猫の額ほどの裏庭に植わっているマグノリアの花が咲き、その根本に、生い茂るように突如とラッパ水仙が生え出し、黄色い小さな蕾を膨らまし始めると、ロンドンの社交シーズンは幕開けとなる。
この季節が、またやってきたのかとレジーナは、二階の自室の窓から庭を眺めながら息をついた。
住むのは、町屋敷と呼ばれる小さな邸宅。貴族が住む場所ではあるのだが、皆が想像する、あの大邸宅とは規模は半分以下、いやそれ以下か。とにかく、中産階級層の一家が住むにふさわしい大きさの物件だった。
その、いわば、ファミリー向けの屋敷に、レジーナは一人で住んでいる。正しくは、執事、メイド、料理長、その補佐、も、同居しているが、彼らは、あくまでも使用人。家族とは言えない。
──時は、1807年。
その3月に、イギリス議会で奴隷貿易廃止法が可決された。
もともと、移民や奴隷などは、レジーナの屋敷では雇っていなかったが、中には、下働きとして、移民を雇っている所もある。なによりも、街の裏方として、重宝されていた彼らが、今後、もう、手に入らないと知った親方達は、どうでてくるのだろう。当然、人手不足に陥るだろうが、それは、レジーナが属する階級にも、影響をあたえるのだろうか。そして、彼女が行っている、賃貸という事業にも、なんらか、関わってくるのだろうか。
ため息をついていたのは、そのせいでもあった。
この時期、ロンドン有数の高級住宅街にセカンドハウスを持つ貴族達は、社交パーティー用に、屋敷を貸し出す手はずを整える。
こぞって、借り手は見つかったのかと、お抱えの不動産業者へ催促をかけるのだが、もちろん、業者も心得ており、すでに予約できておりますと答える。
そして、レジーナの屋敷はといえば、その不動産業者に、逆に発破をかけられる始末だった。
何が嬉しくて、
そもそも、このような具合ですと、頭を下げて来るのが筋なのに……。
田舎貴族ではあるが、男爵家に生まれ育ったレジーナには、屈辱的とも言える受け答えしかできな男、コリンズと、また顔を会わすのかと思うと、薄曇りの空の下、芽吹く春咲きの植物は、決して心安らぐ嬉しいものとは思えなかった。
ここは、チェルシー地区なのだ。ロンドン最高級住宅地、メイフェア地区には劣るけれど、しっかりと高級住宅街と認識されているはずなのに……。
パーティーシーズンを待ちわびていた
社交パーティーは、遊興目当て、ロンドンでの人脈作り、などなど、理由はそれぞれであるけれど、目的はただ一つ。
見栄を張りたい。これだけだった。
彼らの住む家は、賃貸アバルトマンにしか見えない。ならば、品のよい骨董品が飾られ、教育の行き届いた使用人達が、立ち働く屋敷を借りて、派手にパーティーを開こうではないか。しかも、その準備は、すべて、使用人達が取り計らい、望み通りの完璧な仕上がりになるのだから、割高であろとも、屋敷ごと借りるメリットは、非常に大きい。
気に入れば、そのまま、借り受け、住むことも可能なのだから、成り上がりの者達には、実に、うってつけのシステムだと言える。
最高級、から、少しだけ落ちただけのここならば、すぐに借り手がつくはずなのに……。レジーナの屋敷だけは、いつも、取り残された。
理由は、様々。しかし、レジーナが、住んでいる、つまり、住人ありきの屋敷であるというのも、理由の一つかもしれない。
隣の屋敷は、すでに、社交パーティー解禁、とでも言うべきか、借り手が見つかっているようで、真新しいお仕着せ姿の使用人達が、準備のために動き回っている。
二階から、よそ様の様子を覗きみしつつ、今シーズンは、うちは、どうなるのかしら?と、レジーナは、深いため息をつくのだった。
そこへ、ドアをノックする音がする。執事のビートンだろう。
