翌日、俺は何となくあの人魚の入り江へ出掛けるのをやめた。人魚の入り江……葵がそう名付けた。葵は来なかった。自分で誘ったくせに……そう思うとイライラして、出掛ける気にならなかった。
「希、今日は出掛けんのかい?」
珍しくばあちゃん家の居間で課題を広げている俺を見てばあちゃんはそう言った。
「う……ん。まぁ、宿題しなきゃいけないし」
俺はシャーペンをくるくると回しながらそう答えた。
ばあちゃんは畑仕事を終えて帰って来た様だ。畑仕事と言っても自分が食べる分を自分で育てているだけだ……とばあちゃんは笑ってた。
「ばあちゃんも今日は戻るの早いね」
俺がそう言うと、
「あぁ。今日は一雨来そうだからね。ちょっと早めに切り上げたんだ。希、スイカ食べるかえ?」
と言うばあちゃんに、俺は他の事を考えながら『うん』と生返事をしていた。
「ほら、どうぞ」
と三角に切り分けられたスイカが並ぶ皿をばあちゃんがちゃぶ台に置いた時、外が一気に暗くなり、ポツリポツリと雨が降り出した。
俺がその音に縁側の外に目を向けると、ばあちゃんは、
「あ~やっぱり降ってきたね。酷い雨になりそうだ」
と俺と一緒に外を見た。
俺は心がざわざわした。……もしあの入り江に葵が居たらどうしよう。いや、最初に約束を破ったのは彼女だし、別に毎日あそこで会おうなんて約束している訳ではない。
ただ何となく、何となく毎日会うようになっただけだ。
俺は心のざわつきを無視してスイカを口に運ぶ。
『ゴロゴロゴロ』と雷の音がしたと同時に、雨脚が強くなって来た。
「ああ、これは酷くなりそうだ」
ばあちゃんが縁側の硝子障子を閉めようとするのを俺は、
「ばあちゃん、ちょっと出て来る!」
と言って、その間をすり抜けた。
縁側に置いたサンダルを急いで突っ掛け、門の近くに置いていた自転車に飛び乗った。
「希!!どこ行くんね!!」
と言うばあちゃんの声が俺を追っかけて来る様に感じるが、振り返らずにペダルを漕ぐ。
こんな雨の日に、彼女が居るわけがない。
そう思う心とは裏腹に、何となく葵が俺を待っているのではないかと確信めいたものを感じて、雨が顔に当たってもペダルを漕ぐ足を止めることはなかった。
彼女は居た。そこに。いつもと変わらずそこに居た。
俺はゼイゼイと息を切らしながら、葵に近づく。いつもの青い海は、雨のせいで灰色に濁って見えた。
雨がカーテンの様に彼女の姿を霞ませる。俺は彼女が消えてしまうのではないかと不安になり、思わず背後から彼女の腕を掴んだ。
「希……ごめんね」
振り返った彼女の頬を濡らすのは、この降り注ぐ雨なのか……それとも涙なのか。
「何でこんな雨の中、居るんだよ!ほら、風邪ひくぞ!もう帰ろう」
俺が腕を引いて波打ち際から離れようとするも、葵は動こうとしなかった。
「希、昨日はごめんね。やっぱり行けなかった。此処から……いや、此処にしか来られないの……ごめんね」
「は?何いってんだよ。昨日の事は……もう良いよ。ほら、帰ろう」
俺は葵の顔を見ると何も言えなくなってしまった。次に会ったら絶対に文句の一つも言ってやろうと思っていたが、今の葵には何も言う事が出来なかった。彼女が……今にも消えてしまいそうで。
「帰れないの……」
そうポツリと言う葵に、
「は?何?また親子喧嘩?……でも心配してると思うぞ?こんな雨の中……」
自分はばあちゃんに心配かけているのだが、そんな事は棚に上げて俺は葵にそう言った。
葵は俯いて、首を横に振るだけで、何も答えない。
すでにずぶ濡れだが、これ以上ここに留まるのは馬鹿だろう。
俺は周りを見回して、大きく迫り出した岩を見つけてそこに葵を引っ張って行った。
「雨が止むかはわかんないけど、とりあえず此処で雨宿りしよう」
何とか雨は凌げそうだ。葵は俯いたままだが、俺はその場に腰を下ろした。
雨に烟った海はいつもと全く違う表情だ。俺はそれをボーッと見ていた。
葵もゆっくりと俺の横に腰を下ろす。ピッタリとくっついた葵の肌は雨に濡れたせいか、とても冷たかった。
「寒くない?」
と尋ねる俺に、葵はゆるゆると首を振った。
自分から約束をすっぽかされた事を掘り下げるのは嫌な気分だが、
「昨日の事はもう気にしてないよ。都合が……悪くなったんだろ?連絡先……交換してれば良かったな」
俺はポケットに手をやる。スマホは……そういえば居間に置いたままだった事を思い出した。
「私……スマホ持ってない」
葵と色んな話をしたが、あまり彼女は自分の事を話たがらなかった。専ら俺の話を聞く専門で、あまり面白くない俺の話をいつもニコニコと聞いてくれた。
「マジ?」
俺が驚いた様にそう言うと、葵はコクンと頷いた。