学術交流大使としてのノーアが、役割上、王宮内で最も接点が多くなるのは、外交政務を取り仕切っているベルンハルドだ。彼とともに、王宮内で互いの知見を共有し合うことは勿論、王宮で保有している文献調査にあたったり、新たな交易品候補の選別会に同席することもある。
ベルンハルドは、知的好奇心が高く、向学心に溢れた青年だった。五百年、安定して国家を存続してきた王家の一員、という自負を持ちながらも、外部から踏襲すべきことは積極的に吸収し、必要があると感じれば、既存の方針や観念を改めることにも躊躇がない。閉塞的な王宮という環境で育ったとは思えぬほど、彼は開放的で、闊達な性質の王子だった。
「ノーアさん、スヴェン兄さんから絵のモデルを頼まれたんだって?」
東の宮の応接室内で、顔を合わせるやいなや、ベルンハルドはノーアにそう切り出した。ノーアは、思わず渋面になる。
「……耳が早いな」
「何度声を掛けても袖にされてるんだって、しょんぼりしてたよ。あの人があんなに感情を表に出すのは、珍しいからさ」
「それで、ベルンは俺の説得役として、出向してきたってわけかい?」
「まさか。オレがしゃしゃらなくたって、あの人は一度決めたら、好きなことを好きなようにやるさ。つまりは、そうそう簡単に諦めたりしないぜってこと。災難だな、ノーアさん」
ベルンハルドは、悪戯っぽく、にっと歯を見せて笑った。あまりにも純粋で、無邪気な少年のような表情に、ノーアは毒気を抜かれて苦笑する。
「嬉しそうだね、ベルン」
「そりゃあね。あの人、そもそもが、
「あれ、懐いたって表現の範囲で済んでますか?」
ベルンハルドの言葉尻に噛みつくように、紅茶を配膳しながら、同席していたヨアンが言う。うんざりと辟易した表情を浮かべており、今にも「べえ」と舌を出しそうだ。
「一日一回はノーア様とティータイムができなきゃいやだ、絵の進捗を確認してほしいから会いたい、食事を抜いているのを咎めれば、ノーア様が𠮟ってくれるなら食べる、無理をしすぎだから寝ろと言えば、ノーア様に寝かしつけてほしい……挙句の果てには、絵のモデルになってほしい、ですよ? いい年して、どんだけ、ノーア様を独占していたいんだよ。そばで見させられる、こっちの身にもなってほしいです」
「はは。一番災難なのは、お前だったか、ヨアン」
「いや、そんな……独占したいとか、そういうんじゃないよ。きっとこれまで人を寄せ付けなかった生活の反動が一気に来て、たまたま外つ国から来た俺が、そのスヴェンの抑えてた蓋を外すきっかけになった、ってだけさ。本当は人間好きだし、集団で過ごすのも好きな人なんだ。別に、俺が特別何かをしなくたって、いつかはこういう日がきたんだよ」
ノーアの返答に、なぜか、ベルンハルドとヨアンは顔を見合わせた。わかってないなあ、とため息を吐かれて、ノーアは首を傾げる。
実際、ノーアより年長者であるはずのスヴェンが、ひな鳥のようにノーアに懐くようになったのは、事実だ。彼は食事の時間も睡眠の時間も、大好きな絵を描く時間さえも、いつもその一部をノーアと共有したがった。
けれどそれは、庶子という生い立ちゆえに、十年間、王宮内で抑圧せざるを得なかった彼生来の柔らかい心が、悲鳴をあげかけていたところに、ノーアという異分子がたまたま訪れて、開放のきっかけになった、というだけに過ぎない。スヴェンがノーアに構うようになったのは、あくまでもそうした経緯によるショック症状のようなものであり、一過性のものに過ぎないと、ノーアは本心からそう信じていた。例えるなら、生まれてすぐに親と離れたひな鳥が、擬似親を見つけて、仮の巣を形成しようとしているようなもの。けれどひな鳥は、いつか必ず巣からは飛び立っていく。
きっとこれから徐々に、スヴェンの閉ざされていた心は、外に向かっていくことができるようになる。そうして、巣立つ。元より、ノーアは花果の国の人間ではないのだから。ベルンハルドは、元々スヴェンと比較的友好な関係を築いていたし、彼を起点に、他の王族ともかかわりを持つようになれば、場合によってはスヴェンは序列の通り、花果の国の次期王位継承者に選出されても何らおかしくはない。庶子とはいえ、先代アルベルト国王の直系の王子であることは、動かせない事実なのだ。スヴェン本人は望まぬところではあるだろうが、望む、望まぬの意思にかかわらず履行されていくのが、血の縛りというものだろう。
(スヴェンには、自由であってほしい、とは願うけど)
ノーアの、そんな自分本位な希望は、無責任でしかない。なぜならノーアは、いずれこの国を去る渡り鳥で、「名前のない何者か」でしかないのだから。
「失礼いたします。こちらに、ベルンハルド様はおいでですか」
数回のノックの後に、顔を出したのは、エーミルだった。ゆったりとした文官服の袖を合わせて、彼は、典雅にノーアに一礼する。
「ご歓談中に、お邪魔して申し訳ございません。王子、
エーミルの言葉に、ベルンハルドが、如実に表情をこわばらせる。苛立っているような、辟易しているような、気が進まない、とでも言いたげな。
