「その日はね……月がとても綺麗な夜だったの。私、お母さんと喧嘩しちゃって……家を飛び出して……闇雲に自転車でウロウロしている時にね、声が……歌声が聴こえたの」
彼女はその時の事を思い出す様にゆっくりと話し始めた。
「その歌声に導かれる様に、気付いたら此処に来てた。それで……その岩場にね、彼女は居たの」
と葵が大きな岩を指差した。俺も視線をそこに移す。何故かふと、そこに誰かが居たような気がした。
「彼女は歌を……歌を歌ってた。言葉はなんて言ってるのか分からなかったけど、その声はとても綺麗で心地良くて。フラフラと私は彼女に近付いたの」
葵は俺の反応など待っていないかの様に、少し微笑みながら話をする。
「少しの間、彼女の歌を聴いていたんだけどね。彼女は私に気がつくと……とても綺麗に微笑んで海に戻っていった。私は慌てて彼女の座っていた岩場から海を覗いたんだけど、もう姿は何処にも見えなかった」
彼女の話に水を差すようで悪いが、俺は、
「その人……じゃない……何て言えば良いかわかんないけど、その彼女が人魚だっていう証拠は無いだろ?」
とつい口に出してしまった。
すると葵は半パンのポケットをゴソゴソと探って、何かを握り締めると、俺の目の前でその手を開いて見せた。
「ほら。コレが証拠」
彼女の手のひらには薄いオレンジ色の鱗が乗せられていた。
「ウロコ?これが証拠?」
「うん。彼女が消えた岩場に残されてたの」
葵は俺の手のひらを開かせるとそこにそのオレンジ色のウロコを乗せた。
俺はそのウロコを指で摘むと太陽に透かす様に空に掲げる。確かに魚のウロコにしては大きくて分厚い。だからと言ってこれが人魚のウロコかと言われれば、素直に頷く事も難しい。
だって俺は人魚に逢った事がない。そんな俺の気持ちを見透かした様に、
「さては信じてないな~?まぁ、仕方ない。きっとこんな話しても誰も信じてくれないだろうなって思ってたから、想定範囲内」
葵はそう言って俺が摘んでいたウロコをひったくる様に取り上げた。
俺は葵に嫌われてしまったのではないかと、慌てて
「信じてないとは言ってないだろ?でも俺は人魚なんて見たことないし」
と言い訳がましい言葉を口にした。
「ふふふ。怒ってないよ。ただ、私は真実を言っただけ。信じるも信じないも希次第」
「……とりあえず、俺もじいちゃんに聞いたことあったから……この海にそんな言い伝え?みたいなのがあるのは知ってたし。
で、その人魚と葵が此処に居るのとどんな関係があんの?」
「人魚の肉を食べると不老不死になれるって……知ってる?」
葵はまるでこの海の人魚に聞こえては不味いと思っているのか、物凄く声を小さくして俺の耳元で囁いた。……ちょ!近い、近い。俺は顔に熱が集まるのを感じた。
「じいちゃんに聞いた」
俺は赤くなった顔を見られない様に顔を背けた。
「……でも、誰も食べた人はいないの。そんな言い伝えがあるだけ」
「葵は不老不死になりたいの?」
そう言った俺に葵は少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。
「……人魚を食べるのは、何だか可哀想よね」
葵はそう言うと、再び岩場に目をやった。
「皆が不老不死になったら医者が必要なくなるぞ?」
医者になりたいと言った葵の言動に矛盾を感じて俺がそう口にすると、
「本当だ!その通りだね」
と葵も笑った。だけど、やはりその顔は何故か寂しそうだった。
「……もう一度逢ってみたいな……人魚に」
葵はそう言うと遠くを見た。何故かフッと葵が消えてしまいそうな感覚に陥って、俺は思わず
「葵?」
と声をかける。葵はいつも通りの明るい笑顔で、
「ねぇ、今度水族館に行かない?」
と可愛く首を傾げた。
次の日に隣町の水族館の前で待ち合わせた俺は、ドキドキしながらその場所に向かった。
まだそこに葵の姿はなく、俺は水族館の入口に映る自分の姿を頭から爪先まで素早くチェックした。
内心ウキウキしている。これってデート?いやいやそんな訳……じゃあこれは何だ?いや、調子に乗るなと自分の中でテンションの上がり下がりが激しい。
しかし……十分待っても、三十分待っても……そして一時間待っても彼女は現れなかった。