2025年 8月下旬。
今住んでいるところから自転車で30分くらいで行ける、地元の競技場で開催される、陸上競技の地区選手権大会。そこの30代の部の男子100mに、俺は出場している。
予選を突破したことで午後に行われる決勝のレースに、俺は残ることが出来た。
これまでの人生で決勝レースへ進めた回数は、片手で数えられる程度だ。そう考えると俺にとって快挙と言えることだが、今回俺が出場しているレースは30才以上を対象としている。相手は皆30才以上、中には39才のアラフォーも参加している。
人間30才を過ぎると身体能力が20代と比べて衰えてしまう。聞けば1年ごとに筋肉が退化するらしい。その為30代の部になると100mを10秒で走るような奴は見なくなる。12秒前半でも速いと見られていいくらいだ。
そういうわけで一般の部と比べて決勝へ進むハードルが随分と低くなってくれて、俺は助かっている。お陰でこうして難なく決勝の舞台に立つことが出来た。
今は真夏。何もしなくても汗がふき出てしまうくらいに暑いし、体も温まっている。ウォーミングアップは軽く済ませ、余裕もって招集所に向かって、コールを済ませる。
この日の最高気温に到達したであろう時間帯の中、30代の部の決勝が行われる。場内アナウンスが選手の名前を読み上げる。自分の名前が読まれて、俺は小さく手を挙げて会釈寄りの一礼をする。そんな俺に対する拍手は少しも聞こえなかった。
選手紹介が終えたところでスターターが「On Your Marks」と号令をかけ、俺はスタート前の一礼もすることなくスタートブロックに足をかける。
膝を地につけたところで姿勢をまっすぐにとって、そのまま手も地につけて体重をかけていく。
「Set」で腰を高く上げる。この時前脚も後ろ脚も伸ばし切らない。
約1秒後、スタートの号砲が鳴り、俺はブロックを蹴るように押して飛び出す。スタートから5歩…約10mまでは特に地面をしっかり押して進む。そうすることで一次加速を生み出して、しかるべき区間でトップスピードにもっていける。
10m…よし、上手く地面を押して進むことが出来て、スムーズな加速も出来た。ここからさらに加速…リズムアップしていく。地面の接地は押すから弾くへ。30m、40m――ここで上体を完全に起こして、トップスピードに繋げていく。
この時点で既に俺よりも前を走っている選手が数名いる。ほぼ全員俺より年上なのに速いとか、衰えってものを知らないのかこいつらは。
そんなことよりも今はレース…自分に集中しよう。50m、60m…ここでトップスピードに到達、ここからは加速じゃなくて「なるべく維持」を意識して走る。どんなスーパーマンでも100mにおいて後半で加速する奴はいない。皆どうあがいても減速するしかない。どれだけ減速を抑えられるかが肝だ。
後は何もしない。「何もしない」をする。もうひと踏ん張りとかスピードを絞り出そうとかで無駄に力んだりしない。維持することだけ考えて、走り抜ける―――!
ゴールラインを通過し、10数秒間の勝負が終わった。俺の前には三人の選手がいた。優勝は逃した。ゴール地点に設置されている電光掲示板にはトップのタイムが出ている。11秒前半台か………感覚ではトップとの差はそんなになかったはず。これはもしかしなくても、自己ベスト更新してるのでは?
そう思ってスマホで今日のレースの速報結果を検索してみる。
4位 松山祐有真 11秒70(+0.1)
案の定、更新してた。ちなみにタイムの後ろについてる数字は、風の速度である。+ということはさっきのレースで吹いてた風は追い風だったということになる。
念願の自己新記録を達成した。10年近くぶりのベスト更新。
そんな俺に祝いの言葉をかける者は、現地にはやはり誰一人としていなかった。
帰宅。今日の試合にいた同期メンバーが俺の結果をチームのLINEグループに共有したことで、他のメンバーからも「おめでとう」「ついにやったな」といった言葉が送られていた。皆に「ありがとう」と返信を返す俺の顔は、冷めに冷め切っていた。
「30才になってから自己ベスト更新するのは凄い!」といった文面に対し、俺は
「 すごくなんかねぇよ 」
とこぼした。
夜、帰り途中に寄ったスーパーで買ったものをちゃぶ台に並べて、それらを雑に食べながらパソコンでyoutubeを視聴する。
「今さらこんな結果出しても、何も凄かねぇわボケ」
安酒を飲み、やさぐれた調子で愚痴をこぼし続ける。一度吐き出したら中々止まらず、夕飯を終えた後もつまみのポテチをばりばり貪り食って、酒ももう一缶開けて飲みながら一人愚痴り続ける。
「だぁ~~~れも、現地で俺の自己ベスト更新を褒めてくれる奴はおらんかった。ただ当の本人だけが馬鹿みたいに浮かれるだけで終わり。
さっき飯食いながら今日のレースで10年ぶりに自己ベスト更新したって、SNSに投稿したけど、だぁ~~~れも、反応しやん。いいねの一つも無し」
普段からSNSで何を呟いても映え写真を投稿しても、誰からも反応されてない。今日くらいはと期待したけど、いつも通りの無反応。
まるで…いや実際そうなんだろうな、皆がお前のことなんて全く興味ねーんだよ、と言われてる気分だ。承認欲求の欠片も満たされない。
実際、今日俺が出した実績なんて、世の中全体で見たら全然大したことなく、虫けらみたいなものだろうな。
30才で100m11秒台って、そんなの日本中、この地元中でもどこにでもいるだろうよ。凄くも何ともない。
確かに30代で自己ベストを更新することは凄いことだ。現役のトップアスリートでも30過ぎてから自己ベスト更新することは中々見られない。
そんな彼らが成し遂げられてない事を俺はやってのけたのだが、別に凄くはないんだよな。
何せ、更新した記録がショボ過ぎる。これが10秒前半とか9秒台とかならすげぇだろうよ。けどたかだか11秒後半のベスト更新って、誰が注目するのかって話だ。
そりゃ分かってはいるけどさ。俺がやったことが全然凄くないってことくらい。
だけどやっぱり、満たされてないことは確かであり、誰にも反応されないことの虚しさは拭いきれない。
あとは、まぁ………
「何でこういう成長というかタイム更新が、昔にもっとバンバン出ぇへんかったんよ!?今さら速なってもなぁ?大人レベルでは全然大したことない結果が出たところで、全然価値なんてねーやろが!ボケ!!」
ガン!とちゃぶ台に酒が入ったコップを置いて、衝動的に愚痴を叫んだ。
まぁそのつまり、昔…まだ自分が中高生のうちに、今日のようなタイムが出せていたら、もう少しマシな陸上人生だったろうなってこと。
「クソが、今さらタイム上がってんじゃねーよ。何で学生のうちに11秒台出せてなかったんや。才能無しの、何をやっても中途半端野郎が………」
それから俺は寝落ちするまで延々と、酒を片手に自分のこれまでの人生を振り返っては愚痴を吐き続けるのだった。