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おとぎの戦端


 アリスはぴくりと、わずかに両肩をあげました。

 緊張していたのかもしれません。しかし、それを悟らせまいと、懸命にこらえたのです。

 深く息を吸って、吐きます。とても静かなようでいてなんとも重苦しい雰囲気が、アリスの胸に入る空気を粘り気のあるもののように変えていました。息苦しいわ。と、アリスは思いましたが、それでも女王としての威厳を保つため、毅然とした態度でテーブルへ向かいます。

 円形の壁に囲まれた闘技場のようです。その中央にあつらえられた大理石のテーブル。そちらへ一歩一歩、焦らずゆっくり向かいます。黄金づくりにベルベットの張られた豪奢な椅子に近づくと、翼の生えた人の姿をした存在がうやうやしくその椅子を引いてくれました。アリスは内心すごく恐縮していたのですが、そんなことなどおくびにも出さないように注意して、女王らしく厳かに席についたのでした。

 すでに目のまえにはもうひとりの『王』がご着席なさっています。とはいっても、大きな大きな大理石のテーブルを挟んだ『目のまえ』ですから、いうほど間近でもありません。その王は、アリスが着席して自分に気づいたとみるや、控えめに微笑み会釈するのでした。(正確には彼は王さまの代理でしたので、本当の王さまはどこかしら、と、このときアリスはひそかに周囲を窺っていたのです。だからアリスは、王さまの代理にうまく笑顔を返すことができませんでした)

「このたびは」

 そう言うと王さまの代理は、おほん、と、ひとつ大きな咳ばらいを挟みました。それはその場所の広さを思えばとても小さなものでしたけれど、そのひと声で、円形の壁の外側にいる『観客たち』はみな、よりいっそう静まり返りました。そして本当の王さまをちらちら探していたアリスの視線をもしっかりそちらに向けさせたのです。

「このたびは」

 王さまの代理は同じ言葉をさきほどより少し大きな声で繰り返して、間を開けます。自分よりよっぽど王さまが板についているなと、アリスは思いました。態度も堂々としていますし、どことなく所作に気品があります。悪く言うなら気障ったらしいけど、と、アリスは内心ですこしだけ笑いました。

「お忙しいなかお呼び立てして、申し訳ありませんでしたね」

 ちっとも悪びれもせず、王さまの代理は笑顔で言いました。青白い唇の隙間から鋭いふたつの犬歯が煌めくのを、アリスはこのときはじめて確認しました。

「いいえ、お気遣いなく」

 アリスも笑顔を作ってそう返事をします。本当のところ、アリスたちの世界はこのところとってもたいへんで、いろんなあれこれにてんやわんやでしたから、すごくめんどうな気持ちできたのですけれど、それでもまがりなりにも『女王』としてこの場にきたのですから無礼な態度は許されません。

「あの」

 それで本当の王さまはどちらにいらっしゃるの? という、普段使わないような丁寧な言葉づかいをアリスが探している間に、「我らが王は」、と、王さまの代理がアリスの疑問を先取りします。笑顔のために細めたまぶたをすこしだけ開いて、アリスを見ています。その動作でアリスは、自分は見くびられているのだわ、と思ってしまいました。

「病の床に伏せっておりまして、こたびは私が王の代理として、僭越ながらお役目をたまわった次第でございます。名をヴラドと申します。童話の世界の女王であらせられるアリスさまにお目通りでき、まことに光栄でございます。どうか我がヴラドの名を、記憶の片隅にでもとどめおきくだされば嬉しく思います」

「まあ、それはそれは」

 とりあえずアリスはそのように言って、時間をかせぎました。本当はアリスは、今回のことにかんしてはあまり自己主張せずに、お話を聞く役目に徹して帰ろうと思っていたのですが、自分を甘く見るような視線にすこしだけ、なにか仕返しができないかと考えてしまったのです。ですが礼儀正しくかしこそうな口調であいさつされて、あんまり言葉の意味を理解できませんでした。そのうえ自分も同じようにむずかしい言葉をひねり出そうとしても、どうしたって時間がかかります。

「えっと、おじいさんは、だいじょうぶなのでしょうか」

 じっくり考えたすえに、アリスはそんなことしか言えませんでした。そのことでアリスはすこしだけ気恥ずかしくなって、ヴラドから目を逸らしてしまいます。なんだか負けたような気になって、アリスはやっぱりくるんじゃなかった、もう帰りたいなと現実逃避のように考えはじめるのでした。

