俺は自転車のタイヤに空気を入れて、少し離れた郵便局までお使いに行くことになった。
コンビニなんて物もここら辺にはない。ついでにスーパーでの買い物も頼まれた。
スーツケースにみっちり入った課題を見て見ぬふりをした俺は、颯爽と自転車に跨る。
電波が入らない訳じゃないが、スマホを見るのも億劫だった自分には、このお使いの提案は嬉しい限りだった。
山の上にある、ばあちゃん家から自転車で坂を下る。ペダルを漕がなくても自転車はグングンと加速していった。風が気持ち良い。
時折『ガッチョン、ガッチョン』と自転車から不穏な音が聞こえるが、それも愛嬌だ。
山を降りると今度は海が見えてきた。
ここは海水浴場にもなっていて、夏場は結構人が来る。しかし俺にはもっと、とっておきの場所があった。
郵便局でのお使いを済ませ、スーパーに向かう途中、俺の隠れ家的場所に差し掛かった。
もう……八年ぶりぐらいだけど……そこはあの時のままだろうか?
俺は好奇心から、その場所を目指した。
『立入禁止』の看板が薄汚れたままそこにあった。ロープが張られ先には進めない様になっているが、自転車を置いた俺は、それを無視してロープをくぐる。
小さな頃はくぐった方がすんなり通れたのだが、十六になった今は上を飛び越えた方が良かったと後悔する程に屈まなければならなかった。
そこからなだらかな坂を下ると、静かな入り江に着いた。
ここは誰かの私有地で本当は立入禁止。だけど、ここに何度も来ていた俺としては、怒られた事などないので、丸っとスルーだ。
「変わんねーな」
と独り言ちる。
そこには誰も居ない静かな海辺があった。
俺は大きく伸びをした。海風は少しベタつくが潮の香りは子どもの頃を思い出させる。
俺は波が来ない場所に腰を下ろす。岩場に挟まれて狭く切り取られた海が目前にあった。
ここは波も穏やかで、静かだ。
幼い頃はここに内緒で来ては海を眺めていたっけ。……泳げないくせに海が好きなのはじいちゃんの影響かもしれない。
「ここの海には人魚が住んでるんだ」
じいちゃんは小さな俺に『内緒だ』という風に声を抑えてそう言った。
『人魚?』
と目を丸くして聞き返す俺に
『あぁ、そうだ。人魚の肉を食うと不老不死になれるらしいが、本当は……』
とじいちゃんは顎を擦る。あれ?本当は……の続きってなんて言ってたっけ?
当時の俺には人魚がどんな物か、想像もできなかったが
『不老不死ってなに?でもお肉食べるなんて可哀想だよ……」
と顔を顰めた事を覚えている。
『ハハハッ!希は優しいなぁ。そうだな、食べてしまうのは可哀想だ。それに不老不死……人間がいつまでも死ねないって言うのも、それはそれで辛かろう』
とじいちゃんは俺の頭を撫でた。
不老不死という言葉がわからなかった俺には、『死ねない』の言葉の方が印象に残っている。『死なない』のではなく『死ねない』じいちゃんはそう言った。
首を傾げる俺に、
「だがな人魚は用心深い。きっと人間の前においそれとは姿を現さんよ。それとな人魚は歌が上手いらしい」
とじいちゃんは微笑んだ。……なんかその後も何か言っていた気がするんだけど……記憶も朧気だ。
俺がじいちゃんの事を思い出しながら海を眺めていると、
「あれ?君は誰?」
と後ろから声を掛けられて、思わず肩が跳ねる。
内心(やべー!怒られる)と思いながら振り向くと、そこには俺と同じくらいの年頃の女の子が立っていた。
俺は慌てて立ち上がると、
「すみません!!直ぐに出ていくんで!」
と頭を下げた。
こんな時は謝ったもん勝ちだ。向こうに文句を言われる前に退散しよう。
すると彼女は、
「別に出ていかなくて良いよ」
とニッコリ笑った。
少し茶色の髪は真っ直に腰の辺りまで伸びていて、タンクトップにデニムの半パンからはスラリとした手足が伸びていた。
強い日差しの中で、彼女の白い手足は光を反射した様に煌めいていて、眩しいくらいだ。
猫の様に丸く少しつり上がった瞳が印象的な彼女は、俺の横まで来ると、自分も砂浜に腰をおろした。俺も何故か慌てて再び腰を下ろす。目線の合った彼女は俺に微笑んだ。
「君の名前は?」
「希。希望の『希』って書いて『のぞむ』」
「私は葵。徳川家康の家紋で有名なアレね。歳は?幾つ?」
「十六……になったばかり」
夏休みが始まって直ぐ、俺の誕生日だった。……父さんに現金を手渡されたっけ。
「あ、じゃあ歳下だ!私は十八の高校三年生。うちの高校の一年生?見かけない顔だけど」
この先の隣町に高校がある。そこの生徒みたいだ。
「いや。夏休みにばあちゃん家に遊びに来ただけ」
「ふーん……だから見たことなかったんだ」
俺達はその後も取り留めもない会話を続けた。
お互い核心に触れない程度のそんな様子見の会話だったが、俺は思いの外楽しかった。
日が傾き始める。俺は、
「あ!不味い、スーパー行かなきゃいけないんだった!」
と立ち上がった。
此処ら辺のスーパーは驚くほど早く閉まる。
「ふふふ。忘れてたの?」
彼女もお尻の砂埃をパンパンと払いながら俺と同じ様に立ち上がった。
「ごめん。じゃあ俺、行くわ」
と俺は走って緩やかな坂を登る。彼女は俺の背中を見送って
「またね~」
と手を振った。
「遅かったねぇ。事故にでも遭ったかと思ったよ」
俺の自転車の音が聞こえたのか、玄関先に心配顔のばあちゃんが現れた。
「ごめん、ごめん。ちょっと海、眺めてた」
と言う俺に、
「あんたもじいさんと同じで、海が好きだねぇ。ま、無事なら良いよ」
とばあちゃんは笑顔になった。
「スマホ持ってるから、電話すれば良かった。ごめん」
女の子と話してて時間を忘れてた……とは流石に言えなかった。
「良いよ、良いよ。そんなもんであんたを縛りたくない。此処ではゆっくり過ごせば良い」
ばあちゃんは俺が両親の離婚に傷ついてると思っているみたいだ。そんなの気にし過ぎなんだけどな。
俺は買ってきた物を
「これ、どこに置けば良い?冷蔵庫に入れる奴もあるけど」
と少し掲げながら靴を脱いだ。