待たずにさっさとバス停へと向かって歩いて行った。
俺は無言で彼女のその背中を見送った。
そこからどうやってばあちゃん家に戻ったのか覚えていない。
頭の中には病室で横たわる葵の姿がこびりついていた。
俺は間違いなく葵とこの約三週間を一緒に過ごした。
病室に居る彼女は入り江で会っていた時よりも顔色が悪く見えたが、それでも葵だった。
俺が見間違えるわけがない。
玄関で靴を脱ぐ俺にばあちゃんが、
「希?どうしたんね!顔色がえらい悪いやないか。どっか悪いんか?気分は?」
と心配そうに尋ねる。俺は、
「ごめん、ちょっと気分が悪くて……夕飯いらないや」
とそれだけ言うと、部屋へと足早に戻った。
俺の頭の中は混乱していた。病室で青白い顔で横たわる葵と、あの入り江でとび跳ねる葵。どちらも間違いなく葵なんだろうが……俺の知っている葵は後者だ。
俺は布団を敷いてその上に寝っ転がった。眠たい訳じゃないが、頭の整理が追いつかずに、目を閉じる。瞼の裏にはいつもの葵の笑顔が見えた。
俺があの場所で出会ったのは……葵じゃないとしたら、誰なんだ。
小一時間程経った頃、控え目に襖の外からばあちゃんの声が聞こえる。
「具合はどうね。何か薬が必要かい?」
「いや、休んでたら良くなるよ。大丈夫」
『大丈夫』と言いながらも全然大丈夫ではないのだが、上手く説明する事も出来ない。
するとばあちゃんから、
「ここにおにぎりを置いとくから。お腹が空いたら食べるんだよ」
と声がかかって、コトンとお盆を置く音がした。
足音が遠ざかる。俺はそっと襖を開けた。
廊下には、二つのおにぎりとたくあんが皿に乗せられ綺麗にラップが掛けられていた。グラスには氷と麦茶が入っている。
俺はお盆を持ち上げると部屋へ入った。
おにぎりを口にする前に、まず麦茶を一口飲んだ。やっぱり美味しいや。
ばあちゃんは変わらずそこに居てくれる。麦茶の味も変わらない。それが何だがとても嬉しくて、俺はポロリと涙を零した。
俺は涙を手の甲と拭うと、ポケットから、葵の手紙を取り出した。もう一度便箋を広げる。
『みつけて』
何度読み返してもたった一行だけ。
俺は……葵を見つけることが出来たのだろうか?彼女は本当の自分を見つけて欲しかったのだろうか?ならばこれで彼女の望みは叶ったという事なのか?疑問は尽きない。
手紙を裏返してみたり、電灯の光に透かしてみたりしたけど、これ以上の手がかりはない。
俺はどうしたら良いのだろう。もう……葵と話す事は出来ないのだろうか?
色々考えてもこれ以上ここで出来ることはない。……なら諦める?それとももう一度病院に行く?
ぐるぐると考えが巡る。
俺は手紙をテーブルの上に置くと、また明日あの入り江に行ってみようと心に決めた。
少しだけ期待する。また葵のあの笑顔に出会えるのではないか……と。
明日やるべき事が決まり、少しだけ心が軽くなる。俺はおばあちゃんのおにぎりをラップを剥がして一つ摘むと口に入れた。やっぱりおにぎりも美味しかった。