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第4話-2 しるし

 ノーアにそのしらせを運んできたのは、ヨアンだった。

 少年らしくもなく、いつも気を張り、喜怒哀楽を露骨に出さないよう努めているヨアンが蒼白になって駆け込んできたことで、ノーアは逆に、自分がこれからいかに冷静に立ち振る舞わなければならないか、という腹が据わった。朝食もそこそこに、ヨアンに案内されながら、ベルンハルドの居室のある北の宮へと向かう。


「昨日、エレオノーラ様たちがご帰国の途に立たれてから、半時もしないうちだったそうです。執務室から、ベルンハルド様の激昂した声が聞こえて、しばらくしてから……エーミル様が北の宮を辞していったと」


 どこの国の王宮でも、何かしらの粗相を仕出かした仕官や侍従たちが、処分を与えられる場面などは、いくらでも起き得ることだ。ところによっては、主人の気分次第で、ころころと首を挿げ替えられる事例も珍しくはない。ほとんど言いがかりのような理由で、優秀な侍従たちが反論の余地なく放り出されていくさまを、ノーア自身、少なからず見てきた立場のひとりだ。城塞の国の王宮は、猜疑心と嗜虐心に満ちた王族だけで成り立っているような場所だったから。

 しかし、ここは花果の国であり、城塞の国ではない。今回処分の対象となったのはエーミルで、その処分を科したのはベルンハルドだ。何らの大きな理由なく、気紛れでことを起こすような人柄ではないことくらい、まだ彼らと出会って二十日足らずのノーアにだって、確信できることだった。


「具体的に何があったかってのは、訊けたのか?」

「いえ。オレ、あまり、王宮内で顔が広くないから……ただ、エーミルさん自体は落ち着いていて、表情ひとつ変えずに、侍従たちに業務の引継ぎをして出ていった、ということはきました。まあ、エーミルさんが取り乱したところなんて、そもそもからして、想像もできないんですけど……」


 エーミルは、ベルンハルドの乳兄弟というのもあり、宮仕え自体が長いのだという。ベルンハルドとは付き合いが深いからか、遠慮のない物言いをすることもあるが、自身は平民で、王族に従属する立場である、という根幹の部分を、きちんと弁えている人間だ。ベルンハルドから処分を下されても、きっと表面上は微塵も動揺せず、いつもの柔和な表情を浮かべたまま、冷静に侍従たちに事後処理を指示し、穏やかに去って行ったのだろう。付き合いの浅いノーアにさえ、その姿をありありと想像することができた。


「水泡の国一行が帰国してすぐだったって言うなら……まあ十中八九、交易に関することだろうな」

「たぶん。でもそれで、どうしてエーミルさんを処分なんて話になったのかが、わかりません。ベルンハルド様は、かなり荒れてるみたいで……あの人、なまじ顔が綺麗で、怒ると迫力があるもんだから、北の宮全体が、針の筵状態らしいんです。そりゃ……確かに、仕事には厳しい人ではありますけど」


 でも、と、ヨアンは顔色を曇らせる。


「面倒見のいい方だから、侍従職に重い処分を科したりしたなんてこと、きいたことがありません。それが、よりにもよって……いつもお傍に置かれていたエーミルさんを謹慎させるなんて」


 ヨアンに案内された北の宮は、ノーアの滞在している東の宮に比べ、全体的に華やかな設えだった。回廊を設けた二階建ての建築構造に変わりはないが、漆喰の壁や床には彩色が施されており、調度品の類も豪奢なものが多い。主人であるベルンハルド自身が政務の中枢にいるからか、仕えている侍従職たちも、東の宮とは比べ物にならない数で、多くの下女や下男たちが、廊下を慌ただしく行き来していた。しかし、その表情は、皆どこか暗く、強張っている。


