「嫌われたと思った」
葵は泣きそうな声でそう言った。
「は?俺が?」
「だって……約束破ったから」
「連絡先知らなかったんだし、仕方ないだろ?」
「でも……ごめんなさい」
とまた謝る葵に俺は、
「もう謝るのはなし!」
と努めて明るくそう言った。
「……ごめんね」
「謝るのは無しって言ったろ?」
「うん……。でも今日も来てくれてありがとう」
「俺が来なかったら……どうしてた?」
少しだけ顔を上げた葵に尋ねる。
「うーん……多分待ってた。来るまで」
葵は少し微笑んでそう言った。
「雨なのに?」
「うん。雨でも。私、待つの得意なんだ。人魚の事もずっと待ってる」
彼女はこの入り江で人魚を探している。何故そこに拘るんだろう。
「人魚、食べたいの?」
ふと、俺はそう口に出していた。すると葵は、首を横に振って
「人魚の涙って……人を癒す力を持ってるんだって」
と静かにそう言った。
「それは……初めて聞いた。じいちゃんは人魚の歌を聴くとその人はそれに魅了されて……不幸になるって……」
俺はその話をずっと忘れていたのだが、葵が人魚に固執する様を見て、じいちゃんが言っていた事を思い出していた。
あの時じいちゃんはこう言った。
『人魚は歌が上手いらしい。だがそれを聴いた人間はその歌に魅了されてな、頭の中がそれで一杯になって、どのみち不幸になるんじゃと。昔の日本では人魚は災いの前触れと恐れられておったしな。だがな希、人魚は必要とする人の前に現れる。そんなに怖がらなくても良い』と。
それを言うと、葵は不機嫌になるかと思っていたが、彼女は笑って
「そう言う伝承があるのは知ってる。確かに……魅力的な歌声だったし。でも私はもう一度逢ってみたいの」
そう言った。
「じいちゃんは『必要とする人の前には現れる』って言ってたよ。葵には……誰か癒したい人でも居るの?」
そう俺が尋ねると、葵は曖昧に微笑むだけだった。
葵が子どもの頃人魚に逢えたのなら、その時の葵に、人魚が必要だったという事になるのか?まぁ……じいちゃんが言ってただけだしな。うっかり人魚の存在を認めてしまっていた。
ふと葵を見ると、彼女の長い髪が雨で肌に張り付いている。俺はそっと額に張り付いた髪をかき上げた。
「ありがとう」
少しはにかむ葵が可愛い。
俺はつい触れた自分の指先が熱を持つのを感じていた。
「雨……止まないな」
自分の気持ちに気づいてしまった。俺はそれを誤魔化す様に立ち上がって外を見る。
さっきよりは少し雨脚は弱まって来たようだが、まだ止まない。
俺の背中に、
「小雨になったら、希は帰った方が良いよ。おばあちゃん心配してる」
と葵が声をかける。
「葵は?葵を置いて帰れないよ」
振り返ってそう言う俺に、彼女は微笑むだけだった。
『ブルッ』
少し肌寒くなって来た俺は腕を擦った。
「こっちで座ってなよ、寄り添えば少しは温かいよ?」
と言う葵の隣にそっと腰を下ろした。
隣に居る彼女を意識してしまって、ろくに顔が見られなくなってしまった。
黙っていると、少し瞼が重たくなってくる。
雪山じゃないけど、寝るのは不味いよな。
そう思っているのに、俺は体育座りをした膝の上に、ついつい顔を伏せてしまった。
どれくらい経ったのだろう。
瞼を開けると、外には星空が広がっていた。
「やべ!!葵!?」
と俺は横を向くと、葵の姿はもうそこには無かった。
「葵?!葵?!」
俺は岩の陰から外に出て、葵を探すけど彼女は何処にも見つからなかった。
俺は仕方なく、入り江を離れて自転車に乗る。
彼女の家も連絡先も知らない俺にこれ以上、葵を探す手段は無かった。
ばあちゃん家に帰ると、珍しく、しこたま叱られた。
俺は何度も何度も謝った。大切な友達との約束を忘れていたからと言ったら、
「今度からは何処に行くのか教えてから出掛けんね」
と言われた。……ごめん、ばあちゃん。
他人の私有地に入ってるから、それは言えない。
「うん、わかったよ、本当にごめん」
とりあえず俺は心の中でばあちゃんに、申し訳なさと後ろめたさを感じながら、部屋へと戻った。
次の日、早くから俺は急いで人魚の入り江へ向かった。
昨晩……結局葵を見つける事は出来なかったからだ。正直、昨日は眠れなかった。……お陰で課題は捗ったけど。
緩やかな坂を駆け下りると、その足音に気付いた葵が振り返った。
「希!」
笑顔で手を振る葵に、俺は駆け寄る。
「葵!昨日は突然居なくなってたから……」
「ごめん!……お迎えが来ちゃって。希にも声かけたんだよ?でも全然起きないんだもん。タイムリミットだったの……ごめんね」
手を顔の前で合わせて拝む様に謝る葵に、それ以上は何も言えない。……可愛いすぎるから。