明朗闊達なベルンハルドが、このような負の感情を、明確に滲ませることは珍しいことだった。ノーアも、おや、と瞬く。
「……政務中で手が離せない、と伝えてくれ」
「いけません。先月もそのように仰って、お断りされたでしょう。エレオノーラ様は、貴方にお会いできることを楽しみにしておいでです。わざわざ御足労頂いているのですから、王族として、義理は果たすべきでございます」
渋るベルンハルドを、エーミルは柔和な口調ながら、ぴしゃりと窘める。ベルンハルドは、親に叱られた子どものようにばつの悪い顔をして、深く嘆息した。ヨアンの淹れた紅茶を綺麗に飲み干してから、立ち上がる。
「ごめん、ノーアさん。来客だから、少し席を外すよ。ヨアン、後ですぐ戻るから、カップはそのままにしておいてくれ」
「いいえ、ベルンハルド様、いけません。広間で、会食の手配が済んでおります」
「……やっぱり、カップは下げておいてくれ。悪いな」
「かしこまりました」
苦虫を嚙み潰したような顔をしたベルンハルドは、そうヨアンに言い含めると、いかにも渋々といったていで、会議室を出ていった。エーミルが再び袖を合わせて、ノーアに一礼の末、その背に追従して去って行く。嵐のように姿を消したふたりを、ノーアが唖然と見送っていると、あとに残されたヨアンが、腰に手を当てて、ため息を吐いた。
「ベルンハルド様も、往生際が悪いんだから。粘ったって、結局エーミルさんに連れていかれるのに」
「来客か? エレオノーラ様っていうと……」
「水泡の国の第一皇女、エレオノーラ・カーライネン様です。水泡の国からは、月に一度、交易品の収益分配の件で使節の交流があって、エレオノーラ様はいつもそれにご随行されて、王宮においでになるんです」
水泡の国は、エートル山脈を挟んで、花果の国の隣国にあたる国家だ。国土内に潤沢な水源を持ち、そのいずれも抜きんでて水質が良いことで知られている。また、移動キャラバンの中継地点として、宿泊産業も盛んだ。諸外国との親密な国交を絶っている花果の国も、隣国の水泡の国とは、事実上の同盟と不可侵条約を締結しており、これは対外公表されている情報として、入国前のノーアがあらかじめ頭の中に入れていたことのひとつだった。
一方で、この水泡の国には、自国繁栄のためには手段を選ばない、という側面もある。水泡の国より南部は、国土のほとんどを広大な砂漠が占める「
味方につければ頼もしいが、敵にまわせば、明確に旗色が悪くなる。水泡の国は、そういう国だ。外交全般の政務担当として、直接折衝する立場のベルンハルドには、慎重な対応が求められるだろう。
「そりゃあ、ベルンも肩が凝るだろうな。エレオノーラ様も、ベルンと同じように、自国で外交に携わっておいでなのかい?」
「いえ。オレは、難しいことはわかりませんが、外交官は別にいて、エレオノーラ様は、あくまでも随行でいらっしゃる、というだけです。もとは、花果の国第二王女のオルガ様や、第三王女ヒルダ様と親しくされていて、十歳にも満たない頃から、しょっちゅうこっちの王宮に出入りされていた、ときいています。オルガ様が羊蹄の国に輿入れされて、国を出る頃には、ベルンハルド様とも顔なじみになったとか。……それ以来、ええと」
ヨアンは、言いにくそうに、言葉を迷わせた。
「ベルンハルド様に、ご執心なんです」
「……なるほど。ベルンの立場上、それは無碍にはできないだろうな」
それどころか、不可侵条約を締結している両国の関係性上、政略結婚の対象にもなり得る。それを察しているから、エーミルは口を酸っぱくして、ベルンハルドにエレオノーラのご機嫌取りをするよう諭したのだろう。
とはいえ、城下の大勢の女性たちの心を射止めているベルンハルドなら、もっとうまく割り切って、スマートにエレオノーラとの接見に臨みそうなものだが、エーミルの話を鑑みるに、ベルンハルドが接見の場から逃げようとしたのは、一度や二度のことではないだろう。あの闊達なベルンハルドが、あそこまで及び腰になる背景に、一体どんな出来事があったというのか、ノーアには想像もつかない。
(まあ、明日にでも、問題にならない範囲で探ってみるか)
ベルンハルドと検証途中だった文献については、今日のところは諦めることとして、ノーアはこの時には既に恒例となりつつあった、ヨアンの家庭教師へ転身することに決めた。当初から想像していた通り、ヨアンは優秀な生徒で、既に文字の読み方はひと通り覚え、今は書き取りの稽古を重ねているところだ。スヴェンはもちろん、ベルンハルドもエーミルも、ノーアがヨアンに学びの機会を与えたことを喜び、寧ろそれを逆算して予定を組もうとするほどに、協力的な姿勢を見せていた。ヨアンが望むなら、加えて算術や地学なんかも教えてやってもいいな、と、ノーアは考えているほどだ。
ヨアンに、書き取りの帳面を持ってくるようにと告げると、彼は顔を綻ばせて、部屋を飛び出して行った。そのさまを、ほほ笑ましく眺めながら、ノーアは文献を閉じる。また明日、ベルンハルドとじっくり続きに臨めばいい。
そう、また明日。
ベルンハルドが、エーミルに数日間の謹慎処分を発令したことをノーアが知ることになるのは、その「明日」のことである。