「お入りなさい」
レジーナは、どこか冷たく返事をした。
──いいかい、レジーナ、使用人には、甘い顔をしてはならないよ。──
兄の言いつけが、レジーナの脳裏をかすめる。
使用人というものは、甘やかすと、すぐに盗みを働く。が、兄の口癖だった。
確かに、兄は盗まれた。弟分のように可愛がっていた、
若き男爵夫人は、田舎暮らしの貴族の本宅生活に刺激を求め、近場の男で手を打った。そして、駆け落ちしてしまった──。
以来、兄は、使用人への態度を改め、さらに、妹が退屈から間違いを起こさないようにと、レジーナの相続分である、この町屋敷を管理させるという名目で、ロンドンという大都会へ送り出した。ただし、当然の如く、お目付け役をつけて。
その相手とは、親が決めた婚約者、ディブだった。いずれ一緒に暮らすのだからと、兄は、彼を選んだ。
しかし、レジーナにとっては、悪夢としか言い様がなかった。
この、子爵家のご子息は、事あるごとに、彼女の資産を狙ってくれる。
早い話、賭けの負け分を、レジーナに持たせようと、適当な嘘をつくのだ。
初めは、レジーナも、コロリと騙され、必ず返す。暫く立て替えて欲しい。との、常套句を信じていたが、今、廊下に控えているであろう、ビートンが、悪魔のような、いや、天使なのかもしれない、囁きを与えてくれた。
それは、ロンドンに越してきたばかり、ディブのたかりが、本格的に始まった頃の事……。
「レジーナ様、そろそろ婚約者通しで、ガーデンパーティーにでも、参加なされたらいかがでしょう?」と、ビートンは言ったのだ。
レジーナもディブも、田舎貴族の出であるから、当面は、と、集まりへの参加は、様子伺いしていた。
しかし、お薦めの行き先とやらは、一等地メイフェアは、グレーシー伯爵が所有する町屋敷──。
子爵家子息と男爵家令嬢のカップルは、伯爵家からの招待状を、ビートンから手渡され、取りあえず、ロンドンの社交場なるものを探りに行ったのだ。
……は、レジーナだけだった。
さすがは、メイフェアの御屋敷などと、手入れの行き届いた庭で、紅茶を嗜みながら、挨拶してくる見知らぬ人々と、適度に歓談していたその隙に、ディブの姿が見えなくなった。不振に思いつつ、執事に連れの事を尋ねてみると、気のあった者通しガードゲームを行っていると、執事は妙に明るく答えた。
「
カードゲームなど、とんでもない。どうせ、賭け事なのだろうと、思いつつ、ディブの姿を探していると、確かに婚約者である男は、ゲームを楽しんでいた。
ただし、それは、カードゲームではなく、人妻との逢引という、恋愛ゲームだった。
廊下に置かれた、アンティークの、立像の影でグレーシー伯爵夫人と抱き合うディブを見たレジーナは、黙って踵を返すと、そのまま辻馬車を拾い帰宅した。
以来、レジーナは、ディブからの婚約解消の一言を待っているのだが、一等地に町屋敷を持っている女から離れるような男ではないと、彼女が一番知っている訳で……、どう、手を切るか頭を悩ましている。
そして──。
「レジーナ様、お客様です」
ドアを開けたビートンが、折り目正しく女主人へ告げた。
「どちら様?どなたとも、約束はしていないはずよ?……つまり、それは」
屋敷にとって、レジーナにとって、真似かねざる客の来訪ということ。
社交シーズンが来ましたぜと、訛りの強い言葉を発する男か、婚約者という名の、たかり屋か──。
入り口に立つ、四十がらみの男は、そのブルーの瞳を曇らす事もなく、プレスの効いたお仕着せ姿で、此方の返答を待っている。
「それで、どちらなの?」と、レジーナは、任務に忠実な執事へただした。
「両方、で、ございます」
「なんですって!!」
淑女らしからぬ声を、レジーナは上げていた。