緩む頬を何とか抑えながら、
「いいよ、全然。体調は?風邪ひいたりしてない?」
と俺は葵に尋ねた。
「うん。大丈夫!希は?」
葵は昨日の泣き顔が嘘みたいに、笑顔が眩しかった。今日の空の様だ。
「俺も大丈夫。結構丈夫に出来てるから」
体の弱い弟は熱を出すと長引く質だったが、俺は熱すら出した記憶がない。もし病気をしていたとしても、多分……記憶にないぐらいの幼い頃だ。
すると、葵は
「ねぇ、昨日思ったんだけど……海で泳がない?」
と悪戯を思いついた子どもの様にそう言った。
しかし、ここは他人の私有地。しかも遊泳禁止だ。
「駄目だよ。ここは遊泳禁止だし」
俺が渋るのには、それ以外にも理由がある。……泳げないなんてバレたくない。俺の海水浴には浮き輪が必須だ。
「立入禁止の場所に入ってるくせに、今更そこを気にするの?」
「だって……。なんかあってもライフガードとか居ないんだよ?危ないじゃん」
頑なに反対する俺に、
「……さては希、泳げないな?」
と葵がニヤリと口角を上げた。……ドキッ!
「べ、別に……そんなんじゃないけど!」
とムキになる俺に、
「ますます怪しい」
と言う葵は完全に俺の心を読んでいる様だ。
俺は観念して、
「あぁ!そうだよ!悪いか?!」
と白状した。続けて、
「だから、葵が溺れたりしても助けらんない」
と俺が言うと。
「私、泳ぎ得意なんだ~。だから大丈夫だよ。見てて!」
と言いながら、葵は服を脱ぎ始めた。
「お!おい!」
と俺は目を両手で覆う。……指の隙間から少し見えるのは……不可抗力だ。
葵はTシャツとデニムを脱ぐ。服の下からは紺色のスクール水着が出てきた。
葵は洋服を放り投げると、海へと入っていく。
俺は慌てて脱ぎ捨てられた洋服を拾う。波打ち際で濡れてしまっては大変だ。
キラキラと水しぶきが太陽の光を反射する。その中をバシャバシャと泳ぐ葵が居た。確かに泳ぎは上手いようだ。
こういう姿を『人魚の様だ』と言うんじゃないのか?
そして、俺の邪な心は『ビキニなんかより、スク水って……エロいな』という感想で占められていた。
「希も足浸けるくらい良いでしょう?」
ひとしきり泳いだ葵が砂浜で退屈そうにしていた俺を誘いに来た。
「ま、まぁ……」
葵に手を引かれ、恐る恐る海へと入る。ふくらはぎを超えるぐらいの水位で俺はビビッてしまった。
そんな俺に葵が水をかける。
「お!おい!」
と言いながら、俺も葵に向かって手で水を跳ね上げた。
お互い、水を掛け合いっこする。……何だこのベタな恋愛漫画にあるようなシチュエーションは?!甘酸っぱ過ぎるだろう!
頭の中には冷静な俺が顔を覗かせているのだが、このシチュエーションを楽しんでいる自分が勝つ。
結局、俺の洋服はビショビショになった。
「あ~楽しかった!」
葵は砂浜に腰を下ろした。俺も砂が体につく事も気にせず、ゴロンと隣に横になる。
それを見た葵もゴロンと仰向けに寝転んだ。
二人で空を見つめる。太陽は少し傾き始めていたが、夏の昼は長い。まだ夜には程遠かった。
この場所だけ時間が止まった様な感覚に陥る。
本当はたくさん訊きたい事がある。葵の事をもっと知りたい。だけど、俺はそれを口に出せずにいた。
葵に嫌われるのが怖い。俺はその時そればかりを考えていた。
少しの間の沈黙を破って葵はボソッと、
「この夏は楽しいな~」
と言った。俺は隣で寝転ぶ葵の横顔を見る。
「……いつもは違うの?」
葵の事を知ろうとすると、彼女はスルリと逃げてしまう。……こんな事を訊いて、また逃げられるかもしれない。
「……そうだね。いつもはすっごくつまんない」
と葵は顔を顰めた。
『何故?』とか『どうして?』って訊くタイミングなのかもしれないが、どうしても俺には勇気が出なかった。
葵は少しだけ声を落として
「ねぇ、希はいつ帰っちゃうの?」
と俺に尋ねる。目線は空を向いたままだ。
「八月が終わる頃……かな」
父親の出張が終わるのと俺の夏休みが終わるのと……その兼ね合いでそう決まっていた。
もしかすると俺が家に帰ったら、もう母親と弟は居ないのではないかと、この時俺は予想していた。
離婚の理由も離婚のタイミングも俺がまだ『子どもだから』と教えて貰っていない。
大人が思う程、子どもは子どもじゃない。養って貰ってる身として対等に扱えとは言わないが、もう少し信頼して欲しいとは思う。