「はあ、はあ、そんな急いで移動することないんじゃない⁉」
「この程度についてこれないの? 意外に冒険者ってやわなんだね」
うぬぬとカルは拳に力を籠めるが、彼女の後ろを歩きながらふっと息を吐いて怒りを逃がす。
「君は口が減らないね」
「そりゃどうも」
「褒めてない」
ぽつぽつと響く水滴の音に、真横を流れるたゆたう汚水。生ぬるい風と響く足音が、背後についてくるような感覚があった。――水路といえばと、カルはふと過去を思い出す。
シャルロットと初めて出会ったあの水路。
同じように汚水が流れ、水滴の波紋が広がり、壁にかけられている魔石の照明。
丁度横切った壁にあるくぼみをみて、カルは立ち止まる。そのくぼみには木箱が二つ積み上げられ、石の壁には蔦が生い茂っていた。初めてみる場所の筈なのに、何故か昨日の事のように思い出せる気がした。
(確か僕はこういう場所でパンを齧ったな)
「何してんの?」
立ち止まっていると、クリスがそう振り返ってきいてくる。
「何でもないよ」
すぐカルは彼女の後ろに戻って、共に歩き出した。
「さっきの話だけど、なんでボクが水路に詳しいのかって奴」
と彼女は歩きながらも話し始めた。カルは朧気に自分の過去を思考の中で引きずりながらも、彼女の背中を見た。
「……うん」
「ボクは『五番区』の水路に住んでいるんだ」
「……住んでる?」
聞き返すと、彼女は「そう」と肯定して途中でその場で立ち止まる。視線の先には、荷物置き場のような開けた空間があった。クリスはそれを細目で見渡し、
「こういう場所で布を使って仕切りを作って、その一角にボク以外に数人が住んでる。全員の顔は知ってるけど名前は知らない。みんな無愛想で意地が悪い奴らだったから、仲良くはなりたくなかった。でもそいつらも境遇はボクと大体同じで、だから、嫌でもその場所で一緒に暮らすしかなかった」
「…………」
「基本みんな盗みを働いたり路地裏でいちゃもんつけたりして稼いでいた。ボクとナナはそんなあこぎなことしたくなかったからしてないけど、その分ボクらのほうが生活は厳しかったよ。でもボクはナナさえいてくれればよかった。ナナはボクの家族なんだ。血のつながった本当の親の顔なんてしらねえけど、ボクが守りたいのはあのナナなんだ」
「だから忍び込んでまで、その子を探したいんだね?」
訊くとクリスは振り返り、視線で肯定した。
「あんたみたいな冒険者には分からないかもしれないけど、ボクにとってこの水路は家だし、家族との思い出なんだ。……ただずっとボクは、家族と家で過ごしたいだけなんだよ」
「そっか。大事なんだね、その子が。僕はその、家族愛とかそういうのには疎いけど、守りたいくらい大切な場所はあるんだ」
「そうなのか?」
彼女は意外そうにきいてくる。
「……君、僕のイメージどういう感じなの?」
「冒険者あがりのぼんぼん?」
「ひっでえ~」
クリスが冗談めかしく言うと、カルはノリよく返した。そしてカルもその開けた空間――から外れた小さなくぼみに視線を写し、細目で見つめた。
「僕は記憶がないんだ」
「……え?」
「自分の名前を憶えていないし、その前に友達だった子の顔すらも覚えていない。いろいろあって、ずっと長いあいだ監禁されていた。でもある日、目を覚ますと水路で倒れてて、僕の目の前には少量のパンが置いてあった」
「――――」
「あの時僕は死のうと思った。水に飛び込んで死んじゃえば、もう苦しまなくて済むんじゃないかって考えたんだ。でも、ぐーってお腹が鳴った。そうならったらほら、目の前にあるパンを食べるしかないじゃない?」
僕は右手を胸に当てた。
「パンを食べて、また力を抜いて寝転がった。しばらくしてから、またお腹が鳴った。僕はその時になんて想ったと思う? 死にたい。じゃなくて、お腹空いただったんだ。だから今ここにいる。僕は助けられて、その人と冒険者をしている。まだ暗闇にいる夢をみるけど、でも夜は明けるんだ」
カルは話し終えると、はっとして振り返った。そこには茫然と立ち尽くすクリスが居た。
「ごめん、ちょっと浸っちゃったね。行こうか」
雰囲気を一変させ、すぐカルは歩き出す。その背後をクリスはゆっくりと着いていくが、その顔は今までのような生意気が顔ではなく……ひしひしと溢れる感情に押しつぶされ、言葉を失っているような顔だった。
*
水路を数分歩くと見えてきた暖色のランプ、その数歩手前の木箱の裏で屈んでいるクリスが背後にいるカルに話しかけた。
「あそこが孤児院と繋がってる扉だと思う」
扉は一見、異変も無い普通の扉だが、水路の水の音と照明魔石の揺れる音が、何かその扉に不思議なオーラを纏わせている。
「ダメもとだけど、あの先が孤児院のどこの部屋に繋がってるか分かる?」
「分かる訳ない」
「だよね。じゃあいきなり人がいる場所に出て、また逃げなきゃいけない可能性もあるわけか」
「でも対面しても一人なら、ボクに任せて。影からぐさっとやっちゃうから」
「……殺すの?」
「一息にね」
「いやダメだよ?」
黒目の中に光る薄い赤色の眼光が、クリスに釘をさす。クリスはぎくっとして「はいはい、冗談だから」と両手を振った。
「中に入っても出来るだけ戦闘はしない。それに今回はちゃんと、話が聞けそうなら聞くからね?」
カルがそう言うと、クリスは「はいはい」と視線を外す。
「じゃあ、ボクから行くよ」
クリスを先頭に後ろを着いていくカル。扉まで音を殺して近づき、そっと手にかけ、扉を開けた。
中には狭い空間に階段が詰まっていた。階段の先に小さな光が見えるだけで、外はまだ昼間だというのに、まるでここだけは深夜のようだった。二人は目配せしながら、暗闇の中で階段を登り始める。出来る限り音を出さないように進んで、数分間階段を上ると、ふと人気がした。
「人がいる」
クリスが呟く。
とりあえず階段上まで移動すると、その部屋には一人の巨漢が机上に照明を置き、書類をまとめているようだった。
「どうする?」
カルが静かに訊くと、クリスは目配せした。
(あっちの扉まで気づかれずに移動するよ)
(しょ、正気?)
