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第3話-1 道しるべ

 時刻は、日の出前。こつこつ、と、窓ガラスを叩く硬質な音で、ノーアは目覚めた。

 パッと素早く瞼を開けば、窓の外に、くだんの白鳩が留まっている。脚には、文が括りつけられていた。


「……入りな」


 ノーアがゆっくりと窓を開くと、白鳩は室内へ滑り込み、くるりと旋回したのち、音もなく従順にノーアの腕に留まった。結ばれていた文をほどくと、『進捗報告』を乞う旨が、事務的に記載されている。ノーアは小さく、しかし沈鬱なため息を吐いた。

 きょろきょろとせわしなく、室内を眺める白鳩に、ノーアはあらかじめ下女から差し入れてもらっていた木の実をいくつか、窓べりに広げてやる。長旅で腹を空かせていたらしい白鳩は、すぐにそちらへ移動し、心なしかはしゃいだ様子でつつき始めた。その間に、ノーアはライティングビューローに向かい、羊皮紙と対峙する。


『……国王陛下が健康状態に不安有りとの前情報に、乖離かいりなし。外交政務を総括する第四王子を中心に、順調に意見交流を累積しつつある。王宮内のそのほか王子・王女とも既に全員と面会済み。次代王位継承権、並びに“奥秘おうひ”については――――』


 ノーアは、そこでペンを止める。暫く逡巡し、ペン先からインクの雫がこぼれ落ちそうになる寸前に、こう書き加えた。


『現時点での、追加情報はなし』


 ノーアは万年筆を置き、羊皮紙を丁寧にたたむと、木の実を平らげて満足げに羽繕いを始めた白鳩の脚に、ゆるく結び付けた。こてん、と頭をもたげ、まあるい瞳で純粋無垢にノーアを見上げる白鳩に、眉を下げ、ぎこちなく口許を綻ばせる。鏡があれば、きっと自分は今、さぞかし情けない顔をしているのだろう、と、ノーアは他人事のようにそう思った。


「お行き」


 ノーアが窓から白鳩を放つと、日の出前の薄暗がりの空を、鳩は颯爽と羽ばたいていった。鳩の向かう先から、山の稜線に沿って、ゆっくりと太陽の光が滲み始めている。大理石を積み上げて作られた白亜の王宮が、黎明に照らし出されて淡い桃色に染まっていく様を、ノーアは窓べりに腰掛け、わけもなく息をひそめながら、静かに眺め続けた。

 ノーアが花果の国に親善大使として着任してから、今日で十日が過ぎようとしていた。



 *****



 朝になり、ノーアはヨアンとともに、城下のバザールを訪れていた。ノーアが入国したあの日、リゴーヌリキュールを勧めた売り子の女性はノーアのことをしっかりと覚えていて、雑踏越しに、朗らかに手を振ってくれる。どこの出店も盛況で、楽し気に歓談する人々で賑わっていた。


「ヨアン、何を買うんだい?」

「画材。スヴェン様に頼まれてる。あの人、絵の具はもちろん、筆もパレットナイフも、しょっちゅう使いつぶすので」


 ヨアンは淡々と答え、バザールの裏通り、小さな画材店を指差す。眼鏡を掛けた初老の店主は、ヨアンの顔を見ると訳知り顔で頷いて、ヨアンの差し出した羊皮紙のリストを受け取り、店の奥へと引っ込んでいった。スヴェンの身分を鑑みれば、王宮御用達ごようたしの画材商が、直接御用聞きに訪れるほうがよほど一般的だろうが、スヴェンはそうした特別待遇を徹底的に嫌う人であるらしく、ヨアンが小間使いとして王宮勤めになるまでは、スヴェン自ら、この店まで足を運んでいたのだという。(店主は果たしてスヴェンの身の上を知っているのか、と尋ねると、ヨアンは「考えたくない」と、盛大にしかめっ面をした)

 スヴェンの「特別待遇嫌い」は筋金入りだそうで、本来であれば王宮の本宮、ないしは専用の邸宅を構えていておかしくない立場にもかかわらず、自ら最も人の出入りが少ない東の宮を住まいに選び、王族が総出で集まる食事会や行楽ごとにも、彼は断固として顔を出さないらしい。人嫌い、というわけではなく、「王家のひとり」として扱われることを、極端に敬遠しているのだという。

