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第1話-3 竜胆の花

 ヨアンに案内された東の宮は、ノーアが「城塞の国」で与えられている居室よりも数段広く、快適な設えであった。かの国でのノーアの寝台は、石床に羊毛で編んだ絨毯を一枚敷いただけの簡素なものだ。ノーア自身は、その待遇に特別疑問を持ったことはない。

 そもそもノーアは、石畳の上でも湿った土の上でも、休息しようと思えばすぐに寝入ることができるし、誰かの気配を感じれば、即座に眠りから醒めることができる。からすれば、横になって眠れるだけで、僥倖以外の何ものでもない。


「この東の宮の中でしたら、何処を散策していただいても構いません。用向きがあれば、こちらのベルを鳴らしていただければ、下女が参ります。食事は、一日三回。陛下たちとともに本宮の広間で召し上がっていただいても構いませんし、部屋に運び込ませることもできます。湯殿はいつ使っていただいても結構です。なにかご質問は?」

「そうだな。とりあえず、君の名前を訊きたいかな」


 抑揚なく、すらすらと居室の案内を済ませたヨアンに、ノーアは悪戯っぽく笑いかけてみせる。ヨアンは、ぐっと言葉に詰まり、苦虫を嚙み潰したような顔をした。懐かない小動物のような挙動が、どこか微笑ましい。

 同時に、ノーアはひどく安堵もした。今朝、花果の国の門扉をくぐってからこのかた、ノーアは誰かからの「警戒心」というものに遭遇した試しがない。衛兵もバザールの民たちも、エルランド国王もベルンハルドも、皆が皆牧歌的で、いっそ不安になるほどに親切な人々だ。これまでノーアが身を置いてきた環境と比較すれば、この地に足を踏み入れてからの時間は、「異様」としか表現しようがなく、率直に言えば、ノーアは困惑していた。花果の国のお国柄、と言ってしまえばそれまでなのだが、あけすけに接されれば接されるほど、どうしても心が粟立ち、落ち着かない思いになる。


 その点ヨアンは、謁見の間からこのかた、終始警戒心をあらわにして、ノーアと一定の距離を保ち続けている。ベルンハルドから命じられたから、と従順に尾を振るのではなく、自分なりにこの男を見定めてやろう、という注意深さを滲ませてこちらを見るヨアンは、ノーアからすれば「知った心地」がして、息がしやすい相手だった。


「……ヨアンです。王宮の小間使いをしています」

「それだけ?」

「ほかになにを説明しろと?」


 ヨアンが、心底面倒そうに眉を顰める。ノーアは笑い、意地悪して悪かったよ、と両手を上げて見せた。


「急に自分のことを説明しろって言われても、難しいよな。俺は、ノーア・アンドレセンだ。城塞の国の第十二王子で、歳は数えで二十四歳になる。ヨアンは?」

「……数えで十六歳です」

「そうか。俺の一番下の弟と同じ年だ。ベルンハルド様に仕えてからは、長いのか?」

「俺の主人は、ベルンさ……ベルンハルド様じゃないです。ただ俺は、東の宮で仕事することが多いから、あなたの御世話係に都合が良いと」


 つまりヨアンはベルンハルド付の従者というわけではなく、誰か別の貴人の御用聞きごようきき、ということだ。その彼が、「東の宮で仕事をすることが多い」と答えたということは、少なくともこれからノーアが滞在することになるこの東の宮には、使用人の雇用権を持つ程度の、貴人の居室があると考えられる。行動には、慎重を期すべきだろう。

 だが、ベルンハルドが越境してヨアンを使うということは、少なくともその人物は、第四王子たるベルンハルドより、地位は低いと見てとるべきだ。花果の国では、対外的に六人の王子・王女の存在が公表されている。順当に考えるならば、第五王女エーディトか、第六王子アルフレッドか。


(しかし、いくら序列があるとはいえ、王族が住まう宮のど真ん中に、腹の中が読めない外つ国の大使を放り込むとは)


