私、丸山恭子は、桑原まきえと机を挟んで向かい合わせに座っていた。
机の上には紙パックのジュースが二本。私の飲みかけのオレンジジュースとまきえの飲みかけのアップルジュース。いつもと同じ放課後のひとときだ。
私は魔術同好会の会長、まきえは平会員。
「折り入って話があります」
まきえは、いつものように私の顔を真剣に見つめてくる。
まきえの澄んだ眼差しに見つめられるだけで、心地よい幸福感が押し寄せてくる。その、白い肌に艶やかな長い黒髪。喉元から鎖骨にかけてのラインは、腕のいい人形職人でも作れないであろう絶妙さ……。
「先輩、聞いてますか?」
「あ、ああ、聞いているよ」
つい見入ってしまい、ぽかんと開けていた口を慌てて閉じる。いくら見ても見飽きることはないが、そんな気持ちを知ってか知らずか、まきえはそっけない態度のまま続ける。
「今月の同好会費が赤字です、何買ったんですか」
まきえは私より一年後輩。自ら我が同好会に入会したのだが、その割には黒魔術に興味があるそぶりは見せず、もっぱら放課後の暇つぶしとして来ている節があった。
それでも構わなかった。私はまきえを見ているだけで十分だった。ああ、その長い黒髪を後ろから梳かしてみたらどんなにいい香りがするだろうか……。
「聞いてないですね、先輩」
「いや、聞いてる」
まきえはノートを取り出した。ノートの表紙には「○○高校魔術同好会日誌」とマジックで書かれていた。同好会から部活に昇格するためには実績が必要でしょう……と、まきえが自費で買ってきたものだ。私はまきえの几帳面な字がとても好きだった。
「会費で買ったなら領収書を切って下さい、そうじゃないと私が怒られます」
「わかった、今度からそうする」
古本屋でちょっと厚手の黒魔術の本を買ったのだが、まきえのその声で怒られれば十分元は取れた。まきえはノートを手に活動報告を続けてくれた。
「では、続けます。先々月の件について、生物部から正式に抗議がありました」
「はて……なんだったかな、まきえクン」
まきえはそのまつげをちょっと伏せて続けた。その憂いのある仕草も私を夢中にさせる。
「実験用のマウスを2匹、うちの部屋に保護した件についてです」
「ああ、黒魔術にはネズミのしっぽがつきものだろう?あのまま生物部で解剖されるくらいなら、我が部でしっぽを提供してくれた方が、ネズミにとってもよほど幸せというものだ」
まきえは大きくため息をついた。もう少し近ければその息遣いを感じることができるのに……私は二人の間にある邪魔な机を軽く蹴飛ばした。
「真面目に聞いてください。そういう割にはほら、大事に飼っているじゃないですか」
「うっ」
そう、生物部から拝借したまではいいが、二人ともそのまま情が移ってしまい、とてもではないがしっぽを取るなどという蛮行に及ぶことは出来なかった。ゆえに、同好会室の一角で飼うことにしたのだった。
「あと、先月は化学部の実験用具を盗んできたりで、こちらも抗議が来ています。しましたよね?私は止めましたけど」
魔術の実験には器具が必要だが、それらの器具も揃っていないため、まきえと二人で化学部の部室に忍び込んで、ビーカーやら試験管やらアルコールランプ一式を借り受けてきたのだ。
「失敬だな言い草だな、無期限で借用しただけだ。同好会は会費が少ないからな」
「それを盗るっていうんですよ」
まきえはまた大きくため息をつく。いや、こんなことなら、隣に来てため息をついてくれればいいのに、そうして私の肩にもたれて、うるんだ瞳で「センパイ……」とか何とか言ってくれてもいいのに……。
「先輩、聞いてます?」
「あ、ああ……」
もう少しでよだれが出るところだった。慌てて居住まいを直す。
「今月の初めは、園芸部に褒められました。その点はプラスです」
「はて、何かしたかな」
「覚えてないんですか?ムカデとゲジゲジを捕るんだって言って、害虫駆除をしたじゃないですか」
「ああ、そうだった。とはいえ成果はあったんだったか?」
「私が主にやりました……先輩、虫が嫌いだって逃げ回っていたじゃないですか」
そうだった。いざゲジゲジをみたら、とてもじゃないが乙女が触れる代物ではなかったのだ。
「もったいない。そういうところさえ直せば、先輩の魅力で部への昇格も現実味を帯びるというのに……」
「今、なんていったかい?」
「何でもないです。このまま会長が奇行を続ければ、私たち魔術同好会は潰れちゃいますよ……」
「なるほど」
会の存続がかかっている。ということは、まきえと一緒にいられる空間がなくなるということだ。それは人生における一大事だ。
「わかった、で。まきえクン。君の案を聞こうか」
「来月は、文化祭です。その時に惚れ薬を売りましょう。会費もできて、会員の勧誘もできます。どうでしょう?」
まきえが期待に満ちた眼差しで見つめてくる。ああ、その期待に答えねばならない。できることならその瞳を明るい色で満たしたい。
「惚れ薬……?ああ、あれはダメだ、材料がない」
古本屋で買った本には惚れ薬の作り方も書いてあった。多くのものは漢方薬で代用できたが、一つ重要なものが欠けていた。
髪の毛でも唾液でも爪の先でも何でもいいが『惚れさせたい相手の体の一部』が必要だと書いてあったのだ。
そのことをまきえに伝えると、まきえはちょっと声の調子を落とした。
「そうですか……誰にでも効くってわけじゃないんですね」
「うむ、おいそれと作れるものじゃない」
「先輩、覚えていますか?先輩が同好会に私を勧誘した時のこと」
「はて、どうだったかな」
まきえは今度こそ大きなため息をついた。
「私に向かって『そこの新入生、私と一緒に惚れ薬を作らないか!』って言ったの忘れちゃいました?」
「あ、ああ……面目ない」
すっかり忘れていた。すぐにまきえのとりこになってしまった私は、出会いのことを失念していた。なんてことだ、私は心の中で自分を責めた。バカ、ドジ、マヌケ。
「私、好きな人がいるんです。だから魔術同好会に入ったんですよ」
な、今なんていった?どういうこと?
「なな、なんて言った」
「わたし、す・き・な・ひ・とがいるんです……って言いました」
その言葉に完全にノックアウトされた。放心状態、何も考えられない。
「あ、ああ……そうか」
「そうです、先輩、聞いてます?」
いや、何も考えられない。私は上の空で返事をした。
「ああ、聞いている……今日は終わりにしよう」
まきえはノートに何事かを書きつけ、それを机に置き席を立った。
「そうですか、じゃ、お先に失礼します」
とてもじゃないが立ち直れる気がしない。時が戻るなら30分前の幸せな時間に戻してほしい。
「万一、惚れ薬ができたなら二人で試しましょう」
まきえはそういって部屋から去っていった。
私は放心状態から我に返るまでに30分近くを要した。
「なんなんだ……私の青春はなんだったんだ!」
なんかもう、同好会活動とかどうでもよくなってきた。明日から一体何を楽しみに生きればいいのだろう。
私はノートを手に取った。ああ、愛しいまきえの字も色あせて見える。
ノートには、我が同好会の様々な活動記録(悪行)が、日付入りで丁寧な文字で几帳面に記されていた。その文字を追う。もう、この文字を見てもときめいてはいけないのだ。
最後のページには今日の日付。
『材料は机の上に置いておきます。頑張って下さい』
机の上には紙パックのジュースが二本。私の飲みかけのオレンジジュースとまきえの飲みかけのアップルジュース……。