翌日、エーミルが書状をもって、正式に王宮へ暇乞いした、ということを、ノーアは、当のベルンハルドから聞かされた。絶句したノーアに、傷付いていないはずがないベルンハルドのほうが、宥めるように笑ってみせる。
「ノーアさんが、そんな顔をすることはないよ。たぶん、謹慎を言い出した時にはもう、アイツはこうするって決めていたんだ。消印自体がその日になっているし、オレも……何となく、察してはいたことだった。エーミル、ああ見えて、頑固だからさ。それに用意周到なやつだから、今頃アイツの部屋に押し掛けても、きっととっくにもぬけの殻さ」
「そんなの……」
ノーアは、昨晩自身が訪れたエーミルの部屋が、異常なほどに物が少なく、生活感に乏しいほどに整理されていたことを思い出していた。あの時点ではもう、エーミルは専属従者の席を辞し、この街を出ていくことを決めていた、ということになる。
ノーアは、ぐっと唇を噛んだ。エーミルが、「何者でもないエーミル・フリーデル」になることを決めていた、あの最後の夜、会話をするべきだったのは、自分などではなく、ベルンハルドであるべきだった。謹慎中という立場だからなんて、そんな誰にでもわかるような言い訳なんてさせず、どんな手段を使っても、エーミルを引っ張り出して、例えば首根っこを引っ掴んででも、最後にベルンハルドと話させるべきだったのだ。自分なら、何かできたんじゃないか。自分にしか、できなかったのではないか。あのとき、部屋の前で手を振り、自分の去って行くのを見送っていた、彼の姿を振り返って最後に見た、自分だったなら。
けれど、ノーアが何を言うよりも先に、ベルンハルドは「いいんだよ」と、首を横に振った。
「ノーアさん、いいんだよ。アイツはああ見えて、一度こうする、と決めたら、梃子でも動かないような石頭だ。仮に、オレがお忍びで押し掛けてれば、情け容赦なく逃げ回られて、無駄足に終わっていただろうと思う。それは、相手がノーアさんだって、同じだったはずだよ。でも、エーミルは、あの夜、アンタの前からは逃げ出さず、アンタと最後に話すことを選んだ。どんなに渋々の体裁を整えていたとしても、それが、アイツの選んだ選択で、答えだってことに変わりはない」
それはどこか昨晩、ノーアがエーミルに言って聞かせた言葉に似ていた。ノーアがにわかに驚いていると、ベルンハルドは、柳眉を寄せて苦笑する。
「不思議だね、ノーアさん。アンタを前にすると、どれほど頑なに心に仕舞い込んでいたいたことであっても、なんだか全部を明け渡して、何もかもを話してしまいたくなる。あれだけ頑なに引き籠もってたスヴェン兄さんは、アンタのことを星と呼んで懐いて、心を許しているし、笑顔に隠して絶対に尻尾を出さなかったはずのエーミルも、最後の夜には、アンタと会話することを選んだ。アンタが来たことで、この王宮でどうしようもなく止まっちまっていたものが、動き出し始めている。実際、オレも、ノーアさんにだから、花果の標のことを打ち明けても構わないって気持ちになった、張本人なんだから」
「ベルン……」
「それに、ノーアさんがエーミルと話していなければ、こいつが、オレの手元に戻ってくることもなかった」
言いながら、ベルンハルドがポケットから取り出して見せたのは、あの晩エーミルからノーアに託された、濃紺のネッカチーフだった。昨晩、王宮に戻って早々に、ベルンハルドに手渡したものだ。ベルンハルドの手袋の指が、包みをほどくと、中から現れたのは、古びた真鍮製の懐中時計だった。表面には、
「……それは?」
「エーミルのものだよ。もとは、アイツの親父さんが、ルイース――――アイツのお袋さんに受け継いだものだってきいてる。ただ、十年前に一度、ばらばらに壊されてね。それを、オレが直して、もう一度エーミルに持たせたんだ」
ベルンハルドが懐中時計の蓋を開くと、秒針は絶えず、時を刻み続けている。盤面自体もかなり古く、色褪せてしまって、おそらく殆ど、骨董品の類だと表現しても構わない。外蓋の裏面には、二つの文字が刻まれていた。
DEAR LOUISE。ルイースへ、愛を込めて。
DEAR EMIL。エーミルへ、愛を込めて。
刻まれた文字の筆跡は、それぞれで異なっている。
「エーミルの父親の話は、ノーアさんも?」
「……うん。大まかにだけれど」