 やはり花果の国には、全体的に警戒心というものが足りない。城塞の国なら、こうはいくまい。警戒に警戒を重ねる国柄だからこそ、この場に「ノーア」が送り込まれたのだ。

 そしてこうして実際に送り込まれた以上、ノーアは必ず成果を上げなければならない。


「話し相手になってくれてありがとう、ヨアン。それじゃあ、少し宮を散策させていただいてから、今日は休むとするよ。世話を掛けてしまうが、明日からもよろしく頼むな」

「……失礼いたします」


 ヨアンは、未だ深々と疑惑の残る目でノーアをひと睨みして、去って行った。あれを手懐けるには、骨がいりそうだ。ノーアは苦笑し、居室の外に出る。

 東の宮の敷地自体は、そこまで広いわけではない。小さな噴水のある中庭を囲むようにして、石の回廊があり、二階建ての建物に、居室は十部屋程度。宮全体がしんと静まりきっていて、およそ人の生活しているような気配は感じられない。立たせている衛兵も居らず、警備体制はまるでがらんどうだ。

 中庭に出てみると、芝生自体はしっかりと手入れされていて、ところどころに竜胆りんどうの花が咲いていた。人の手で植えられたものではなく、野花やかだろう。ひょっとしたら、ヨアンが整えているのかもしれない。王侯貴族が見栄えや彩りばかりを気にして、豪奢ごうしゃな花を所狭しと植え付けたような人工庭園よりも、この中庭はずっと素朴で貧相だが、よほど趣があると思えた。

 噴水の淵に腰掛けて、吹き抜けの空を仰ぎ見ると、既に陽は傾いて、夕暮れの向こう側に、漆黒の夜のとばりが降り始めようとしている。

 ああ、ノーアの花果の国での暮らしが、いよいよ始まったのだ。


 ノーアは、小さく指笛を吹いた。たちまち日没の空から、一羽の鳩が、ノーアの肩に舞い降りる。この白鳩は、ノーアの唯一の旅の相棒だった。純白の羽根は夕陽を背負い、血を浴びたように真っ赤に染まって見える。

 ノーアは鳩の脚に、ポケットから取り出した、白紙の短冊を結び付けた。白紙は、『計画通り』オールグリーンの印だ。ノーアが予定通り、花果の国に大使として着任した証左しょうさ


「いい子だ。お行き」


 いくつかの木の実を与えてやってから、鳩をまた空に放つ。鳩は、数拍、名残惜しそうにその場に留まっていたが、瞬きののちには、あっという間に見えなくなってしまった。


(――――いつ、あいつと一緒に帰れるのだろう)


 ノーアはそう考えて、自分でつい、笑ってしまった。帰る場所なんて、もともと、どこにもありはしない。あの白鳩の留まる場所が、ノーアの帰る場所で、出立する場所なのだ。それ以上でも以下でもない。分かり切っていた事だろう、何を今さら。


「……あれ?」


 さやぐ竜胆の花を、ぼんやりと、見るともなしに眺めているうちに、ふいにノーアは「それ」を見つけた。石の回廊、飾り気のない真っ白の柱の、ほんの一部分。

 なんの前触れもなく、菫色の絵の具がひとつ、小さく付着している。目を滑らせれば、ひとつ向こうの柱にも、その向こうの柱にも、すみれ色。

 装飾として施されているようには、到底思えない。それほどに無機質で、ぽつんとした「しみ」だった。そしてその「しみ」は、不思議なことに、転々と回廊の奥に向かって伸びている。


(単なる、落書き)


 その言葉で、いくらでも済ませることができるほどの、取るに足らない「しみ」だった。しかし、ノーアは不思議と、その菫色の正体が知りたくてたまらなくなり、思わず噴水から立ち上がる。

 回廊の柱から柱へ、菫色は、まるで風に流されるかのように「其処」にある。それはやがて、小さな花びらの形に変わり、連続して見てみれば、あたかも竜胆の花が風にあおられ、空を舞っているかのように、恣意的しいてきに誰かの手で描かれたものなのだ、とわかった。すなわち、人為的な意匠いしょうだ。

 しかし、こんなひと気のない宮の、わずか一角。瞬きすれば見失ってしまうほどのこんな仕掛け、一体、誰の目を楽しませるために施されたものだというのだろう。


 ノーアは、菫色の花弁を、導かれるまま辿っていく。

 絵の具は回廊を文字通りぐるりとまわり、階段を上がって2階、石の廊下、壁、柱のすみ、そして最後には、ノーアに与えられた客室の真裏にあたる、小さな木製の扉の前で、途絶えていた。扉の向こうには、人の気配はなく、なんの物音もしない。けれどその戸板にめられた小さな真鍮しんちゅうのプレートには、確かに、同じ筆致ひっちで竜胆の絵が描かれている。


