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第4話-1 しるし

 学術交流大使としてのノーアが、役割上、王宮内で最も接点が多くなるのは、外交政務を取り仕切っているベルンハルドだ。彼とともに、王宮内で互いの知見を共有し合うことは勿論、王宮で保有している文献調査にあたったり、新たな交易品候補の選別会に同席することもある。

 ベルンハルドは、知的好奇心が高く、向学心に溢れた青年だった。五百年、安定して国家を存続してきた王家の一員、という自負を持ちながらも、外部から踏襲すべきことは積極的に吸収し、必要があると感じれば、既存の方針や観念を改めることにも躊躇がない。閉塞的な王宮という環境で育ったとは思えぬほど、彼は開放的で、闊達な性質の王子だった。


「ノーアさん、スヴェン兄さんから絵のモデルを頼まれたんだって?」


 東の宮の応接室内で、顔を合わせるやいなや、ベルンハルドはノーアにそう切り出した。ノーアは、思わず渋面になる。


「……耳が早いな」

「何度声を掛けても袖にされてるんだって、しょんぼりしてたよ。あの人があんなに感情を表に出すのは、珍しいからさ」

「それで、ベルンは俺の説得役として、出向してきたってわけかい?」

「まさか。オレがしゃしゃらなくたって、あの人は一度決めたら、好きなことを好きなようにやるさ。つまりは、そうそう簡単に諦めたりしないぜってこと。災難だな、ノーアさん」


 ベルンハルドは、悪戯っぽく、にっと歯を見せて笑った。あまりにも純粋で、無邪気な少年のような表情に、ノーアは毒気を抜かれて苦笑する。


「嬉しそうだね、ベルン」

「そりゃあね。あの人、そもそもが、生い立ちだろう。王宮の中では、殆ど誰とも交流を持とうとしないで、心を閉ざしてずっと引き籠もってるのが当たり前って感じだったから、勿体ねえなって、歯がゆくは思ってたんだ。だから、あの人がノーアさんに懐いたって事実は、率直に言っちまえば、嬉しいのさ」

「あれ、懐いたって表現の範囲で済んでますか?」


 ベルンハルドの言葉尻に噛みつくように、紅茶を配膳しながら、同席していたヨアンが言う。うんざりと辟易した表情を浮かべており、今にも「べえ」と舌を出しそうだ。


「一日一回はノーア様とティータイムができなきゃいやだ、絵の進捗を確認してほしいから会いたい、食事を抜いているのを咎めれば、ノーア様が𠮟ってくれるなら食べる、無理をしすぎだから寝ろと言えば、ノーア様に寝かしつけてほしい……挙句の果てには、絵のモデルになってほしい、ですよ? いい年して、どんだけ、ノーア様を独占していたいんだよ。そばで見させられる、こっちの身にもなってほしいです」

「はは。一番災難なのは、お前だったか、ヨアン」

「いや、そんな……独占したいとか、そういうんじゃないよ。きっとこれまで人を寄せ付けなかった生活の反動が一気に来て、たまたま外つ国から来た俺が、そのスヴェンの抑えてた蓋を外すきっかけになった、ってだけさ。本当は人間好きだし、集団で過ごすのも好きな人なんだ。別に、俺が特別何かをしなくたって、いつかはこういう日がきたんだよ」


 ノーアの返答に、なぜか、ベルンハルドとヨアンは顔を見合わせた。わかってないなあ、とため息を吐かれて、ノーアは首を傾げる。

 実際、ノーアより年長者であるはずのスヴェンが、ひな鳥のようにノーアに懐くようになったのは、事実だ。彼は食事の時間も睡眠の時間も、大好きな絵を描く時間さえも、いつもその一部をノーアと共有したがった。