「そう。もう、十五年になるのか。その頃、オレはまだ七歳かそこらで、事件のことなんか、殆ど知りもしなかった。エーミルは十二歳。今のヨアンよりもずっと年少だったけど、文字も読めるし、手先も器用だし、算術もできて、大人顔負けに外部との交渉事もできるくらいだった。でもオレはまだ、その頃は、政務のイロハも分かっちゃいないただのガキだから、エーミルが飛び抜けて凄いやつだってことは、あんまりわかってなかったんだ。ただ、王宮の大人だったら眉を顰めるようなことでも、しらっとした顔で教えてくれる、兄貴分みたいに思ってた。アイツの仕事が終わったら、こっそり算盤を習ったり、城下で流行ってる遊びなんかを教わったりして、いつもアイツにくっついて、相手をしてもらってた」
ベルンハルドは、懐かしそうに口許を綻ばせた。
「あの頃はまだ、近くにいたのはオルガ姉さんやヒルダ姉さんだけだったから、男兄弟ってもんに、どうしても憧れがあってさ。だから、エーミルが、その代わりになってくれてたんだ。アイツの本意だったかどうかは、兎も角として。……でも、親父さんのことがあってからは、王宮内で、アイツにつらく当たるような連中が、随分出てきたらしい。裏で、かなり嫌がらせをされたみたいだ。いくらエーミルがオレを弟のように面倒見てくれてたからって言っても、結局オレは王族で、肝心のところでは耳ざわりのいいことを聞かされるだけの、ただの子どもでしかなかった。そのことに気が付いたのは、その時計が、ばらばらに壊されて、王宮の裏手で捨てられていたのをたまたま見つけたときだ。そのときになってようやく、オレは、エーミルの陥ってた状況のことを知った」
口の堅い臣下に調べさせれば、事実はぼろぼろと明るみになり、報告書は山積みになった。例えば、エーミルに与えられていた給金が、あの事件以来、相場の数割にも満たなかったこと。満足に食事や休憩も与えられていなかったこと。打ったそばから抜かれる釘や、磨いたそばから剝がされるタイルの手入れに、何日も何日も、寒空の下で従事させられていたこと。
当時、ベルンハルドは十二歳で、エーミルは十七歳になっていた。両者が成人した後でも、ことエーミルの骨格が華奢で、ひょろひょろと痩せぎすなのは、エーミルにとって第二次性徴期にあたるその期間に、満足に栄養を摂取できなかったせいだろう、と、ベルンハルドは言った。
当時のベルンハルドは、当然、憤慨した。しかし、呼び出した当のエーミルは、自身を問い詰めるベルンハルドの言葉ひとつひとつを、「杞憂」だとのたまい、そのばらばらに壊された懐中時計についても、一瞥しただけで、自分のものではない、と言い張ったのだという。しかし、ベルンハルドは覚えていた。エーミルはその頃から既に、褒美や物にはほとんど頓着しない性質だったが、そんな彼でも、その懐中時計においては、片時もその身から離さずに大切にしていたこと。時間さえできれば丁寧に、クロスと油を使って盤面や上蓋を磨いていた横顔のことを、ベルンハルドは忘れてはいなかった。
「それで、オレ、言ったんだ。エーミルに嫌がらせしていた連中には、纏めて罰を与えて、場合によっては王宮から追い出す。それでその時計は、代わりになるようなものをお抱えの職人に仕立てさせて、新しくお前に贈ってやるってさ。エーミル、どんな反応したと思う?」
「……それは……」
想像するだに、嫌な予感しかしない。苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべたノーアを見て、ベルンハルドは、正解、と笑った。
「怒ったよ。そりゃあもう、烈火のごとく、怒った。同情と施しは真っ平御免だって、独裁者まっしぐらの発想をするのが嘆かわしいって、怒髪天の勢いだった。あの時ほど怒ったエーミル、流石に、あれっきり見たことがないな。今思い返せば、オレも馬鹿なことを言ったなって思うんだけど、当時のオレは、兎に角、ただのガキで……喜んでもらえると思ってたところに、その勢いで怒鳴られたもんだから、まあ、結構な衝撃を受けたわけだ。それで、中庭でべそをかいてたところに、声を掛けてくれたのが、スヴェン兄さんだった。まだ、王宮に招かれたばかりの頃の」
「スヴェンが?」
ノーアは、驚いた。王宮の中で、王族として扱われることを毛嫌いしているスヴェンが、自ら東の宮を出て、幼いベルンハルドに声を掛けた、という事実が、純粋に意外に思えたのだ。
「その時は、オレ、スヴェン兄さんが誰なのかも、よく分かっていなかったんだ。大々的な招聘の儀式とかも、嫌って引っ込んでたくらいの人だったから。でも、不思議と怖い気持ちは、わかなくってさ。オレが、時計を壊しちまって泣いてるんだと思ったのか、『直してやろうか』って、声を掛けてくれたんだ。だから、頼んだ。直し方を教えて欲しいって。大事なやつにひどいことを言ってしまったから、こいつを自分の手で直して、エーミルに謝りに行きたいって」