 ノーアは、小さく息を吸って、長く吐き出し、やがてそっと、その扉のノブを握った。真鍮製のドアノブは、なんらの手ごたえなく捻られて、ぎいい、と音を立てながら、扉が開く。

 やがて現れた光景に、――――ノーアは、愕然と目を瞠った。


 そこに広がっていたのは、一面の、竜胆の花畑だった。正確には、竜胆の花の「絵」が、壁という壁一面に一斉に描きつけられて、どこまでも平らかに、悠然と広がっている。

 あまりにも写実的で生々しいそれらは、ノーアに、まるで先程中庭で眺めていた竜胆の花々が、そのまま地続きで室内に群生しているかのように錯覚させた。遠目に見れば、誰であれ、この景色が人の手によって描き出されたものだとは信じるまい。それほどまでにその光景は、立ち尽くすノーアのことを圧倒した。


「……えっ?」


 ノーアが、やがてその部屋の中央に、でろりとのびて倒れている人の姿を見つけたのは、幾ばくかの後だった。気が付いた瞬間に思わず悲鳴をあげかけて、たたらを踏んでしまう。

 倒れていたのは、竜胆の花と同じ、菫色の髪をした青年だった。年の頃は、ノーアとほとんど変わらないだろう。服には、いたるところにべったりと菫色の絵の具が付着していて、その指には同じ色で染まった絵筆が握られたまま。

 十中八九、彼がこの絵の仕掛け人に違いない。


「だ、大丈夫ですか」


 ぐったりと力尽きたように倒れ伏している青年を、よもや急病人ではないかと、ノーアは泡を食って揺すぶった。青年は、ううん、と唸ると、ゆっくりと瞼を持ち上げ、ノーアのことを見上げる。あらわれた瞳の色に、ノーアは、はっと息を呑んだ。


 深い、深い森の色。記憶のずっと、ずっと向こう側、いつか、この美しい新緑スフェーンを、自分は見たことがあるような気がする。


 ごくんと喉を鳴らしたノーアを見て、ぼんやりと幾度か瞬きを繰り返した青年の唇が、ゆるゆると綻んでいく。言葉を失っているノーアに、彼はしみわたるように穏やかな声で、こう呟いた。


「ああ、きれいな目だなあ」


 青年の、深い森の色をした瞳の中に、ぽかんと口をあけた、間抜けな男の姿が写り込んでいる。

 これは、一体誰だ。燃えるような赤い髪、琥珀色の目。ああ、俺か。俺って、こんな顔をしていたのか。

 決してそんなはずはないのに、今この瞬間、この青年の瞳に映りこむまで、ノーアは「ノーア・アンドレセン」としての自分自身の姿を、初めて自覚したような心地になった。


 硬直し、青年と見つめ合うばかりのノーアの耳に、今度は、地を這う竜のそれのような、恐ろしい獣の唸り声が響いた。


「……は?」


 頭の処理が追い付かず、捻り出せたのは、間の抜けた一音だけ。数拍の間ののち、唸り声はもう一度あたりに響きわたる。ぐう、ぎゅるるるるるる。

 落ち着いて聞いてみれば、それはなんのことはない、誰かの腹の虫の音だった。とてつもなく轟音で、とてつもなく切実さに満ちている。けれど、出どころは決してノーアではない。ノーアのものではないのなら、この空間でそれを鳴らすことができるのは、あとはもうたったひとりだけだ。


「腹、減った……」


 菫色の髪をした青年が、辞世の句のようにそう零して、がっくりと力尽きる。呆気なく、再び閉ざされた瞼。

 あんぐりと口を開けて、途方に暮れているノーアの背後から、「うわあ」と誰かの叫び声が聴こえた。振り返った先には、湯気の立つ食事の載ったトレイを持ったヨアンが、口許をひくつかせながら、立ち尽くしている。


「スヴェン! あんた、またやったのか!」


 いい加減にしろ、これで何度目なんだよ、と、ヨアンが金切り声をあげながら室内に踏み込み、青年を抱え起こす。呆気に取られたノーアの眼前、ヨアンの華奢な腕に抱かれた菫色の髪の青年は、むにゃむにゃと、幼い子どものように唇を動かし、すっかり夢の中。


 以上が、この花果の国における、ノーアとスヴェンの出会いの顛末である。

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