「あそこの、いちばん奥のお部屋が、ベルンハルド様の執務室です」

「案内してくれてありがとう、ヨアン。お前は、東の宮に戻って、スヴェンと一緒にいるんだ。俺のお守り以外にも、お前にはやらなきゃならない仕事がたくさんあるだろ」

「……わかりました」


 ヨアンは、神妙に頷いた。彼はオリーブ色の前髪の下から、心細そうに、ノーアを見上げる。


「甘えて、ごめんなさい」


 悔しげな呟きだった。これまでのヨアンの言葉選びの中では、最も年相応で、子どもらしいひとことだ。ノーアは笑い、彼の髪の毛を、くしゃくしゃと撫でた。


「大丈夫だよ。こういう内輪もめに横やりを入れられるのが、よそものの特権だ。大して役には立てないかもしれないけど、話をきいてやるくらいなら、できるかもしれないからさ」


 ノーアの言葉に、ヨアンは逡巡したように視線を揺らしたが、やがて唇を噛んで、ぺこりと会釈をすると、来た道を引き返して行った。主人であるスヴェン以外に、心を許していた限られた大人であるベルンハルドとエーミルの不和は、ヨアンの心を、手ひどく揺さぶったようだ。最近は、ノーアにも警戒心を解き始め、少年らしい表情を垣間見せるようになっていただけに、傷付いたヨアンのさまは、より痛々しく見えた。

 けれど、こういうときに、彼の主人であるスヴェンはきっと、うまくヨアンに寄り添ってやれる人だ。事件が起こったことをきいてから、スヴェンとはまだ顔を合わせていないけれど、暗黙のうちに、ベルンハルドに話をきくのが自身の役割なら、ヨアンをいたわるのがスヴェンの役割になるだろう、と、ノーアは自然に確信していた。

 ベルンハルドの執務室の扉を、数度叩く。返事はない。ある程度、予想していたことだ。ノーアは扉の外から、声を張り上げた。


「ベルン。俺だよ」

「……ノーアさん」


 しばらくの間をおいて、扉から、ベルンハルドが顔を覗かせた。ひどい顔だな、と、ノーアは眉をひそめる。ヨアンの話では、昨晩から今日に至るまで、激昂して感情的になっている、とのことだったが、今ノーアと対峙している彼は、疲弊して、憔悴しきって、まるで誰かに手ひどく、ざっくりと傷つけられたような表情をしていた。


「よう。昨日の検証作業の続きは、今日はパス?」


 ノーアは、敢えてそのように切り出した。ノーアのそうした気遣いは、ベルンハルドにも伝わったのだろう。彼は、苦く笑って、ノーアをそのまま北の宮の散策に誘った。通りがかった侍従に、ベルンハルドが人払いを命じると、大勢いた下男や下女たちが、まるで蜘蛛の子を散らすようにして、宮を飛び出していく。

 ベルンハルドは、中庭に出ると、疲れ果てたように、噴水の淵に腰掛けた。視線で促されて、ノーアもその隣に腰を下ろす。竜胆の野花が咲いている東の宮とは違い、北の宮の中庭には石畳が敷かれていて、一切植物の姿がない。ところどころに嵌め込まれたタイルには、花果の国の紋章が、秩序立てて描かれていた。


「東の宮とは、けっこう、雰囲気が違うだろ」


 物珍しげにしていたノーアを見て、ベルンハルドがそう言った。声音は静かで、落ち着いている。しかしだからこそ、いつもの開放的で闊達な彼の姿との乖離が目立った。ノーアは、穏やかに首肯する。