 自ら居室に選んだ東の宮でも、あの竜胆の花の群生するアトリエのほかに、小さな寝室をひとつ確保しているだけで、その部屋自体も、ノーアに貸し与えられている部屋面積の半分にも満たない。豪華な調度品の類も一切求めず、侍従たちに世話をされることも好まない彼が、唯一声高に主張するのは、「好きな時に好きなだけ絵を描き続けていたい」という、シンプルな要求だけだったそうだ。けれど、その言い分をそのまま鵜呑みにすると、ただただ絵を描くことに没頭して、寝食を忘れ、引っ繰り返ることもしばしば。このままでは、いつか目を離した隙に干乾びてひからびて死ぬのではないか、と憂慮したエルランド国王が、ベルンハルドを通じて「傍仕えの使用人をそばに置かなければ、無理やりにでも本宮に引き摺っていく」と窘めたたしなめたことで、いよいよ後に引けなくなったスヴェンが市街地から連れ帰ったのが、ヨアンだったのだという。


「オレとあの人がはじめて会ったのは、この店の前です。オレ、あの人の財布をとしたんです」


 画材店の主人が戻ってくるのを待ちながら、ヨアンは、ノーアにそんなふうに打ち明けた。ノーアがスヴェンに「からっぽ」と評されたあの日以来、入国初日こそ猫のようにノーアを警戒していたはずのヨアンは、少しずつ、ノーアとたわいない会話をすることを拒まぬようになった。

 ヨアンはノーアに似て疑り深く、腹の中の読めない相手の振る舞いを、簡単には信用しない少年だ。だから、いくらノーアが、かの日のスヴェンの発言について「気にしなくて構わない」と言い聞かせたところで、ヨアンの中の疑いが消えない限り、ヨアン本人は本当の意味で安心することができない。

 ヨアンは、懸念しているのだ。あの日の主君の突拍子のない発言が、本当のところはやっぱりこの客人の不興を買ってしまって、王宮に不利益をもたらすのではないか、と。だから、牙をおさめて、注意深くノーアとの距離をはかり、様子をうかがうことに努めている。


「オレ、孤児なんです。もともと、花果の国の出身でもなくて、トトリア山脈の向こうの……羊蹄の国から来ました。難民って扱いで入国させてもらってからは、下働きの仕事を斡旋してもらったけど……オレ、育ちも手癖も悪いから。手っ取り早く稼ぎたくて、スリをやってました。でも、お忍びで城下に来てたスヴェン様に見つかっちゃって」


 いかに牧歌的な国民性と言えど、窃盗罪をはたらいてなんの咎めも受けずに見逃されるほど、甘い国ではない。見咎められ、衛兵に突き出されることも覚悟したヨアンだったが、当のスヴェンは怒ることも窘めることもせず、それどころかすれ違いざまに自身の懐から財布を抜き取ったヨアンの手腕に大層感心し、「すごいなあ、すごいなあ」と、手放しに褒めちぎったのだそうだ。


「『ちょうど人を探してた』『どうせなら手先が器用なヤツがほしいから』って、そのまま、王宮に連れていかれました。最初は出入りの業者かなにかだとばかり思って、こんなに頭のおかしい王宮勤めもいるもんなんだな、なんて思ってたけど……まさかそいつがこの国の第一王位継承者だなんて、どんなトンチキだって、考え付くわけないでしょ」

「そりゃ、そうだな」


 ヨアンの言い分はもっともだ。ノーアは苦笑するしかない。懐が広い、と言えば耳ざわりがよいが、率直に言えば、スヴェンは危機管理がガバガバだ。ベルンハルドの話では、ヨアンを王宮に迎え入れることにはそれなりの反発があったとのことだが、その反応は、王宮に仕える者たちにとっては、至極当然のものといっていいだろう。しかし結局、普段は振り翳さない「序列」で押し切ったというのだから、スヴェンの野放図のほうずぶりには、まったく恐れいる。