「お気づかいいただきありがとうございます」

 うやうやしく一礼して、ヴラドは言いました。

「正直に申し上げますと」

 どうにもヴラドには、いちいち言葉をこまかく区切って話す癖があるみたいです。しかしそれもアリスからしてみれば、やけに落ち着いた態度で、王さまの代理というお役目をしっかりとこなしているように見えるもので、やっぱり負けた気持ちになってしまうのでした。

「我らが王の容体はけっしてよくはございません。だからこそ・・・・・なおのこと・・・・・、本日は私が代役を強く希望してきたのですよ」

 そう言うとヴラドは、控えめに笑顔を作りました。どこか含むところのあるその表情の隙間からは、やっぱり鋭い犬歯が覗いています。その言葉や表情の意味はアリスにはわかりませんでしたが、「そう、おじいさんによろしく言っておいてください」と、あたりさわりのないことだけを言うにとどめておきました。(ところでいまさらですが、アリスは、ヴラドたちの王さまと面識があったので、『おじいさん』という気軽い呼びかたをしているのです。とはいえ、公の場で王さまのことをそのように呼ぶのは『女王』としてよろしくないですけれどね)


        *


 さて、このようにアリスがヴラドと話をして時間を潰していると、ふと天がひらけて、その場所のすべてを大いなる光が包み込みました。まだひとつふたつ会話をつまんでいたアリスとヴラドはもちろんのこと、観客席の一同もいっせいに(もともと彼らはだいぶ静かでしたけれど、よりいっそうに)静まりかえりました。

 そうです、神さまがご顕現あそばされたのです。アリスは神さまにお会いするのがはじめてでしたけれど、ほかの誰しもがそうであるように、そのお姿をひとめ見るやいなや、それを理解してかしずきました。


 聴くがよい、子どもたちよ。神さまは申されました。アリスは耳をそばだてて、そのお言葉を拝聴します。


 こたび、『怪談の世界』より、『童話の世界』へ宣戦布告がおこなわれた。ついては神としてこれを承認し、規定を設ける。一言一句をしっかりと聞いて、そのうえでアリスは驚愕しました。だからついかしずいた頭を上げ、不敬にも神さまを見上げてしまいます。しかしその頭を優しく、翼の生えた人間のような姿の者たちがおさえこみました。アリスははっとして我に返り、不敬を恥じ、とにかくふかぶかと首を垂れます。


 宣戦布告? と、アリスは考えます。それはつまり、争いが起きるということ? そのように理解はできますが、突然のことに混乱してうまく頭が働きません。なんだかアリスは猛烈に甘いお菓子が食べたくなってしまいました。ちらりと横目でヴラドを見ると、彼はあいかわらず犬歯を見せびらかすような笑顔を浮かべていました。


 規定はみっつ。ひとつ、降伏する者を傷つけぬこと。ふたつ、世界の破壊は最低限に抑えること。そしてみっつめ。神さまはそこまでを申されまして、はじめてわずかに嘆息されました。いいえ、全能の神に憂いなどあるはずもありません。それはきっと、アリスにはそのように感じられたというだけのことなのでしょう。

 各々の世界において、それぞれ十五の王を選定してもらう。その者らをすべて打倒することをこの戦争の終結とし、敗者は勝者の世界に統合される。神さまはそのように申されました。


 それからやや間をおきまして。つまり、これは童話か怪談、どちらが人の世に生き残るかを懸けた戦である。そのように神さまはお続けになります。そうか、だからなのだ。と、アリスも納得しました。どうして童話と怪談の面会の場に人間たち・・・・がいるのかをようやく理解したのです。アリスはそれを確認するように、円形の壁の外側にいる観客たち・・・・をちらりと見ました。


 戦争の開始は三日後。それまではおのおの、相手の世界へ立ち入ることは許されぬ。それではここに――。神さまは立ち上がり(正確には立ち上がるような気配をアリスが感じ取り)、すべての始まりを宣言されるのでした。


 童話と怪談。ふたつの世界による開戦を宣言する。おのおの希望と絶望を掲げ、己が存在意義を示せ。


 こうして戦端は開かれたのです。みなさんもよく知る、おとぎ話のその後日譚さきで。





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