その辻馬車は客待ちの為に学園通りの路上に止めていた。
「ふわぁぁあ~……今日は暇だなぁ」
御者台に乗った男は大きな欠伸をしたその時。
「あの……申し訳ありませんが、馬車を出していただけますか?」
「え!?」
不意に声をかけられ慌てて振り向くとドレス姿の若い女性――アンジェリカが立っていた。
「あ、あの……お嬢様を? ですか……?」
この辻馬車は平民ばかりが利用する馬車で、ドレス姿の女性など一度も乗せたことが無い。
「はい、そうです。あの……駄目でしょうか?」
「い、いえ。駄目ってことはありませんが……」
御者は焦っていた。
(困ったな……この女性はどうみても貴族だ。御者を始めて12年になるが俺は貴族の扱いなんか分からないし、礼儀作法だって分からない。それなのに、乗せるだなんて……)
御者はアンジェリカを改めて見つめた。
綺麗にセットしたはずの髪はセラヴィとのトラブルで乱れている。表情は悲し気で、憔悴しきっているようにみえた。
そして細い腕には、セラヴィに強く握りしめられたことで青く鬱血の跡がみられる。
この姿に御者は同情した。
(可哀そうに……きっと、この女性は何かトラブルに巻き込まれたに違いない。恐らくそれで逃げてきたのだろう。ドレス姿ということは、パーティーか何かだろうか? これでは断っては気の毒だ。乗せてあげることにしよう)
「ええ、いいですよ。お乗りください、あ! 今、扉を開けますね」
御者は慌てて台から降りると、扉を開けた。
「どうぞ、乗り心地は悪いかもしれませんが我慢していただけますか?」
「御親切にありがとうございます」
アンジェリカは丁寧に挨拶し、動きにくいドレスだったが何とか乗り込んだ。
「行先はどちらですか?」
「はい、グリフィン通りの7番街にあるブライトン家迄お願いしたいのですが」
「グリフィン通りの7番街……」
御者は口の中で復唱し、焦った。
(なんてこった! グリフィン通りと言えば、貴族の屋敷が建ち並ぶ高級住宅街じゃないか! ということはやはり、この女性は貴族令嬢……。それなのに何故こんな粗末な辻馬車に乗るのだろう?)
「あの……やはり駄目でしょうか?」
行先を告げたものの、難しい顔で黙り込んでしまった御者にアンジェリカは恐る恐る声をかけた。
「いいえ! 滅相もありません! ただ……見ての通り、みすぼらしい辻馬車ですから……お屋敷の敷地内に立ち入り禁止を言われてしまうのではないかと思って……あ! も、申し訳ございません!」
すると御者は大げさな身振りで否定する。
「それなら心配には及びません。屋敷の裏手に回って頂きますから立ち入り禁止にはならないはずです」
「そうですか……? 分かりました。では出発します」
扉を閉めると御者台に座り、馬車は走り始めた。
――ガラガラガラガラ……
音を立てながら走る馬車に揺られながら、外の景色をアンジェリカはうつろな瞳で見つめていた。
「セラヴィ……まさかあんなに変わってしまったなんて……」
未だにセラヴィの変貌ぶりが信じられなかった。
けれど、アンジェリカの白い腕には強く掴まれた跡が残っている。
「私たち……本当に、もう終わりなのね」
寂しげに呟くアンジェリカ。
アンジェリカはまだ知らない。
この後、さらに無謀な要求を突き付けられることを――