 けれどそれは、庶子という生い立ちゆえに、十年間、王宮内で抑圧せざるを得なかった彼生来の柔らかい心が、悲鳴をあげかけていたところに、ノーアという異分子がたまたま訪れて、開放のきっかけになった、というだけに過ぎない。スヴェンがノーアに構うようになったのは、あくまでもそうした経緯によるショック症状のようなものであり、一過性のものに過ぎないと、ノーアは本心からそう信じていた。例えるなら、生まれてすぐに親と離れたひな鳥が、擬似親を見つけて、仮の巣を形成しようとしているようなもの。けれどひな鳥は、いつか必ず巣からは飛び立っていく。

 きっとこれから徐々に、スヴェンの閉ざされていた心は、外に向かっていくことができるようになる。そうして、巣立つ。元より、ノーアは花果の国の人間ではないのだから。ベルンハルドは、元々スヴェンと比較的友好な関係を築いていたし、彼を起点に、他の王族ともかかわりを持つようになれば、場合によってはスヴェンは序列の通り、花果の国の次期王位継承者に選出されても何らおかしくはない。庶子とはいえ、先代アルベルト国王の直系の王子であることは、動かせない事実なのだ。スヴェン本人は望まぬところではあるだろうが、望む、望まぬの意思にかかわらず履行されていくのが、血の縛りというものだろう。


(スヴェンには、自由であってほしい、とは願うけど)


 ノーアの、そんな自分本位な希望は、無責任でしかない。なぜならノーアは、いずれこの国を去る渡り鳥で、「名前のない何者か」でしかないのだから。


「失礼いたします。こちらに、ベルンハルド様はおいでですか」


 数回のノックの後に、顔を出したのは、エーミルだった。ゆったりとした文官服の袖を合わせて、彼は、典雅にノーアに一礼する。


「ご歓談中に、お邪魔して申し訳ございません。王子、金木犀きんもくせいの君からのご指名でございます。本宮の応接室のほうへ、ご案内させて頂いております」


 エーミルの言葉に、ベルンハルドが、如実に表情をこわばらせる。苛立っているような、辟易しているような、気が進まない、とでも言いたげな。

 明朗闊達なベルンハルドが、このような負の感情を、明確に滲ませることは珍しいことだった。ノーアも、おや、と瞬く。


「……政務中で手が離せない、と伝えてくれ」

「いけません。先月もそのように仰って、お断りされたでしょう。エレオノーラ様は、貴方にお会いできることを楽しみにしておいでです。わざわざ御足労頂いているのですから、王族として、義理は果たすべきでございます」


 渋るベルンハルドを、エーミルは柔和な口調ながら、ぴしゃりと窘める。ベルンハルドは、親に叱られた子どものようにばつの悪い顔をして、深く嘆息した。ヨアンの淹れた紅茶を綺麗に飲み干してから、立ち上がる。


「ごめん、ノーアさん。来客だから、少し席を外すよ。ヨアン、後ですぐ戻るから、カップはそのままにしておいてくれ」

「いいえ、ベルンハルド様、いけません。広間で、会食の手配が済んでおります」

「……やっぱり、カップは下げておいてくれ。悪いな」

「かしこまりました」


 苦虫を嚙み潰したような顔をしたベルンハルドは、そうヨアンに言い含めると、いかにも渋々といったていで、会議室を出ていった。エーミルが再び袖を合わせて、ノーアに一礼の末、その背に追従して去って行く。嵐のように姿を消したふたりを、ノーアが唖然と見送っていると、あとに残されたヨアンが、腰に手を当てて、ため息を吐いた。


「ベルンハルド様も、往生際が悪いんだから。粘ったって、結局エーミルさんに連れていかれるのに」

「来客か? エレオノーラ様っていうと……」

「水泡の国の第一皇女、エレオノーラ・カーライネン様です。水泡の国からは、月に一度、交易品の収益分配の件で使節の交流があって、エレオノーラ様はいつもそれにご随行されて、王宮においでになるんです」


