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第3話-2 道しるべ

「へえ。それで、ノーアがヨアンに文字を教える、ってことになったんだね」


 アトリエで、イーゼルの前に腰掛けたスヴェンが、にこにことほほ笑んだ。手には、ノーアが土産にと買って帰った、コケモモのジャムクッキー。スヴェンは子どものように「美味しい! 美味しい!」と目を輝かせ、先程からバスケットを抱えて、何枚も何枚も平らげ続けている。

 ベルンハルドのことを、華やかで、抜きんでて精悍な顔立ちである、と評したけれど、こうして向かい合って会話をしてみればスヴェンも、負けず劣らず、繊細で整った顔立ちをしている。物言いや振る舞いは無垢で子どもっぽいが、どこか、しっとりとした品があるのだ。エルランド国王の系譜というよりは、きっと先代アルベルト国王の妻――母親似なのだろう。口許にクッキーの食べかすを引っ付けているのだけは、ちょっと頂けないけれども。


「だって、あんなに貴方の役に立ちたがっている頭のいい子が、学べないなんて勿体ないでしょう。まあ、もしかしたら、あの子に教育を受けさせたがってない層が、王宮には一定いるのかもしれないけど……」

「鋭いね」


 スヴェンが、深い森の色の瞳を細めて、いたずらっぽく笑う。ノーアは、肩を竦めて苦笑した。


「貴方が相当、我儘を貫いて、あの子を自分の傍仕えにしたって、ベルンからきいていたからね。王宮という場所なら、あるいはそういう動きがあってもおかしくないんじゃないかって、邪推しただけ。その点、俺はこの国にとっては部外者だから、不利益にならない範囲で俺が勝手にやることには、誰も口を挟めないでしょう」


 焼き菓子の店に案内してくれたお礼に、と、ノーアがヨアンに提示したのは、仕事の手空き時間に自分から文字を教わってみないか、という提案だった。当然、ヨアンは「とんでもない」と固辞したが、ノーアが今後学術交流のために花果の国内で多くの文献を読む必要があることと、文字を覚えたヨアンがその分類を手伝ってくれるようになってくれれば、結局はノーア自身の利益につながるのだ、ということを力説すると、最終的には折れて、その提案を受け入れた。

 渋々だぞ、渋々なんだ、という体裁をとっていたヨアンだが、東の宮に戻り、早速ノーアが教材用に、羊皮紙に簡単な母音表を書き出して渡してやると、彼はそれを至極大切そうに抱え、ぺこりと頭を下げたのち、部屋を辞していった。扉をくぐるときに垣間見えた彼の横顔が、林檎のように紅潮しているのを見て、あの懐かない小動物のようだったヨアンも変わったものだ、と、ノーアは少しくすぐったい思いになる。


「ノーアって、面倒見がいいね。子どもが好き?」

「いや……国に、弟が何人かいたからね。時どき、勉強を見てやったりしていたのを、ちょっと思い出したってだけだよ。大きくなっていれば、今頃、ヨアンくらいになっていたはずだから」

「……亡くなってしまったの?」

「貴方が、そんな顔をすることないのに。もう、昔の話ですよ」


 スヴェンが、あまりにくしゃりと哀し気に顔をゆがめるので、ノーアは、敢えて笑って取り成してみせる。しかし、スヴェンは引かなかった。


「いなくなってしまったひとのことは、いつまでだって悲しいよ。どれほど時間が経っても、誰も、誰かがいなくなってしまったことが平気になんてならない」

「…………」


 スヴェンがあまりにもはっきりと言い切るので、ノーアは思わず、口を噤んだ。押し黙ったノーアから視線を外し、スヴェンはバスケットを床に起いて、小箱から木炭を取り出す。彼が正面から向かい合うイーゼルには、大人の男が両腕を広げたくらいの幅の、真っ白いキャンバスが掛かっていた。

 スヴェンは、まるでその白を切り裂くように、ざっと思いきり、木炭で線を描く。天と地とを、二分化するような一本の線。スヴェンはその「地」に、木炭を握った手を滑らせはじめる。


「おれは、母さんが死んだことが悲しいんだ。今もずっと悲しい」

「……先代アルベルト国王の、王妃様? たしか、お名前は……」

「王妃じゃない。おれの母さんは、ハンナ・ノルマン。踊り子だった。おれ、庶子ってやつなんだよ」


 スヴェンは、あっけらかんとそう言った。ノーアは、瞠目する。

「地」にはいつの間にか、幌のついた荷車を引く、二頭の馬の絵が描き出されていた。荷馬車は隊列を組み、縦に連なり、地平線を進んでいく。これは、キャラバンの絵だ。


「母さんは、各国を周る、雑技キャラバンの踊り子だった。おれも子どもの頃は、母さんにくっついて、キャラバンであちこちを旅してたんだ。この王宮で暮らすようになったのは、母さんが死んで……爺ちゃん――先代国王に呼び寄せられたから。おれが、十五歳のときだね。だからおれ、あんまり、王弟だから王族だからって、大袈裟にされるのが、好きじゃないんだ。だって人生の半分以上はまだ、おれ、ただの放浪の民レセナールだったんだもの」

