「あなたは……誰?」
アリスは問いかけます。目の前の、ドロシーではない誰かへ。ひとつふたつ、警戒するように後ずさりながら。
「誰って……ドロシーですよぅ」
その誰かさんは不思議そうに首をかしげてアリスにこたえました。たしかにその声はドロシーとよく似ています。
いいえ、声だけではありません。ふたつ結びにした
だけどアリスには、その者がドロシーではないとわかったのでした。
「アリス、さん?」
ドロシーのような誰かさんはアリスのことを気遣うように歩み寄ります。だけどアリスはその者から逃げるようにまた一歩下がりました。
「あなたは誰? ドロシーをどこにやったの?」
驚いて、すこし怖くなってしまいましたが、そうしてばかりもいられません。目の前にいるのがドロシーじゃないことはアリスにとってはわかりきったことですし、そうなると本物のドロシーが近くに見当たらないことが問題になってきます。それはきっと目の前のドロシーじゃない誰かのしわざに違いありませんでした。
アリスは勇気を奮い立たせて、ドロシーのそっくりさんに指を突きつけます。
「あ、っはは……」
困ったような顔でドロシーみたいな彼女が笑います。
「あっははははは、すげぇなおまえ!」
だけどそれもつかの間、ドロシーみたいな誰かはドロシーのふりをやめたように大きく口を開けて笑い、ほんとうにおかしそうにお腹を抱えました。そういう品のない笑い方は、ドロシーだったら絶対にやりません。
「初見で一瞬も騙せなかったのはおまえがはじめてだよ。あー笑ったわ」
誰かさんはそう言うと、まだドロシーのままみたいな繊細な片腕をひらひら上げて、ゆっくりと下げていきます。その手は誰かさんの顔を一瞬だけ隠して、つぎに現れるときにはまったくべつのお顔へと変えてしまっていました。
「はじめまして、あたしはザコ」
おかしなお名前だわ。そうアリスは思います。それでも礼儀としてアリスも名乗るべきだわと思いました。だけどアリスが名乗るまえに、ザコは枯れ木みたいに細長い指先をひとつ、アリスに突きつけるのです。
「そしてさようなら、アリス」
アリスの目の前からザコは一瞬にして姿を消したのでした。
――――――――
「ひいいいいいぃぃ!!」
濃い紫色のワンピースのスカート部分をつまみ上げ、銀の靴を打ち鳴らし、ドロシーは懸命に走ります。琥珀色の瞳からはいっぱいの涙をあふれさせて、喉の奥から甲高い悲鳴をあげながら。
『キイイィィ――!!』
おそるおそるドロシーがふりかえってみますに、やっぱり変わらず、たくさんのコウモリたちが追いかけてきていました。どれもこれも怒っているみたいに獰猛で、真っ赤な目と鋭い牙が見え隠れします。
「ひいいいいいぃぃ! アリスさん、どこおおおおぉぉ!」
ドロシーはまばたきをしただけなのです。たったそれだけの短い間にアリスはいなくなっているし、ドロシーはべつの場所に立っていました。そしてそのあとすぐに、たくさんのコウモリたちに襲われ、それからずっと追いかけられ続けているのです。
だからドロシーは懸命に走って、コウモリから逃げながら、アリスを探しているのでした。
どうやらここはまだ『世界の結束点』です。ドロシーは『童話の世界』にも、あるいは他のいかなる世界へも移動させられたわけじゃありませんでした。だったらきっとアリスもまだ近くにいるはずです。
ドロシーは今回、アリスの護衛役として一緒にきていたのですから、アリスをほうっておくわけにはいきません。そしてなにより、ドロシー自身もアリスに助けてもらわなきゃたいへんです。(護衛役なのに助けてもらわないといけないのは問題ですけれど)
「アリスさん! アリスさんっ! アリスしゃああぁぁん!!」
ドロシーはあちこち駆け回りながらアリスを探します。草木の陰にも、大岩のうしろにも、ゴミ箱の中にもアリスはいませんでした。いろんなところを探すたびにドロシーの涙は増えていき、もうお顔は汗と涙でぐちゃぐちゃです。
それにそろそろコウモリたちも迫ってきていました。ドロシーの逃げ足はとっても速かったですけれど、コウモリたちのほうがもうすこし速かったみたいです。うしろに大きく伸びたドロシーのふたつ結びの毛先に、とうとう一羽のコウモリが噛みつきました。
「ひいいいいぃぃ!!」
ドロシーは恐怖に叫びます。その力でほんのすこしだけ走る速さが増したのですが、それももう長くはもたないでしょう。ドロシーだってだいぶ疲れてきていたのです。
「アリスさん、たしゅけてええぇぇ!」
「いやはやあいかわらず、たいへんなことになってるね、ドロシー」
ドロシーの助けを求める声にこたえるつもりだったのか、ドロシーの耳元でそんな声が響きました。見るとそこには小さな妖精さんのように羽をはばたかせたおじさんがいたのです。
「オズ! なんとかしてっ!」
ドロシーは藁にもすがる思いでそう言います。
「このボクは幽体離脱したまやかしだ。おしゃべり以外なんにもできないよ」
あきれたようにオズは言いました。そんなことはドロシーだって知っています。
「やくたたずっ!」
じゃあなんでこんなにたいへんなときに現れたのでしょう。ドロシーをからかいにきたのかもしれません。そう思ってドロシーは怒りました。べーっと舌を出してオズに向けます。オズはやっぱり呆れたように息を吐いて、かわいそうな誰かを見るようにドロシーのことを見ました。
「あのね、ドロシー」
「ひいいいいぃぃ!!」
オズがなにかを言いかけたとき、ドロシーの髪の毛にまたもコウモリが噛みつきました。痛くはないけれど髪の毛が引っ張られる感触があります。それに気づいてドロシーは叫んだのです。
「もういやなにこれこわいよたすけてアリスしゃああぁぁんん!!」
ドロシーは心の底からの叫びを上げました。だけど叫んだってなにかがよくなるわけでもありません。耳元でもういちどため息が聞こえました。
「ドロシー。きみ、銀の靴をはいているのをわすれてないかい」
オズの声が耳に入って、ドロシーはすこしだけその意味を考えました。もしかしたら普段ならもっと早くその意味を理解したのかもしれませんが、いまのドロシーは大慌て中です。また新しく二羽のコウモリに髪を噛まれるまで、ドロシーはオズの言葉を理解することができませんでした。
「そうだったっ!」
だけどちゃんと気づきます。ドロシーは首をぶるぶる振って、ふたつ結びした髪からなんとかコウモリたちを引き剥がしました。
それから一瞬だけ立ち止まって。
「アリスさん、どこおおぉぉ!」
銀色の靴のかかとを三回合わせたのでした。