二人の間には緊迫した空気が流れる。様子を伺い、照明魔石が揺れ影法師が残像を残す――その上をクリスが先陣を切り、ゆっくりと歩いた。出来るだけ身をかがめ、息を殺した。男の数センチ背後を、クリスは歩ききった。
クリスは扉に手をかけ、右手で手招きする。
「…………」
カルは静かに歩き始めた。静かに、音を出さないように、そっと。息を押し込め、緊張を和らげようと両目を瞑る。一歩、二歩、三歩、そして四歩目で、音が鳴ってしまった。
「――――」
床が軋んだ。カルが踏んだ場所が悪かったのだ。
照明魔石が揺れ、巨漢の呼吸が止む。カルはその場で動けなくなり四歩目に踏んだ箇所をじっと見つめる事しかできなかった。
(う、動けない……)
今動けば見つかるかもしれない。そんな不安がカルを煽る。巨漢の呼吸は止まったままで、書類を触る手も静止したままだ。もし男が何の気なしに振り返るだけで一巻の終わり。カルとクリスは見つかってしまう。
だというのに、足がすくんで、動けない。
「――――」
刹那、カルは手を掴まれ息を乱した。前を見るとそこにはクリスの顔があった。クリスは目で語り掛けた。
(大丈夫。こっちに来なさい)
(……)
カルは彼女の行動で、やっと一歩進んだ。そして二人で手を繋ぎながら扉まで到着し、巨漢に気づかれずに部屋の中に逃げ込むことが出来た。
「あ、危なかったわね……無事?」
彼女はそこで両手をついて息を整えるカルに訊くと、カルは咄嗟に胸を抑えて大きく息を吸った。
「……緊張した。こわかった」
脱力感からそう白状するカルを見て、クリスははにかんだ。
「見つからなくてよかったわね」とクリスはピンク髪を揺らして両手を組んだ。その顔はちょっと火照っていた。
「来てくれてありがとう。危なかったよ」
カルは起き上がりそう言うと、なおさらクリスの顔の赤みは濃くなった。
「……銅貨百枚ね」
「意外と高くないね?」
「……はあ、次があったらもっと請求してやるわ。それで、ここは?」
クリスの言葉にカルも見上げる。そこは――教会の中だった。
アーチ状の天井に木で作られた長椅子、真ん中を大理石の道が通り、先には台座と色とりどりのステンドグラスがはまってた。天窓から外の光が漏れ出し室内は明るい。だがあまりの静まり様に、二人はぞっとした悪寒を感じる。
「今度は人がいないね。子供も見当たらないし」
「そうだね。うーん。とりあえずもっと散策してみよう。必ずどこかに、子供たちが過ごすスペースがある筈だから」とクリスは呟き、大理石の道に一人で出て歩き始める。カルもそれに着いて行き、二人で大理石の大きな道を歩いた。
外から見るより手入れがされた大きな講堂を歩きながら、二人は冷えた地面を進む。
「変な感じね」
「うん」
「あれは?」
二人はゆっくりと大理石の道を歩く。そして――その道の先に何かがいた。
じっとクリスが目を細めてみると、大理石の上で小さな生物が影を伸ばす。――それはコウモリだった。
「え? なんでコウモリがこんな所に?」
クリスは止まり首を傾げる。と……。
「こんな時間に、またお客さんでしょうか」
囁き声が背後から聞こえた瞬間、つんとした冷気が背筋を這い上がる。
二人が振り返ると、黒いシスター服を纏った女が、紫紺の瞳を静かに光らせながら立っていた。彼女の肩には一匹のコウモリが羽を広げ、まるで二人を監視するように目を光らせている。
クリスは構えた。短剣を揃え、その女性に臨戦態勢をとる。カルはどうすればいいか分からずあたふたしていると、クリスは一喝した。
「カル! あの女が『不気味なシスター』だよ!」
そう言い放ったクリスに対し、女は口元を切り裂いたような笑みを浮かべ、紫紺の瞳に火を灯した瞬間。
コウモリが一斉に羽ばたき、静寂を破った。
「月光は御好きかしら」