「……驚いた。俺にそんな大事なこと、話して大丈夫なの?」


 ノーアは、やや緊張しながら訊ねた。実際に、掌にじんわりと汗がにじむ。

 あまり、心を明け渡さないでほしい。大切なことは、守り通してほしいのだ。だって、ノーアのもとには、きっとまた幾日かしたら、あの白鳩がやって来る。

 背中を向けたままだけれど、スヴェンが、くすりと笑う気配がした。


「ノーアなら、大丈夫だよ」

「……俺は、『からっぽ』なんでしょう。あんまり預けられても、空洞の中を滑っていって、うっかりどこかに落としてしまうかもしれないよ」


 牽制の意を込めたノーアの言葉に、スヴェンが肩越しに、こちらを振り返る。彼は、笑っても、怒っても、悲しんでもいなかった。どこまでも空虚で、吸い込まれるような深い森の色スフェーンの瞳で見つめられ、ノーアは、こくんと唾を飲む。


「大丈夫だよ、きみならば」

「……どうしてそう言えるの」

「ノーアの目には、星が見えるから」


 スヴェンは、まっすぐにノーアを見つめる。


「きみの、その琥珀色の目の中に、星がある。言ったろう、とってもきれいだ。きみは、からっぽかもしれないけど、純粋でけがれがない。おれときみは、同じものを見ていても、同じじゃないんだ。きみの目を見ていると、本当にからっぽのおれでも、行き先を迷わないでいられるような気がする」

「行き先?」

「そう。放浪の民レセナールは、星を見て、向かう場所を決める。誰かに命じられるわけでもなく、何かに追われるわけでもない。おれは、母さんが死んで、あの馬車から降りると決めたとき、星を失くしてしまった。それからずっと、自分の本当の居場所がわからないまま、ここにいる。――――でも、おかげでノーアに会えた。きっときみが、おれの道しるべになってくれるって予感がする。わかるんだ」


 スヴェンは笑い、キャンバスの「天」に、一等星を描いた。木炭で描かれた線画には、当然なんの彩色も成されていないはずなのに、きらきらと輝き出して見えることに、ノーアは困惑した。スヴェンがいま、ノーアに話していることは、あまりにも抽象的で、主観が過ぎて、ノーアには正しく咀嚼そしゃくすることが難しい。

 けれど、ひとりぼっちになって、行き先を見失ったとき、よすがにしたものならば、ノーアにも覚えがあった。それがどれほど、孤独だった自分の心を奮い立たせ、「生きたい」と思わせてくれたものなのか。

 もうずっと、幼い頃の話だ。あの人に前。あの燃え燻った大地、灰と煤。それから、粉になった無数の骨の上に、たった一枚、焼け残った煉瓦の壁。あの壁。

 あの壁に描かれていたのは。


「………ッ」


 ずぐ、と、頭が痛み、ノーアは思わず小さく身をよじった。ぶわりと、額に汗がにじみ出す。まるで、眼球を抉りとろうとするかのようだ。鼓動に合わせて、痛みが頭の中を這いずり回って脈動する。ノーアは、堪らず床に膝をついた。


「ノーア?」


 気づかわしげに掛けられたスヴェンの声に、ノーアは、冷や汗を掻きながら、大丈夫、と、呟いた。

 大丈夫、俺は失敗なんてしない。失敗はできないのだ。やり遂げなければならない。失敗したら、帰ることができないからだ。あの鳩と一緒に。どこに。

 ――――もうとっくに、帰る場所なんてないというのに?


 わかりきっていたはずのことなのに、どうしてか、ノーアは改めて途方に暮れた。額を押さえ、俯いて痛みを堪えていると、その手に、こわごわと、骨ばったスヴェンの手が触れる。

 そのまま指先だけを、きゅ、と握られた。出会ったあの日のように、スヴェンの手には温度がない。あたたかくも、冷たくもない。ただ、皮膚の感触がする。きっとそれは、自分も同じだ。自分たちは、からっぽ同士なのだから。

 けれど、スヴェンに触れられたところから、爪先を伝わり、徐々に痛みがやわらいでいくような心地がして、ノーアは、はっと息を吸った。思わず、追いすがるように、スヴェンの指先を握り返す。その咄嗟の動きの中にありありと、道に迷った幼い子どもが、はぐれた親とようやく再会できたかのような切実さがにじみ出てしまって、ノーアはそんな自身の行為を恥じた。

 だが、スヴェンはそんなノーアを、決して笑わなかった。彼はイーゼルの前から立ち上がり、膝を畳んで、屈み込んでいるノーアの額に、己の額を寄せた。菫色の前髪と、ノーアの燃えるような赤髪が、くしゃりと混ざり合う。


「……きみが、おれの道しるべになってくれるように、」


 おれも、きみの道しるべになってあげられたらいいのにな。


 スヴェンの囁きは、まるで、敬虔な祈りのようだった。ノーアは、瞼を伏せる。

 ――――本当に、そうであったなら、と。

 失敗することのできないはずのノーアは、このとき確かに、そう願ってしまった。

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