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第5話-1 同族嫌悪

「よう、いらっしゃい! おや、見ない顔のお兄ちゃんだね。旅の人かい?」

「ああ。ちょっとした出稼ぎでね」

「そりゃあ、ご苦労さん。まあ、ゆっくりしていってくれよ。そっちのテラス席なんかは、この時間、坂のずっと上の王宮の灯かりが綺麗に見えて、お勧めだよ」

「ありがとう。でも、店内に連れがいるはずなんでね。邪魔するよ」

「……まさかとは思いますけど」


 酒場の店内は狭かったが、大勢の町民が集まって、賑やかに酒を酌み交わしている。その隅で、一人、黙って琥珀色の蒸留酒を呷っていた青年が、苦々しい声を出した。


「まさかとは思いますけど、その連れというのは、私を指しているんじゃありませんよね」

「もちろん、君のことだよ、エーミル」


 言うやいなや、ノーアは、椅子代わりの木箱を空いた席から引っ張り出して、青年――エーミルの正面に据えると、当たり前のように、そこに腰を下ろしてみせた。

 向かい合うエーミルは、王宮でいつも纏っているような文官服ではなく、ごくありふれた庶民の着るようなチュニックに、ブレー姿だ。王宮の中でいつも浮かべていた、あの柔和で穏やかな笑みはなりをひそめ、一切の表情が削ぎ落とされている。率直に言えば、ひどくそっけない態度だった。


(こっちが、エーミルの本質か)


 ノーアは悟り、こっそりと苦笑する。ノーアがやって来たのが癪に障るから、敢えて不機嫌に振る舞っている、というわけではないのだろう。対人折衝に、余計な労力を割かないようにしているのだ。

 王宮の中でのエーミルは、ヨアンやベルンハルドはもちろん、ノーアやスヴェンよりも年長者であり、周囲を俯瞰して見ながら、自身の立場がどうあるべきか、というところをよく理解して振る舞う、物分かりの良い青年だった。ベルンハルドが、従者に過ぎないエーミルを補佐官として重用していたのは、彼の想いを抜きにして、純粋にエーミルが政務の「女房役」として有能だったからだろう。

 しかし、全方位から見て物分かりがいい、ということは、すなわちエーミルが全方位に向けて自我を殺し、寸分の狂いも見せずに場面最適の姿で過ごしていた、ということと同義でもある。いま、庶民だけが暮らす城下のこの空間の中で、ノーアの見慣れた柔和な笑顔の仮面を取り払って過ごすエーミルこそが、王宮の中でずっと彼が殺し続けてきた、エーミル・フリーデルという青年の「個」なのだ。


「店主、ノンアルコールで何かひとつ、美味いモクテルを作ってもらえないかな」

「あいよ!」

「……酒も飲めないのに、酒場なんて来て、面白いことがあります?」


 皮肉を言うエーミルの手には、カップに注がれた、琥珀色の蒸留酒がある。ボトルのラベルを確かめれば、アルコール度数は50%の記載。既に瓶の半分が空いているが、当のエーミルはけろりとしていた。これは、かなりの酒豪と言えるだろう。素朴で人畜無害な見た目の彼が、平然とした顔で度数の高い酒を水のようにさらさらと飲み進める姿は、絵面としては、なかなかに刺激的なものがある。

 従者であるエーミルが、ベルンハルドの勧めた場以外で飲食している姿を見るのは、ノーアにとってはこれが初めてのことだった。ベルンハルドとは、王宮の中で幾度も会食を共にしているが、その食卓にエーミルが列席したことはない。いくらベルンハルドの専属従者とはいえ、侍従職が王族と同じテーブルで飲食することなど、どこの王宮であろうと、当然の如く、あってはならないことなのだ。その点では、エーミルやヨアンを、気軽に自分と椅子を並べてのお茶に誘う、ベルンハルドの存在のほうが特異と言える。ベルンハルド自体に他意のないことは明白だが、「他意を抱かない」その原点にはやはり、牧歌的で能天気な、花果の国の国民性があるのだろう。エーミルやヨアンのほうが、よほど使用人としての分を弁えている、と言って差し支えない。


「俺は確かに下戸だけど、酒場の空気を楽しむのは好きさ。国柄が出る。雰囲気のいい店だな」

「なぜ、この店がわかったんです?」

「自慢じゃないが、地道な調査は得意なほうなんだ。ベルンハルドやスヴェンに比べれば、君は確かに華やかさには劣るかもしれないが、城下街では、十分目立つみたいだな。目撃談は集まりやすかった。ヨアンからきいた君の住所と総合的に勘案して、目星をつけた店を、あとは片っ端から覗いていくだけでいい」

「素晴らしい。第十二王子なんてにおさまっているには、勿体ないお方です」


 エーミルは、相変わらず表情を動かさなかったが、許可なく自身の周辺を嗅ぎ回られて、いい気持ちのする人間などいないだろう。さしもの彼でも、やや言葉選びに棘がある。

 店主によって運ばれてきたのは、コケモモとオレンジをベースにしたモクテルだった。果実の甘みはあるが、全く嫌味にならず、程よい酸味と爽やかな味わい。ライムが効いているのも大きいだろう。

 ノーアは、乾杯しよう、とグラスを掲げて見せるが、エーミルは全く応じる様子も見せずに、黙々とブランデーを呷り続けている。この対応は、さすがにわざとのことだろう。エーミルの前には、彼の注文したらしい炒ったナッツやピクルスなどが並んでいるが、時間は既に夕食時の峠を過ぎた頃合いだ。成人男性の空腹を満たすには、それらは当然、心もとない。

 モクテルを飲みながら、ノーアがじいっと視線でエーミルに訴えかけ続けると、やがて彼は根負けした様子で深々と嘆息し、店主に勘定を頼んだ。してやったり、と、ノーアは笑う。


「あれ、ここで食っていかないのか? 窯焼きのピッツァが美味いときいたから、楽しみにしていたんだけどな」

「何を今さら、空っとぼけておいでです。貴方のような方が、私などになんの用向きかは知りませんが、話せるものも話せないでしょう、この場所では。仕方がありませんので、わが家をご提供します。ああ、店主、勘定はすべてこの方へどうぞ」

「おいおい、ひどいな」

「場所貸し料には、安すぎるほどです。誰かを招こうと思って、借りてるような部屋ではございません」

「なら、なんのために借りてるんだ? 王族の専属従者なら、王宮の中に部屋ももらえるんだろうに」


 ノーアの追及に、エーミルは振り返り、にっこりと笑った。しかし、その目だけはちっとも笑っていない。


「そんなもの、決まっているじゃありませんか」


 言いながら、篝火スピネルのような瞳が、ノーアのことをじっと見据える。出会ったその日のヨアンのように、警戒心をあらわにしているわけではないのに、それでいて「明確にお前を信頼はしていない」というのがありありと伝わるのだから、器用なものだ、と、ノーアは思った。感情を剥き出しにはしないかわりに、エーミルの前には、やわらかな膜が張られている。一見透明で、透き通っているように見えるけれど、叩いても揺すっても、決して揺らぐことのない、分厚い水の膜。かたまりの向こう、光の屈折率でぼんやりと歪んで見えるのは、二十年以上に渡って圧搾しつづけた、エーミルの苛烈な本質だ。


「あそこが、の生きる世界ではないからですよ」

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