胸が騒がしいです。何なのでしょうか、この気持ちは。私は落ち着かなくて、ドキドキする胸を服の上から押さえました。
そんな私を見て、アガマが顔をしかめています。害虫でも見るような目で私を見ないでください。主人に対して失礼ですよ。
私が睨むと、アガマはゴホンと咳を1つしました。そして気を取り直した執事は私に指示を仰いできました。
「で、お嬢さま。この者は、どこに休ませたらよろしいでしょうか?」
「そうね……98階の客室でいいわ」
少し悩んでから私が伝えると、アガマは再び顔をしかめました。
「お嬢さまの自室の……1階下に、ですか?」
「ええ」
私の部屋が99階で、客室は98階です。当たり前のことを聞いてくる執事を、私はマジマジと眺めます。アガマの表情が何とも言えない複雑な不快感で歪んでいる理由が分かりません。執事はわざとらしい溜息を1つ吐くと諦めたように言いました。
「……分かりました。では、わたくしめが人間を運びますね」
「ええ、よろしくね」
執事に任せるのが普通だと思いますけれど、わざわざ確認されてしまいました。私の方が力持ちではありますが、任せられるところは使用人に任せるのは当然だと思います。わざわざ確認する意味が分かりません。主人の戸惑いなど気付かぬ様子のアガマは、出迎えたメイドたちに指示を与えながら後ろを歩いています。
人間を抱いてのっしのっしと歩く執事を後ろに従えて客室を目指しながら、私は首を傾げていました。
使用人のなかでも特にアガマは、理解しにくいことを言い出すことがチョイチョイあります。ですが私は主人ですから、分からないからといって簡単に質問するわけにもいきません。今もそうです。微妙な空気は感じてはいますが理由は聞きにくいです。
人化した時にだけ使える狭い階段を下りながら、アガマが何を懸念しているのか考えてみました。ですが私には分かりません。
疑問を抱えたまま、メイドが扉を押さえて開けている客室に足を踏み入れます。出迎えに出てきたメイドに準備を命じておきましたので、私たちが客室に入った時にはすべてが整っていました。我が家のメイドたちは優秀なのです。
メイドの1人がササッと上掛けを上げたベッドに、アガマがグッタリとした人間を危なげなく横たえます。待ち構えていた別のメイドが手当てするための道具を広げると、皆で手際よく手当てに入りました。有能な使用人たちの仕事は的確で、見ていて気持ちが良いです。
客室は大型の聖獣でも利用できるように天井も高く、窓も大きく作ってあります。ここまで来られる聖獣は、よじ登るなり、飛ぶなりして窓から出入りできますからね。屋上から入ることができなくても、窓から出入りできるようにしてあるのです。
そのため当然のようにベッドも大きいので、人間を寝かせるとぬいぐるみでも置いたように可愛らしいサイズ感になってしまっています。
私が魔法のように人間を手当てしていくメイドたちの様子を眺めていると、アガマがゴホンとわざとらしく咳をしました。
「さぁさ、お嬢さま。自室にお戻りください。人間の世話はメイドたちに任せておけば大丈夫です」
「えっ? ……ええ、わかってるわ」
なんだかアガマは私を部屋から追い出そうとしているように思えます。何なのでしょうか? ちょっと私の執事、失礼な感じになっていますよ。ここは私の屋敷なのですから、私の自主性に任せてくれても良いと思います。
そこにメイドのモゼルが入ってきました。モゼルはヤモリ系の聖獣です。ヒョウモントカゲモドキのレオパ系ということですが、爬虫類系の聖獣であることには変わりありません。それにしてもトカゲモドキってなんですかね? それならトカゲではなく、最初からヤモリとすれば良さそうなものですが……おっと、話がそれてしまいました。
「お呼びでしょうか、お嬢さま」
「ええ、貴女にお願いしたいことがあるの」
モゼルは、背は低くて小柄、髪も瞳の色も赤の美形メイドです。でも彼女は細身ながらマッチョな上に動きが素早いので、メイドの仕事以外もお願いすることがあるのです。
「野良ケルベロスが森にいるみたいなの。処理をお願いしてもよいかしら?」
「はい、お嬢さま。……えーと、処理対象はケルベロスなのですね?」
なぜかモゼルがソワソワし始めました。何でしょうか?
「ケルベロスなのでしたら、姪っ子がペットを飼いたいと言っていたので……処分ではなく、保護でもよろしいでしょうか?」
あー、ケルベロスはペットとしても人気がありますからね。
「それは構わないわ」
私が許可するとモゼルの表情がパッと輝きました。
「ケルベロスって可愛いですよね。モケモケですし。3つの頭がそれぞれ性格違ったりして……」
モゼルはうっとりしながら、ケルベロスの可愛いポイント10選、みたいなことを語り始めました。しかし保護するとなれば、一時的とはいえ飼育する環境が必要です。
「でも、どこへ保護するつもりなの?」
いくつか候補に思い当たりはありますが、そこは確認しておくほうがよいでしょう。
「お屋敷の隣の山に、小屋がありますから。そちらでいかがでしょうか?」
あー、林の中にある小さな小屋ね。あそこはドラゴンには狭いけれど、ケルベロスなら大丈夫なくらいの広さはあります。
「いいわね。では、保護してちょうだい」
「承知いたしました」
モゼルは一礼すると、素早く部屋を出ていきました。本当に動きの早いメイドです。あのスピードでは、ケルベロスは気付いた時には小屋の中にいた、なんてことになるかもしれませんね。相当可愛がっている姪っ子への贈り物にするのでしょう。これでケルベロスの問題は解決です。
私は何となく振り返って、人間の寝そべるベッドに視線をやりました。大きなベッドの真ん中にちんまりと横たわる人間は、弱々しく見えます。
一瞬だけ開いた目に収まっていた青い瞳を思い出し、私の胸は騒ぎます。
彼は目覚めたら、どんな表情を見せてくれるのでしょうか? 人間とはいえ騎士ですし、ケルベロスに1人で対峙しようという人間が単純に弱々しいはずはありません。本当は、どんな方なのでしょうか。私の興味は尽きません。
人間が目覚める時を、楽しみに待ちたいと思います。