 水泡の国は、エートル山脈を挟んで、花果の国の隣国にあたる国家だ。国土内に潤沢な水源を持ち、そのいずれも抜きんでて水質が良いことで知られている。また、移動キャラバンの中継地点として、宿泊産業も盛んだ。諸外国との親密な国交を絶っている花果の国も、隣国の水泡の国とは、事実上の同盟と不可侵条約を締結しており、これは対外公表されている情報として、入国前のノーアがあらかじめ頭の中に入れていたことのひとつだった。

 一方で、この水泡の国には、自国繁栄のためには手段を選ばない、という側面もある。水泡の国より南部は、国土のほとんどを広大な砂漠が占める「砂礫されきの国」があり、砂礫の国はその構造上、水泡の国から水を買い受けずには成立することができない。もしも水泡の国王の機嫌を損ねたら最後、砂礫の国の国民を待つのは、凄絶な渇きの末の『死』だ。砂礫の国が、国家として成立してはいるものの、事実上水泡の国に隷属している状態であることもまた、対外的には有名な話だった。

 味方につければ頼もしいが、敵にまわせば、明確に旗色が悪くなる。水泡の国は、そういう国だ。外交全般の政務担当として、直接折衝する立場のベルンハルドには、慎重な対応が求められるだろう。


「そりゃあ、ベルンも肩が凝るだろうな。エレオノーラ様も、ベルンと同じように、自国で外交に携わっておいでなのかい?」

「いえ。オレは、難しいことはわかりませんが、外交官は別にいて、エレオノーラ様は、あくまでも随行でいらっしゃる、というだけです。もとは、花果の国第二王女のオルガ様や、第三王女ヒルダ様と親しくされていて、十歳にも満たない頃から、しょっちゅうこっちの王宮に出入りされていた、ときいています。オルガ様が羊蹄の国に輿入れされて、国を出る頃には、ベルンハルド様とも顔なじみになったとか。……それ以来、ええと」


 ヨアンは、言いにくそうに、言葉を迷わせた。


「ベルンハルド様に、ご執心なんです」

「……なるほど。ベルンの立場上、それは無碍にはできないだろうな」


 それどころか、不可侵条約を締結している両国の関係性上、政略結婚の対象にもなり得る。それを察しているから、エーミルは口を酸っぱくして、ベルンハルドにエレオノーラのご機嫌取りをするよう諭したのだろう。

 とはいえ、城下の大勢の女性たちの心を射止めているベルンハルドなら、もっとうまく割り切って、スマートにエレオノーラとの接見に臨みそうなものだが、エーミルの話を鑑みるに、ベルンハルドが接見の場から逃げようとしたのは、一度や二度のことではないだろう。あの闊達なベルンハルドが、あそこまで及び腰になる背景に、一体どんな出来事があったというのか、ノーアには想像もつかない。


(まあ、明日にでも、問題にならない範囲で探ってみるか)


 ベルンハルドと検証途中だった文献については、今日のところは諦めることとして、ノーアはこの時には既に恒例となりつつあった、ヨアンの家庭教師へ転身することに決めた。当初から想像していた通り、ヨアンは優秀な生徒で、既に文字の読み方はひと通り覚え、今は書き取りの稽古を重ねているところだ。スヴェンはもちろん、ベルンハルドもエーミルも、ノーアがヨアンに学びの機会を与えたことを喜び、寧ろそれを逆算して予定を組もうとするほどに、協力的な姿勢を見せていた。ヨアンが望むなら、加えて算術や地学なんかも教えてやってもいいな、と、ノーアは考えているほどだ。

 ヨアンに、書き取りの帳面を持ってくるようにと告げると、彼は顔を綻ばせて、部屋を飛び出して行った。そのさまを、ほほ笑ましく眺めながら、ノーアは文献を閉じる。また明日、ベルンハルドとじっくり続きに臨めばいい。

 そう、また明日。


 ベルンハルドが、エーミルに数日間の謹慎処分を発令したことをノーアが知ることになるのは、その「明日」のことである。

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