とても奇妙な光景だった。
「レジーナ夫人、そろそろお客様のお迎えの準備を」
厨房の隣に備わる控え室では、ビートンが、慣習的にレジーナを、夫人と呼びながらテーブルに置いた白い巻き毛のカツラに小麦粉を振りかけていた。
ボレロ式の上着にベストと半ズボン、絹靴下とパンプスの組み合わせ──、給仕用の正装、ジュストコールスタイルに身を包んだビートンは、焦りながら小麦粉を振りかけている。
その傍から、テーブルに溢れた小麦粉をリジーが拭き取っていた。
「ビートン、いえ、ビートンさん、何をなさっているの?」
レジーナの質問に、あっ、と、小さく声を上げるが、ビートンは、すぐに澄ました顔で、かつらの白さが、くすんでいるからだと答えた。
「あの、そうゆう準備は、先に済ませておくべきでは?」
レジーナの指摘に、ええ、人手がありましたらねぇ、と、どこか、ぞんざいな素振りで、ビートンは言うと、かつらを頭に被る。
とたんに、赤い上着へ、小麦粉が降り落ちる。すかさず、リジーが羽箒で、上着にかかった小麦粉を叩く。
息があっているのか、なんなのか、思わずレジーナは、クスリと笑った。
「余裕が有りそうでよかった。ジョンが、
通常、そこで軽い談笑がおこなわれ、
きっと、頃合いを見て、レジーナが、階段脇に立ち二階の食堂へ案内するのだろう。
「それまでに、私は前菜を用意しておきます。よろしいですか?」
あの、と、レジーナが言いかける脇を、ジョンがトレーに乗せた料理を運んで行く。
「食堂の隣の部屋に、あらかじめ、食器や料理を運び込んでおくのです。厨房は、一階ですからね。それに、本日のお客様は、多少冷えていようが、気になさらない方々でしようから」
ふっと、ビートンは、鼻で笑った。
確かに、この催しには、裏がある。誰も知らない、プルフェィン卿とやらの主宰なのだから。
「あっしが思うに、卿は、来れなくなったとかで、結局、ディブ様が、仕切るんじゃないでしょうかねぇ」
マクレガーが、山盛りの揚げポテトをテーブルに置いた。
「まったく、肝心の
何やら、不機嫌なマクレガーは、忙しげに厨房へ戻る。
「やはり、一人で料理、というのは、大変なのですね」
レジーナは、皆の手慣れた動きを見ながら呟いた。
二階からジョンが戻り、すかさず、壁際の食器棚から皿とカラトリーを取り出して、器用に運び出して行く。
「ポテトは、いいのかしら?」
「あー、へたすれば、客間で、つまみはないのかと、騒ぎそうですからね、様子見ということで」
「あーー、マッシュポテトも、多めに作った、ローストビーフに、山盛り添えるといいさ!どうせ、葉物野菜を添えても、生の物なんか、食えるか!と、言われるのがオチだからなーー」
厨房から、マクレガーがいまいましげに叫んでいる。
「ああ、リジー?」
「はい、ビートンさん。レジーナ様、じゃなかった夫人のお部屋はちゃんと、鍵をかけてます。あと、書斎にも」
書斎は、レジーナと、ビートンが屋敷の運営について、相談する場所になっている。そして、重要な書類も保管していた。
「あら、それではまるで……」
「はい、レジーナ夫人、多少の損失は、ご覚悟を。カラトリーは、揃え直す事になるかもしれませんね」
はあ、と、息をつき、肩をすくめるビートンは、手癖の悪いお客様もいらっしゃるかもと、言い渋った。
ジョンが、ドタドタと駆け込んで来る。
「来ましたぜ!馬車が止まりました!」
皆、一斉にレジーナを見た。
「あ、ああ、私が、お出迎えすれば良いのね?」
うんうんと、皆は、頷く。
「えっと、そうだわ、ジョン、お飲み物の用意、よろしくね」
はい、と、ジョンは答え、ビートンは、
「では、私は、二階へ。食事のセッティングに参ります」