 それでいて、彼は結果として食い詰めていた難民の孤児を救い、忠実な臣下として雇い入れることに成功しているのだ。ベルンハルドやエーミルの反応、謁見の間への出入りを許されているところから見ても、ヨアンはその出自を苦にせず、働きぶりで信頼を勝ち取るだけの人材だった、ということだ。スヴェンには天性で、人の真贋を見抜く、審美眼のようなものが備わっているのかもしれない。


(俺も、『からっぽ』だって見抜かれたしな)


 思い返し、ひとりで肩を竦めていると、店の主人が紙袋にいっぱいの画材を抱えて戻ってきた。主人に金貨を渡して、紙袋を抱えたヨアンだったが、あまりに荷物が多すぎて、とても満足に前が見える状態ではない。ノーアは主人に申し出て、袋を小分けにしてほしい、と提案した。小さなほうをヨアンに渡し、大きなほうをノーアが抱えると、ヨアンが目に見えて狼狽する。


「国賓に荷物持たせたら、オレのクビが飛ぶじゃん!」

「紳士的な俺が、持ちたくて持ちたくて、仕方がないからいいの。持たせてくれよ。弟にだって、こんな大荷物持たせたことないよ」


 しれっとそう言って歩き出したノーアに、ヨアンは頬を膨らませて、抗議の意を示しながらも、結局黙ってついてくる。こういうところが、スヴェンはもちろん、ベルンハルドやエーミルにも可愛がられる所以ゆえんだろうと思う。


「アンタまで、オレをガキ扱いして……」

「実際、子供じゃないか。いいんだよ、今しか味わえない特権だぜ。大人がどれだけ大金を積もうが買えないもんなんだ、今のうちに甘えておけって」

「……オレは学がないから、力仕事までお株を奪われたら、なんにも残らない」


 ヨアンは、不貞腐れたように、足もとの石ころを蹴りとばす。


「満足に文字も読めないし、算術もできない。スヴェン様は『そんなもんはいらない』って言うけど……こうやって使いに出されても、渡されたメモだって読めないんです。結局オレは、没頭すると寝食忘れるあの人をひっ叩いてスープを飲ませるとか、ベッドに放り込むとか……絵筆を洗ったり、木炭を準備したり、庭仕事をしたり。ずっと、その程度のことしかできないままだ」


 ヨアンの出身地だという羊蹄の国は、遊牧国家だ。羊たちを率いて、常に、天幕と共に山岳地帯を移動し続ける。必然的に教育設備が整いにくく、国民の識字率が向上しにくいのは、対外的にも有名な話だった。子どもであっても、立ち歩きを覚えて物心がついたと同時に、大人と並んで、生きるための仕事に従事せざるを得ない過酷な環境で、親を失ってひとりぼっちになったヨアン。スヴェンに拾われるまで、さぞ、心細い思いをしてきただろう。満足に教育を受けていないことを、彼は恥じているようだけれど、苦界に落ちたはずのヨアンが、これだけ流暢に大人と丁々発止を繰り広げられるのには、ひとえに彼に、「学ぶ」という素養があるからだ。

 ノーアは少し考えて、ヨアンにある提案をした。


「なあ、ヨアン。お前、バザールで焼き菓子の美味い店を知ってるか?」

「菓子? そりゃあ、あるにはありますけど……アンタが注文すりゃ、王宮の料理人がいくらだって作ってくれるはずですが」

「馬鹿だな、こういうのは買い食いするから美味いんじゃないか。いくつか、店を見繕ってくれないか。スヴェンやベルンたちへの土産にしたいんだ」


 ノーアがスヴェンの名前を出せば、いくらか訝し気いぶかしげにしていたものの、ヨアンは結局絆されて、「こっち」と西通りへつま先を向けた。案内してくれる気になったようだ。

 ――――スヴェン様はクッキーが好きで、ベルンハルド様は新商品が好き。エーミルさんは甘いものがあまり好きじゃないから、スパイスで炒ったナッツなんかのほうが喜ぶと思う。

 丁寧に説明を始めるヨアンに頷きながら、ノーアは自分よりもずっと背丈の低い、オリーブ色の髪の頭に、ぽん、と掌を乗せた。


「ありがとうな。素敵な店を教えてくれた礼に、俺に提案がある。のるかどうかは、お前が決めて構わないよ、ヨアン」

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