5月初旬のことだった。
その日ブライトン伯爵家に、新しい命が誕生しようとしていた――
――午前10時
「アンジェリーナは、もう子供を産んだのか?」
書斎で仕事をしながらブライトン家の若き当主――チャールズ・ブライトンが不意に秘書のヘクターに尋ねた。
「さぁ……申し訳ございません。私はチャールズ様の秘書であり、仕事の補佐をするのが役目なので屋敷のことまでは分かりかねます」
淡々と答えるヘクター。
「ふむ……そうか。だが何も言ってこないということは、まだ生まれてこないのだろう。それにしても遅いな。かれこれ24時間以上は経過しているはずだが」
そのとき。
少し焦った様子のノック音が部屋に響き渡った。
「チャールズ様。もしかして、お生まれになったのではありませんか?」
「何? そうなのか? よし、中に入れ!」
「失礼いたします! 旦那様!」
ブライトン家の執事、ルイスが慌てた様子で部屋に現れた。
「生まれたのか!?」
「はい、たった今愛らしい女の子がお生まれになりました」
「何だと!? 男では無いのか? チッ! 全く……使えない女め」
忌々し気に舌打ちするチャールズはその場を動こうとはしない。
「それよりも大変です! 奥様が……アンジェリーナ様の御様子がおかしいのです! すぐにお医者様から旦那様をお連れするように言われておりますので、お越しください!」
「仕方ないな。不本意ではあるが様子を見に行けば良いのだろう?」
「……はい、大至急お願いいたします」
色々と言いたい言葉はあったが、それらを全て飲みこんでルイスは返事をした。
「よし、では行ってくる。ヘクター、お前はここで引き続き仕事をしてくれ」
「はい、承知致しました。チャールズ様」
ヘクターに告げると、チャールズは執事を伴い部屋を後にした――
****
「旦那様! お待ちしておりました!」
チャールズが現れると、アンジェリーナの侍女ヘレナが真っ先に声をかけた。その顔は真っ青になっている。
「お待ちしておりました、ブライトン伯爵様」
白衣姿の男性医師が恭しく挨拶する。
周囲は重苦しい雰囲気に包まれているが、チャールズは気にせずに尋ねた。
「それで生まれた子供はどこにいる?」
「はい、こちらにいらっしゃいます」
アンジェリーナの専属メイドが返事をした。腕には眠っている赤子を抱いている。その姿を覗き込むと、チャールズは鼻をならした。
「この赤子が私の子供か。しかし女だったとはな……全く使えないものだ」
そのあまりにも冷たい物言いに周囲にいた人々は眉を潜めるも、チャールズは気にも留めない。
「ブライトン伯爵様。奥様のことで先に告げなければならない事実があります。どうか落ち着いて話を聞いて下さい」
男性医師は神妙な顔つきでチャールズを見つめる。
「そう言えば先程知らせに来た執事が何か言っていたな? アンジェリーナがどうした?」
「……実は、奥様のアンジェリーナ様は……先程……お亡くなりになりました……」
医師が告げると増々室内は重苦しい雰囲気に包まれ、あちこちですすり泣きが起こる。
「何? アンジェリーナが……亡くなった?」
あまりにも突然の話にチャールズは目を見開く。
「はい、そうです……」
医師の言葉に、チャールズはゆっくり傍らのベッドに近付いてみた。すると血の気の失せた表情のアンジェリーナが両手を組んだ状態で寝かされていた。
「本当に……死んでいるのか?」
「……はい。30時間にも及ぶ難産の上、奥様は元々お身体の弱い方でした。とてもではありませんが、出産に耐えられるお身体では無かったのでしょう。最善を尽くしたのですが……このような形になってしまい、大変申し訳ございません」
あちこちですすり泣きが聞こえ、鎮痛な空気が流れる中でチャールズは信じられない言葉を口にした。
「そうか、アンジェリーナは死んだのか。では、もう男児を望むのは無理という事だな」
『!』
一瞬でその場にいた人々が凍り付き、医師もあまりの発言に言葉を無くしてしまう。
「旦那様! それはあんまりなお言葉です!」
侍女のヘレナが悲痛な声を上げた。
「何だ? お前は」
