「あ! あのときの、きれいな目のひと」
東の宮、スヴェンの居室に入室するなり、寝台の上で退屈そうに上半身を起こしていたスヴェンが叫んだ。点滴は既に終わっていて、血色も昨晩よりだいぶ良くなっているようだ。
子どもが蝶を見つけ、母親に「見て見て」と指し示すかのように、無邪気に人差し指でノーアを真っ直ぐに指しにこにこ笑うスヴェンの頭を、無言で進み出たヨアンがひっぱたいた。ぱしん、と、小気味のいい音がする。
「あいた」
「人を指で差すなよ、ばか! 相手は外つ国の王子で、親善大使なんだぞ」
「そうなの? 教えてくれてありがとう、ヨアン」
ヨアンはいい子だなあ、と、ガウンを纏ったスヴェンの腕が伸びて、ヨアンのオリーブ色の髪を撫でる。ヨアンはわなわな震えながら、顔を真っ赤に染めると、いよいよ怒髪天を衝く勢いで、病床のスヴェンの胸元に殴りかかった。小間使いの少年に、襟ぐりを掴んでぼかぼか叩かれ、耳元で小言を叫ばれて揺さぶられているというのに、当のスヴェンはのんびりとほほ笑んで、されるがままになっている。
さしものノーアも、口許を引き攣らせた。
「なかなかの大人物だね……」
「ええ、本当に。ヨアンの血管が切れる前に、止めて差し上げたいものですが」
心底困った様子で言いながら、しかしエーミルは全く動こうとしない。先程のベルンハルドとの会話でも思ったことだが、素朴で人畜無害そうな容貌に反し、なかなか肝の据わった性格をしているようだ。
「おい、ヨアン。心配だったのはわかるけど、起きしなにそんなに揺さぶって、眩暈でも起こされたら大変だろ。スヴェン兄さん、アンタもちゃんとヨアンに礼を言えよ。アンタが懲りない人なのはわかってるけど、アンタが意識失くして引っ繰り返る度に、介抱してるのはヨアンなんだぜ」
ベルンハルドが、至極呆れた様子で口を挟む。指摘を受け、ヨアンはむっつりと唇を引き結んだままスヴェンから離れた。襟元をぐちゃぐちゃにはだけさせたスヴェンは、寝乱れた菫色の髪のまま、俯くヨアンをそっと下から覗き込む。
「ヨアン、ありがとうね。心配掛けてごめんね」
言葉だけを取れば、稚い子どものそれのようだが、拗ねた様子で俯いているヨアンを覗き込んで視線を合わせようとする仕草は、大人が頑是ない子どもに対して見せるものだ。
「べつに」
唇を尖らせたまま、低い声でそう呟いたヨアンは、すぐにさっと枕元から離れ、お茶の支度を始めた。その背中を微笑ましそうに眺めていたスヴェンは、しかし次の瞬間には、再びノーアに視線を移す。意識茫洋としていた昨晩とは違い、はっきりとした意志の宿る眼差しだ。深い、深い森の色の目で凝視されて、ノーアはひととき、呼吸を忘れた。こくり、と、咽喉が鳴る。
「……あの」
「あのとき、会った子だね。おれを見つけてくれてありがとう。おれはスヴェン。きみの名前は?」
「……こちらこそ、あの時は差し出がましい真似を致しました。無礼をお許し下さい。私の名は、ノーア・アンドレセン。城塞の国、第十二王子です。学術交流を兼ねて、国を代表して昨日貴国へ入国させて頂きました。暫くの間、東の宮に滞在させて頂きます。まだまだ生熟れの身でございますが、何卒、」
「うーん、よくわかんないけど、ノーアって呼んでいい?」
「えっ」
文脈を汲まないスヴェンの申し出に、ノーアはぎょっと瞠目した。
「相変わらず、距離の詰め方が狂ってるな、この人……」
肩越しに、ベルンハルドのぼやきが聴こえる。なんとも返事が出来ずに硬直しているノーアの様子を、意に介しているのかいないのか、スヴェンは寝台から身を乗り出し、「ねえねえ」とノーアを無邪気に手招いた。
「ねえねえ、ノーア。きみは、どうやっておれのことを見つけてくれたの?」
「は……あ、はい。昨晩、東の宮を散策させて頂いた折、回廊に、竜胆の花の絵を見つけたのです。その花弁を辿っていくうちに、貴方のアトリエに辿り着いていました。とても美しい絵だと感じたから……つい子供のように、あの花の行先が知りたくなってしまって」
「あの回廊に絵が?」
それは気が付きませんでした、と、エーミルが頬に手を当てる。ご存知でしたか、とエーミルに尋ねられたベルンハルドも、首を横に振る。お茶を淹れ終わり、トレイにティーセットを載せて枕元に戻ってきたヨアンも、同様に戸惑った表情を浮かべていた。
それはそうだろう。三人の反応は当たり前だ、とノーアは思った。あの、瞬きをすれば見過ごしてしまいかねない菫色の「しみ」が、誰かの手による人為的な意匠であると気が付くことができたのは、殆ど偶然の産物のようなものなのだから。