しゃくりあげながら、そう申し出た当時のベルンハルドに、スヴェンは、嫌な顔ひとつしなかったという。彼は、自身の部屋から工具箱を持ってくると、夜通しかけて、ひとつひとつ丁寧に、ベルンハルドに時計の組み直し方を説明してくれたそうだ。
スヴェンは、先代ベルランド国王に呼び寄せられるまでは、母親とともに、各地を周遊する雑技キャラバンに在籍していた人だ。雑技キャラバンでは、舞台上で雑技を披露するのは専ら夜間であり、看板役者や芸子以外は、昼間は靴磨きや大工仕事、針子などを引き受けて、路銀の足しにすることが多い。スヴェンは手先が器用だから、そうした生業の一環として、時計細工にも詳しかったのかもしれない。
「オレ、恥ずかしい話だけど、あんまり手先の器用なほうじゃないし、気の長い性格でもないから、それはもう、何度も投げ出しそうになったよ。こんな不格好に直されたものを渡すほうが、余計にエーミルの怒りを買っちまうんじゃないか、なんてことまで思えてきてさ。けど、スヴェン兄さんが根気強く、そばで教えてくれたおかげで、結局、どうにかみられるものくらいには、直すことができたんだ。それでその足で、城下のエーミルの家まで、届けに行った。スヴェン兄さん、着いてきてくれたんだぜ。あの人なりに、庇護欲みたいなもんがあったのかもな」
「きっと、そうだね」
「エーミルは、……オレとスヴェン兄さんが、隠れて城下にやって来たことはすごく怒ったけど、オレが直した時計を差し出したときには、目をまんまるに見開いて、驚いていた。ほら、アイツ、愛想笑いとかはするけど、あんまり、派手に表情を動かしたりしないだろ? なのに、あのときのエーミルの顔ときたら、可笑しかったな。鳩が豆鉄砲をくらった顔っていうのは、きっと、こういうことを言うんだろうなって思った。『王子が思うような、感傷的な理由でこの時計を持ってたわけじゃない』とか、『こんなものは、いくらだって替えがきくのに』とか、そんなことをぶつぶつ言ってたけど、でも、最後には」
ベルンハルドは、そこで言葉を切ると、懐中時計を再びネッカチーフに包み直し、ぎゅっと、胸元に抱え込んだ。
「大事にする、と言ってくれた。『貴方のその手を、また油まみれにして汚すわけにはいかないから、命よりも大事にする』って。ばかばかしい、大袈裟なこと言うなよって照れ隠しに叱ったら、けらけら、笑ってたな。頬を紅潮させて、ガキみたいに無邪気に、アイツは笑ってた。その顔を見たときに、思ったんだ。こんな風に、エーミルの、もっと笑った顔が見たい。できないことばかりだけど、ひとつひとつ、きちんと積み上げて、できることを増やした先で、あの日のようにエーミルが、なんのためらいも逡巡もすることなく、――――オレの前で笑ってくれるようにって」
そして、その日から、ベルンハルドの身体に
エーミルを喜ばせようと、ひとつひとつ丁寧に、ぜんまいと螺子を組み上げたその指先から、花は咲き始めた。十二年をかけて、ゆっくりとつるを伸ばし、群生し、さざめきあって、やがて喉にまで到達した。
さあ、口にしてしまえ。なにもかも言葉にして、ぶつけてしまえ、とでもいわんばかりに。
「まあ、結局、言う前に逃げられちまったけどな。どうせ、叶わない想いなら……せめて、十二年分のありったけを、全部ぶちまけてやれば、こいつらも思うさまに、命を尽くして咲き誇って、いつかは……綺麗に枯れられたのかもしれないけど」
ベルンハルドの手袋の指が、自身の喉に触れる。
「でも、この時計を受け取って、思い出したよ。オレが、オレの溜飲を下げるためだけに、気持ちをぶちまけたって、意味がない。それじゃ、あの頃のオレと何も変わっちゃいないんだ。オレは……エーミルを自分の言いなりにしたかったんじゃない。この気持ちの始まりは、オレがただアイツに、笑ってほしかったってだけなんだから」
「ベルン……」
「届けてくれて、ありがとう。ノーアさん」
ベルンハルドは、朗らかに笑った。どこか開放的で、すがすがしい笑みだった。
「この恋は、殺さずに連れていく。言えなかった言葉も、伝えられなかった想いも、焼いた鉛を呑み込むみたいに、毎夜毎晩、オレの喉を焼くだろう。オレはきっと、アイツが望むように、幸せになんてなれはしない。でも、この国の王子として、オレは、オレにできることをやり遂げるよ」
――――でないときっと、アイツに、また叱られちまうからね。
そう言って、瞼を伏せるベルンハルドに、ノーアは掛ける言葉を見つけられずに俯いた。