睨みつけるチャールズに物怖じすることなくヘレナは訴えた。
「旦那様、奥様は30時間もの難産に耐えたのですよ!? 何度も途中で旦那様をお呼びしようかと思っておりましたが、それをアンジェリーナ様が止めたのです。旦那様にご迷惑をおかけするわけにはいかないと仰っられて……それなのに……あっ!」
パンッと乾いた音がして、ヘレナが頬を抑えた。チャールズが平手打ちしたのだ。
「貴様! たかだか使用人の分際でこの私に盾突く気か!!」
怒鳴りつけるチャールズを、執事のルイスが必死に宥める。
「落ち着いて下さい! 旦那様! 彼女はアンジェリーナ様の輿入れの時についてきた侍女です。今はまだショックで混乱しているだけです。どうかお許しを!」
「チッ! そういうことなら仕方ない……今回は特別だ。だが、次はもう二度と無いと思え!」
次にチャールズは唖然としている男性医師に声をかけた。
「子供の顔も見たことだし、用件も済んだので私はこれで失礼致します。先生には御足労おかけいたしました。それでは」
「え? ブライトン伯爵様!? お待ちください!」
男性医師が呼び止めるも、チャールズは振り向くことなく部屋を出て行ってしまった。
チャールズが出て行くと、ヘレナは泣きながら永遠の眠りに就いてしまったアンジェリーナの手を握りしめた。
「こんなに冷たい身体になってしまって……お可哀そうに……! 大体私は最初から、この婚姻に反対していたのです! チャールズ様は婚約中もアンジェリーナ様に冷たい態度しか取っておられなかったから……」
その言葉に、執事であるルイスは叱責した。
「ヘレナッ! 仮にもこの屋敷の当主であらせられるチャールズ様に何と言う口の利き方をするのだ! もしやクビにされたいのか!?」
「ええ、構いません! 私はアンジェリーナ様がまだ小さなお子だった頃から侍女として仕えてまいりました! あの方がいなくなってしまった今、もうこのお屋敷に仕える意味は無くなりました!」
「何だと? 本気でそのようなことを言っているのか?」
そのとき、突如甲高い声が室内に響き渡った。
「ヘレナ様! いい加減になさってください!」
声の主は赤子を抱いていたアンジェリーナの専属メイドのニアだった。
ニアはヘレナの側に来ると訴えた。
「ヘレナ様がそんな様子では、誰がこの方を守れると言うのですか! 生前、アンジェリーナ様が仰っていたことをお忘れですか? もし自分に万一のことがあれば、子供をお願いとヘレナ様に託されていたではありませんか!」
ニアの目にも涙が浮かんでいる。
彼女もまた、経歴は短いけれどもアンジェリーナの輿入れ時に一緒にブライトン家に入ったメイドで、心優しいアンジェリーナを慕っていた。
「そうだったわ……。私はアンジェリーナ様から、お子様を託されていたのだったわ……その方をこちらへ」
涙を拭ったヘレナはニアに手を伸ばすと、眠りに就いている赤子を受け取る。
「あぁ……本当に、何て愛らしいお顔なのでしょうか。アンジェリーナ様に良く似ていらっしゃいます……」
ヘレナはしっかり赤子を抱きしめると、ルイスに顔を向けた。
「ルイス様。先ほどは取り乱してしまい、大変申し訳ございませんでした。この方のお世話をどうか私にお任せ下さいませんでしょうか? 沢山の愛情を注いで育てることを誓いますので」
「勿論だ。君意外に、アンジェリーナ様のお世話をお願い出来る人物が何処にいると思う?」
「ありがとうございます、ルイス様」
「それで、ヘレナ。この方のお名前だが……残念なことに、チャールズ様は全く興味を持っておられない。恐らく名前を付けることはないだろう。さて、どうしたものか……」
ルイスが考え込む素振りをみせる。
「それならご安心ください。アンジェリーナ様から男の子ならアンジュ。女の子ならアンジェリカと名付けて欲しいと託されております」
「そうか。それでは……」
「はい。お名前はアンジェリカ様です。この愛らしさはまさに天使そのもの。ぴったりのお名前です。アンジェリカ様、これからどうぞよろしくお願いいたします」
ヘレナはスヤスヤと眠るアンジェリカを愛おし気に抱きしめるのだった――