不思議な煙が吹き出してベートののど元を狙っていたルーはとっさにはなれました。もうすこしでそののど元に噛みつくことができたのですが、しかたありません。煙でよく見えなくなってしまいましたし、それにベートが『童話の世界』の者たちの使うみっつの能力のうちのひとつを使ったのですから、警戒しないわけにもいかないのです。
「それが『ほんとうのおまえになる』力か、ベート。はっはぁ。それにしちゃずいぶんと、なよなよした姿になっちまったじゃねえか」
「…………」
煙が晴れていきます。そのなかには毛むくじゃらの獣の姿はもうなくて、かわりに美しいブロンド髪の青年が、氷のように青く冷たい目をして立っているのでした。これまでのベートの姿とは似ても似つきません。とっても美しい青年ですが、しかし反対に身体は細くて力はうんと弱そうです。
「なあおい、悪いこたあ言わねえ、さっきまでのてめえに戻れよベート。その姿のてめえがどれだけ戦えるかはしらねえが、俺は獣のてめえとやりあいにきてんだよ。肉体と肉体。技と技。俺たちはこの身体ひとつで――」
「こうるさい畜生だな。黙って死ね」
言うとベートはふところから銀の拳銃を取り出して、まようことなくルーに向けて撃ちました。ですが銃弾はうしろの木にめりこんで、そこにいたはずのルーの姿は消えています。
「やっぱそういう能力かよ。獣の強靭な肉体を失うかわりに人間みてえに武器をあつかえるようになるわけだ。ま、あんなごつい腕じゃ、銃なんてあつかえんわな」
「…………」
とっても素早い動きでベートのうしろに移動したルーはしゃべります。そんなルーを黙ったまままた何度もベートは撃ちました。だけどやっぱりその銃弾は、ルーにかすりもしません。
「しかもごていねいに銀の銃弾ときたもんだ。はっはぁ。こりゃたしかに、よこしまな俺たちには効果絶大だ。当てられさえすればな」
「…………」
やっぱり黙ったままベートは銃を撃ち続けます。それをルーは素早い動きでよけ続ける。それの繰り返しでした。そうこうしていたらどうなってしまうかは誰にでもわかります。
カチカチカチ……。と、何度ひきがねを引いても銃弾が出なくなってしまいました。弾が切れてしまったのです。それでもまだ何度かカチカチ音を鳴らしてベートは確認していましたが、やがてあきらめて銀の拳銃を捨ててしまいました。
「もういいだろう」
そうつぶやいてベートはルーに背を向けてしまいます。そのまま世界を繋ぐ扉の方へ向かって歩き始めました。もう戦いは終わったとでも言うみたいにルーをほったらかしにしています。
逃げるみたいなベートの行動を見て、ルーもそろそろ頭にきてしまいました。ルーはあんまり怒ったりする性格じゃないのですが、ベートが人間のような姿になってからずっとぞんざいにあしらわれています。そのうえ弾切れになってしまったらあきらめて逃げようとするなんて、さすがにルーを無視しすぎでした。ルーが怒ってしまうのもしかたがないことです。
「まったく、どういうつもりだベート……!!」
大きな声を出して追いかけるつもりでした。ですけどルーはたしかに大きな声を出すことができましたが、なぜだか動くことはできなかったのです。なにかが身体中に食いこんで縛り上げようとしているみたいなのです。
おかしいなと思ってルーは自分の身体中を見て確認しました。するとすごく細い糸のようなもので身体中が縛られているのだとわかりました。いつのまにか、まったく気がつかないうちに。
そのような状況になってみて、ようやくルーは理解しました。あの銃弾はルーを狙ったものではなく、いいえ狙ってはいたのでしょうけれど、当たらなくともよくて、銃弾に細くてじょうぶな糸を巻きつけて撃ち出すことでそこらじゅうに糸を張り巡らせるのが、ベートの本当の目的だったのです。銃弾が当たってルーを倒せればそれでもいいし、そうでなくとも素早いルーの動きを止められれば、それだけでベートの勝ちだったのです。
そんな戦いかたはルーの望んだものではありませんでした。頭を使って作戦を立ててこっそり相手を倒していくなんて、弱い人間たちがするやりかたです。獣と獣の、肉体と肉体の戦いを望んでいたルーは、だからそのことにいちばん怒りました。
「なんなんだこれは、ベート! こんなのは人間のやりかただ! おまえは……俺とおまえは獣だろうがああぁぁ!!」
大きな声で叫んでもベートは気にした様子もなく扉に向かっていきます。罠にとらえたルーをほったらかしにしたまま。
「どこにいく臆病者! 俺はまだピンピンしてるぜぇ!? こんな糸ごときでいつまでも縛れると思うなよ!!」
「急いでいるのだ。おまえの始末はもう、私が手ずからおこなうまでもない」
おまえたちが手を出したのだ。その報いを受けるといい。そう言うとベートは扉の先へ行ってしまいました。もうとっくにお空から消えてしまった自分のお国の民を救うために。
王さまとしての責任をはたすために。
*
「ウオオオオオオオォォォォ――――!!」
オオカミのように声を荒げてルーは全身に力を入れます。きっと限界までがんばれば身体を縛る糸を切ることができるはずでした。
ずるい勝ちかたをしたベート。そんなベートに負けた自分自身。その両方に怒りながらルーはいっしょうけんめい力をこめ続けました。
「ねえオオカミさん。とってもかわいいぼくの妹はどこにいるの?」
もうすこしで糸を切ることができたかもしれません。ですけれどタイミングの悪いことにそんな声がルーの大きなお耳に入りました。
「ああ、なんだって?」
都合の悪いときに誰かがきたのだと思いました。ここは『童話の世界』です。ルーにとってはまわりの誰も彼もが敵だらけの場所なのです。
「だいじなだいじなぼくのグレーテルはどこ? きっとあんたは知っているはずだ」
糸にぐるぐる巻きになったまま転がって、ルーは声のしたほうへ顔を向けます。見るとちいさな男の子がなんにも見ていないようなお目めをして、包丁を持ったままぼうっとどこかを見ています。心ここにあらずといった表情でした。
「知らねえよ。そいつは誰だって? ともあれ忙しいんだ。ほかをあたれ」
ルーは自分のことでいっぱいいっぱいでしたから男の子に冷たくそう言いました。どちらにしても『童話の世界』の誰かに優しくする理由もありませんでしたしね。
「はあ? 世界一かわいいグレーテルの話をしてやってるのになんだその言いかたは? なんでグレーテルの居場所を知らないの? おまえたちが悪いんじゃないのか?」
ねえ。ねえねえ。ねえねえねえ。ねえねえねえねえ。
男の子は狂ったように問いかけ続けます。ねえの数だけ包丁を叩きつけながら。
「ねえ、ぼくのグレーテルをどこにやったの? ねえ。ねえねえ。どこに隠したの? ねえねえねえ。返せよ。ぼくの世界でいちばん大切な妹をとっとと返せよ。ねえねえねえねえ…………」
夜が赤く染まるまで男の子は問いかけ続けました。やがてなんにもお返事がしなくなると思い出したように立ち上がって、また妹を探し始めます。どこも見ていないようなお目めをして、真っ赤な包丁を握り締めて。
いつの間にかいなくなった妹のお名前を呼び続けます。そうしてそのまま、世界を隔てた扉に手をかけました。