言うと、かつらの小麦粉を振り撒きながら、すたすた歩んで行った。
その後を、リジーが慌てて、箒と羽箒を手に、追いかけて行く。
「では、私も」
レジーナは、言うと、大きく深呼吸をした。
玄関ドアから、
急ぎの電報配達人が行うような、けたたましいノックの音に、二階から、ビートンが顔を覗かせ、リジーが、階段を駆け下りて来た。
ジョンまでが、奥から出て来て、
「リジー、その、
と、レジーナを下がらせようとした。
二階のビートンも、頷いている。
きっと、ノックの音が、紳士らしからぬ調子だから、なのだろう。
もしから、本日の催しは、急きょ中止と、本当に、電報が入ったのかもしれない。
ともかく、来客らしからぬ様子に、レジーナがドアを開けるべきではないと、屋敷の使用人達は判断したようだ。
「レジーナ夫人、さあ」
脱いだ
戻ってみると、テーブルにはマクレガーが作った料理の数々が並べられていた。
リクエストの、フィッシュ&チップス大盛は、ポテトが山盛りで誤魔化され、マッシュポテトのカナッペも並んでいた。
そして、鍋に入ったライスプディングもある。
どうみても、貴族の晩餐とは、思えない、庶民の味が揃っていた。
「まあ、グダグダ言いやがったら、マッシュポテトを添えてやってください」
マクレガーが、レジーナへ、忠告するかの口ぶりで、メニューの説明を行ってくれる。
「メインのローストビーフは、オーブンの中です。奴ら、いや、お客様には、ソース無しで、そのままで。付け合わせのヨークシャープディングに、ローストビーフを添える感じで出して下さい。まあ、そこは、ビートンの仕事ですけどね、くれぐれも、それは、違うなどと、口出しは、なさらないように。肉の前に腹ごしらえさせておくのが、庶民風なんですよ」
おっと、酒の用意を……、と、呟きながら、マクレガーは厨房へ戻った。
「ねぇ、リジー?さっきの説明って、まるで、庶民の夕食じゃない?」
「はい、私たちは、肉なんて、とんでもない!特別な日に、ヨークシャープディングで、お腹いっぱいにして、それから、ソーセージを、一、二本食べるのが、やっとなんです。プディングは、小麦と牛乳を、オーブンで焼いた物ですから、肉よりも、かさましできます!」
リジーは、舌なめずりしそうな勢いで、嬉しそうに語った。
随分、レジーナ達の食事と異なるメニューと食べ方に、面食らいつつも、何故、小さめではあるが貴族のパーティーに、庶民、それも
そして、フットマン、として、ドアを開け、取り次ぎ役を買って出た、ジョンの戻りが遅い事に気が付いた。
「リジー、ジョンは、何をしているのかしら?」
通常の屋敷には、フットマンと呼ばれる、男性家事使用人が存在する。玄関をノックされれば、ドアを開け、執事に取り次ぐべき人間か判断し、掃除係のハウスメイドが、家具を動かす時には、その役目を買うと、文字通り、小回りのきく使用人なのだが、収入源の乏しいレジーナの屋敷には、その役目は置いていない。
すべて、執事のビートンが、こなしていた。
もしかしたら……居るべきものが居ないのも、ここが不人気な理由なのかもしれない、と、レジーナは感じつつも、いや、借り主がついて、パーティーが開かれるではないか、と、浮かんできた疑問を打ち消した。
それにしても、ジョンは、ドアを開けて、身元を確かめるだけのことに、一体、どれだけの時間を費やしているのだろう。
「……もしかして!ジョンったら!」
リジーが、顔を歪めた。
「もう!皿洗いのくせに!!!」
その怒り具合で、レジーナも、ピンと来る。
「リジー、様子を、伺ってみましょう」
「はい!レジーナ夫人!」
二人は、控え室のドアを控えめに開け、顔をつきだした。