けれどノーアの回答に、スヴェンは、すう、と眦を細めてほほ笑んだ。まるで、ノーアがそう答えることを予測していたかのような、そしてその予測が的中したことを喜ぶかのような、ひどく満足げな表情だ。彼は「そう」と頷いて、そして穏やかにこう言った。
「じゃあきみは、からっぽだ」
ノーアは、硬直した。まるで、雷鳴を打たれたかのような衝撃を受ける。
凍り付いたノーアに、スヴェンは続けた。その声音は、まるで「今日の天気は晴れですね」とでも言わんばかりに、どうということもなく、当たり障りもなく、なんの角も棘もなく、丸みを帯びて、のんびりとしていた。
「だっておれは、あの花を描いたとき、からっぽだった。全部が面倒くさくて、どうでもよかった。からっぽの気持ちのまま、あの花を描いた。誰かに見てもらおうとも、誰かに見つけてもらおうとも、微塵も考えちゃいなかった。なのに、きみはその花を見つけた」
「…………」
「おれの絵は、おれが主だ。おれの意思だけに従う。でも、おれが心底どうでもよいと思って、誰に見初められることも、手折られることさえも放棄して筆をとった、あのからっぽの花を、きみだけは見つけた。挙句、その花を綺麗だと言って追い掛けて、おれのもとへやって来た。それは、おれの知る限り、おれ以外には起こり得なかったはずの奇跡だ」
スヴェンは、心から嬉しそうに、口許を綻ばせた。
「だからきみは、からっぽだ。おれと同じ。きみは、おれと同じものを見ている」
ガチャン、と、硬質なものが金属とぶつかる音がした。ヨアンが、ティーポットとカップの載ったトレイを、寝台のヘッドテーブルに置いたのだ。あまりに乱暴だったせいか、カップから紅茶がこぼれ出て、ソーサーとトレイを汚してしまっている。葡萄の香りが、否応もなくあたりを漂う。
「――――アンタ、いくら好き放題に生きてるからって、いい加減にしろよ。自分の立場ってもんを考えたことがねえのかよ」
「ヨアン、怒ってるの?」
「怒るに決まってるだろ。この人、親善大使なんだぞ。この人との関係性が、国を丸ごと動かすかもしれないんだぞ! もっと自分の立場をわきまえて、ちゃんと考えてからものを言えよ!」
「考えたよ。だから、本当のことを言ったんだもの」
スヴェンは、きょとんとしている。ヨアンが怒りのあまり、ぱくぱくと口を開閉させた。ベルンハルドも、エーミルも、硬直している。どれほど花果の国の国民性が牧歌的で能天気であろうと、流石に目の前の状況は、その範疇を超えたらしかった。
「――――ヨアン。いいんだよ」
ノーアはそう言った。ヨアンが、不安げにノーアを振り返る。そんな顔をする必要はないのにと、ノーアは可笑しくなった。寧ろ、スヴェンのすべての言葉を聴き終えたノーアの身体は、いま、ひどく軽やかなほどだった。
だってノーアは、からっぽなのだ。がらんどうで、すかすかで、重さがない。求められるままに、「ノーア・アンドレセン」という偶像を演じている。軽やかで、当たり前なのだ。なぜなら自分には。
(名前がない。もうずっと、俺は、俺が誰なのかわからないのだから)
先程まで、スヴェンを掴みどころのない存在としてとらえ、たじろいでいたのが嘘のように、いつしかノーアは、眼前のスヴェンに近づいてみたくて、堪らなくなっていた。ノーアは、自身が全く意識せぬまま、自然に笑っていたことに気が付く。たまらなく愉快で、晴れやかで清々しい気分だった。
「貴方は、すごい人ですね。今まで一度だって、そんな風に、俺の本質を言い当てられたことなんてなかった」
ノーアは肩を竦める。スヴェンの、深い森の色の瞳が、ノーアを見上げた。つるりとした美しい新緑色の目の中に、燃えるような赤い髪に琥珀色の目をした、「誰でもない」青年の姿が写り込んでいる。昨晩と同じように。
「貴方のことを、スヴェンとお呼びしても?」
そう切り出したノーアに、ベルンハルドとヨアンが、ひどく驚いたような顔をした。大使として礼節を重んじるノーアが、自らそのような提案をしたのが、にわかに信じがたかったのだろう。エーミルだけが、眦を細めて、注意深く様子を窺うように、ノーアを見ている。
「うん、勿論」
スヴェンが、無邪気にほほ笑む。差し出された彼の生身の手のひらを、ノーアは強く握った。ゆるく握り返してくる、スヴェンの手には温度がない。あたたかくも、冷たくもない。ただ、皮膚の感触がする。きっとそれは、自分も同じだ。
貴方と俺は、からっぽ同士のいきもの。
「これから、よろしくお願いします、スヴェン。願わくば、貴方のことをもっとよく知りたい」
「こちらこそよろしく、ノーア。おれは、ただのおれでしかないけど……でも、からっぽなりに、きれいなものを見つけるのは得意なんだ」
たとえば、きみの目のようにね。
スヴェンはそう言い、菫色の髪を揺らして、美しくほほ笑んだ。