――――見てもらいたいものがある。
そう言って、ベルンハルドの、白い手袋を嵌めた指が、彼のシャツの襟もとにかかる。ベルンハルドは、いつも必ずこの手袋を嵌めていて、サーコートの下には、首の詰まった絹のシャツを纏っているのが常だった。ノーアは彼の喉首も、素肌の手も、王宮を訪れて以来、一度も目にしたことがない。
ベルンハルドの指が、ボタンをひとつ、ふたつ、と開く。そうして晒された彼の喉元を見て、ノーアは、――――ゆっくりと目を瞠った。花だ。花が咲いている。刺青でも、化粧でもない。ほっそりとした星型の花弁を持った、白く小さな花の絵が、淡く明滅する光を帯びて、ベルンハルドの喉元に浮かび上がっていた。
これは、人智を越えた力によるものだ。なぜだか、ノーアは瞬時にそう確信した。頭では、ただの小さく可憐な花の絵に過ぎないとわかっているのに、その花はまるで有機物に
「それは……」
「花果の
ベルンハルドは、ほろ苦く笑った。その笑みに、後悔と哀惜の念が浮かんでいるのを見てとり、ノーアは、僅かに眉を寄せる。
ゆうべに続き二人目、とベルンハルドは言った。ならば、その最初の一人にあたる人物は、おそらく昨晩ベルンハルドの処分に従い、この王宮を辞していったその人に違いない。
「……エーミルか?」
「そう。本当は、専属従者だったとしても、王族以外には明らかにしちゃいけないってしきたりなんだ。実際、昨日の夜まで、オレはこの標を、アイツにも見せたことはなかった」
ベルンハルドは、ひどく疲れたように、重たく瞼を伏せる。長い睫毛が、ベルンハルドの白い顔に影を落とした。
「祝福という名の、呪いだよ。でも、オレはずっと、この呪いとともに生きてきた。もう、十二年経つのかな。そしてこれからも、この
「……特定の条件、っていうのは」
「ばかばかしいぜ。聞いたら、アンタ、笑うよ」
「笑うわけないだろ」
自嘲するようなベルンハルドの口調が耐え難くて、つい、ノーアは口調を荒げる。頭で認識するよりも先に、反射で言葉が飛び出してきたのだ。あまり、経験したことのない感覚で、ノーアはやや狼狽したが、それよりも何よりも、傷付いた様子で目を伏せているベルンハルドに、できるなら少しでも寄り添ってやりたくて、ノーアは自身の抱いた違和感には、目を瞑ることにした。
ノーアが本心でそう言っている、ということは、ベルンハルドにも伝わったのだろう。彼は、伏せていた瞼を持ち上げ、ノーアを見ると、眉を下げてほほ笑んだ。どこか、途方に暮れたような、寄る辺のない子どものように、幼い表情だった。
「恋をしたらさ」
ベルンハルドは、そう、歌うように答えた。あっけらかんと開き直ったようにも聴こえたし、なにもかもが投げやりなようにも聴こえる声だった。
「恋をしたら、咲くんだ。そして、その恋に破れれば、この花は散る」
ノーアは、ひっそりと息を呑んだ。ベルンハルドは、童心に返ったかのように、噴水の淵に手袋の両手を付き、長い足をぶらぶらと遊ばせる。
「どういう原理かは、オレも知らない。言い伝えでは、この花果の国の始祖が、この土地を拓くとき、土地神に誓約を捧げたのが、起源らしい」
「誓約……」
「そう。『この大地が、決して飢えに苦しむ民を生み出すことのないように。いついつまでも実りに溢れ、花々の咲き乱れ、永遠の豊穣が約束された土地になりますように』ってね。かわりに始祖は、神に、自身の心を明け渡すことを誓った。恋という――――ある時は人を支えて励ましもするが、ある時は返す刀で、人を狂わせ憎ませることもする、その自由の利かない感情を、神の御許に、捧げ渡したんだ。……以来、その血を引く者たちは、恋をすると同時に、
ベルンハルドの口調には、一切の淀みがなかった。何度、彼はそれを言い聞かされ、また何度、彼はそれを自身に言い聞かせたのか。
十二年、と、ベルンハルドは言った。この呪いとともに生きてきた時間は、十二年が経つ、と。逆算すれば、彼が数えで十歳になったころにはもう、この白い花――エーデルワイスの標が、ベルンハルドの喉に浮かび上がっていた、ということになる。
ベルンハルドの幼いころから、ベルンハルドのそばにいて、ベルンハルドの理解者だった誰か。――――きっとそれは昨晩、ゆったりとした文官服の袖を合わせて、典雅に一礼し、この王宮を静かに去って行ったであろう、誰かだ。
すべてを察したノーアは、言葉を失った。
「アイツ、知ってたんだ。エレオノーラとオレの婚約の話が、水面下で進んでいたこと。知っていて、オレのことを泳がせていた。オレの夢のことも、……オレが本当は誰のことを愛しているのかも、全部知った上で、エーミルはずっと、素知らぬ顔でオレに笑いかけてたんだよ。そうして、事が成ったあとで、エーミルは言った。『おめでとうございます』って」
ベルンハルドは、そう言いながら、自身の白い手袋を抜き取り、投げやりに石畳の上に放り落とす。あらわになった彼の肌の上には、喉に顕現していたあの白い花――――花果の標が、二の腕から爪先に至るまで、まるで皮膚という皮膚を埋め尽くすかのように、咲き乱れていた。おそらくその花々は、彼の喉から、服に隠れた鎖骨や胸を通り、二の腕から爪先に至るまで、裾野をひろげるようにして、さざめきながら群生しつづけているに違いない。
淡く、明滅しながら光る花々。あまりにも美しく、そして、禍々しい。
いつの間にか、ノーアの喉は、からからに渇いていた。
「……ベルン、」
「『おめでとうございます。私は貴方の幸福を、心から願っております』って、そう言った。いつもみたいに穏やかに、優しく、……なんの感情もなく」
「ベルン」
「気が付いたら、アイツの肩に掴みかかって、この花を見せてた。花果の標についても全部喋って、オレの夢も心もすべて、誰より隣で見てきたはずのそのお前が、オレに向かってそんなことを言うのか、って、怒鳴り散らしてた。……はは。思い切り掴んじまったから、痛かったろうな。それに、オレってこんなにデカい声が出せたのかって、自分でも驚くくらいの勢いで怒鳴りつけちまったから、さすがのアイツでも、怖かったろうとも思うよ」
「ベルン」
「でも、エーミルは、表情ひとつ変えなかった。ただ、この気味の悪い花の咲き乱れる、オレの手を握り返して、こう言ったんだ」
――――ベルン。
それは、幼い頃、まだエーミルがベルンハルドの専属従者ではなく、乳兄弟として今よりももう少し気安い間柄だったときに、彼が時どき、呼んだ愛称。
ベルン。僕の大切なひと。
どうか、その花はすべて摘み取って、幸せになってくださいね。
「ちくしょう」
「……ベルン」
「ちくしょう。このオレを、あんなに、こっぴどく袖にしやがったのは、アイツくらいだ。なのに、この花は散らない。どうして、まだ咲いてるんだ。エーミルの望みなのに、わかってるのに、どうして、枯らしてやることができないんだよ……」
項垂れながら、ちくしょう、と、何度も何度も唾棄するベルンハルドの肩を、ノーアは、静かに抱いた。彼の喉にはその瞬間もまだ、淡く明滅する光を纏った
いつまでも、咲き続けている。