「そうだね」

「北の宮は、いちばん神殿に近いんだ。だから、ある意味では本宮よりも、整備が厳格かもしれない。本当は、外つ国のアンタのことも、あまり招くべきじゃないんだろうけど」


 でも今は、ノーアさんと話したい気分だったから、ありがたいよ。

 ベルンハルドはそう言って、苦くほほ笑む。


「神殿か。文献の中にもあったね。王家の人間しか、足を踏み入れてはいけない聖域だって」

「いざ入ってみれば、粗末なものだよ。でも、確かに其処に『いる』んだ。ずっと昔から其処にいて、王家の血が流れる人間たちを


 ベルンハルドは、ぼんやりと言う。どこか、諦念のようなものが滲んだ声だった。

 外部との国交を絶った、花果の国の中で育まれた独自の宗教観は、対外的には殆ど公表されていない。王権神授説を唱えていることだけは明確にされているが、一体どのような神を信仰しているか、という部分が、ヴェールに包まれたままなのだ。だからこそ、世界各国の宗教学者や民俗学者たちが、こぞってこの国を訪れる。しかし、その調査結果が殆ど無駄足に終わっていることも、対外的にはまた有名な話だった。理由は、「奥秘であり、王秘である」ため。宗教に相関する土地や施設には、如何なる理由があろうとも、外つ国の人間を招き入れてはならない、という厳粛な掟が、花果の国の王家の中には根強く浸透している。


(そして、それを探ってくるのも)


 ――――自分の『仕事』だ。そう、ノーアは認識していた。

 ベルンハルドを純粋に気遣ってやりたい、という気持ちの向こうに、ぽっかりと表情を削ぎ落とした「ノーア・アンドレセン」が、まるでノーアを断罪するかのように、まっすぐに指を差す。ノーアは、その白い指先を、じっと前髪の下から睨み据えた。やがて、恨みがましい目線を向けて、「ノーア・アンドレセン」は、煙のように姿を消す。ノーアは、小さく安堵の息を吐いた。


「信心深いんだな」


 努めて明るい声でノーアがそう言うと、ベルンハルドは、緩慢に首を横に振った。


「そんなんじゃない。それ以外の世界を知らないから、漫然と、ぬるま湯に浸かっているってだけだよ。だからオレは、外の世界を知りたかった。外交政務をしっかり果たして、外つ国との学術交流ももっと重ねて……そしていつか、この足で世界を周り歩いてみたかった。ガキの頃から、本当はそれが夢なんだ。唯一打ち明けてたエーミルには、鼻で笑われたけどな。『立場を弁えろ』って」

「俺は、笑わないよ。いい夢だ」


 ノーアが笑って答えると、ベルンハルドは、笑おうとして、失敗したような顔をした。ずるずると項垂れて、銀灰色の彼の髪が、表情全体を覆い隠してしまう。


「……水泡の国に、婿入りすることが決まったんだ。相手は、昨日の来客だった、第一皇女のエレオノーラだ。だから、この夢はもう叶わない」


 ベルンハルドの言葉に、ノーアはひっそりと眉をひそめた。昨日、可能性のひとつとして危惧していた通りの出来事が、水面下で実際に動いていた、ということだ。予想が当たっても、喜ばしい気持ちは、欠片も湧いてはこない。

 外つ国との国交を絶っている花果の国の王家では、自然、外つ国からの嫁取りも行われない。第二王女オルガのように、同盟国へ輿入れをする者はいくらか出るが、王室に外の国の血を入れることについて、この国は明確に拒んでいる。

 だから、もしもエレオノーラとの政略結婚の話が浮上するならば、スヴェンやベルンハルド、或いは末弟の第六王子アルフレッドがその相手に選ばれるのは、考えるまでもないことだった。当のエレオノーラが、長くベルンハルドに恋慕している、というヨアンの話が真実であるならば、ベルンハルドがその対象に指名されることは、何ら不思議なことではない。


「エレオノーラとは、幼馴染みたいなもんなんだ。知らない仲じゃないし、歳も近い。教養もあるし、貞淑だけどからっとしてて毒気もない、いい皇女プリンセスだよ。……でも、オレはあいつの夫にはなれない」

「……夢を失うからか?」

「いつか破れると、半分、心の中でわかっていた夢だ。未練はあるけど、それが理由にはならないよ」


 ベルンハルドはそう言って、顔を上げた。夜の始まりのようなブルータンザナイトの瞳が、覚悟を決めたように、まっすぐにノーアを見つめる。


「ノーアさん。アンタに、見て欲しいものがあるんだ」

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