囁くように呟いた言葉に、彼女は不機嫌になる。
カルの後姿を見届けたシャルロットは頭の後ろを搔きながら家に入ると、布団の中で上半身を起こしている白髪の人物が、その名前を呼んだ。
「……その名前はもう捨てたって言ったよね」
シャルロットにとってその名前は、もう捨てた過去だった。だが意志を込めてガーデルは言う。
「ええ、そうですね。でも儂にとってあなたは、いつまでも『王女』様だ」
「ふぅん」
言われても、案外適当に返すシャルロット。そんな彼女は家に入り、中からそっと扉を閉めた。閉じたのを確認したシャルロットは、――どこか悲しそうな瞳を、ガーデルへ向けた。
「……本当にやる気?」
問う。するとガーデルは少しの間を置いてから。
「はい」
それは、やけに重々しい「はい」だった。そして老人はシャルロットを見つめながら、
「ほんとうに大きくなられた」と低い声で言った。
「……」
「儂はね。ずっとあなたに仕えることができて、幸福でした。だからこそ儂は――俺は、あの時の『贖罪』をしなければならなかったんです」
言いながら老人は自分の体の向きを変えて、まるで訴えかけるような顔になり、言葉を紡いだ。そんな彼から必死に目を逸らそうとするシャルロット。だが、彼の悲哀満ちた視線は、シャルロットの甘さを貫くように鋭かった。
「俺は守れなかった。俺は助けられなかった。俺は止められなかった。あんな『惨劇』になることはなかったはずなんです。俺がもっと、しっかりとやれていれば」
「ねえガーデル。私はずっと気にしていないって伝えているわよね?」
「だとしても、これは譲れないんですよ。どれだけあなたが許そうとも、俺は、あの時の俺を許せないんです。――これは騎士としての誇りですよ」
「……そんなくだらない誇りを、私に押し付けないでくれない? 私はあなたを許した。あなたに死んでほしいとも思わない。なのにあなたは……」
思わず手に力が籠る。言い難い感情が喉元まで這い上がって来たのに、何も捻り出すことが出来なかった。老人は相変わらず優しい顔のまま、
「どのみち俺はもう長くありません。右足が義足になった時点で、俺は、人生を諦めていました。それに今や、老化も、病もあります。ほっといても死ぬんです。だから俺はあの時、死のうとした。それを止めたのは、シャルロット、あなただ」
短い言葉で確認するように、または詰めるように、言い聞かせるように、老人は澄んだ瞳を向けた。それにシャルロットは嫌な顔をした。
「なら、その止めてしまったツケを払ってください。あなたが責任をもって、俺を終わらせてください。俺が求める死に方は、あなたにしかできない」
更に憎悪に満ちる。老人は――彼はもう長くない。末期の病気を患い、足が不自由になった彼に希望を説くことは、シャルロットには出来なかった。シャルロットの敗北だった。負けたのだ。確かに何も言えなくなった。押し黙り、そして睨むことしかできなかった。彼の事を、そして彼の過去を。
彼はふと微笑んだ。
「シャルロット。最初の約束通り俺を殺してください。あなたを守れ切れず、そしてあなたに救われてしまった、この老兵を」
悲しい台詞だった。シャルロットはきゅっと胸が苦しくなり、両目を強く閉じて、歯を噛んだ。
でもその視線は待っている。どれだけ説得してもあの男は、死ぬ気だ。シャルロットはふっと全身の力を抜いた。そして思い出す。
――崩れ去る王城、混沌と化す王国と、かがり火と夜のグラデーション。
――人の叫び声が慟哭し、地面が揺れ、空から岩石が降り注ぐ。
――荒れ狂う風が落ち葉を彼方へ運び、一人の少女が、そっと微笑む。
――止められない悪夢。行進する、魔女。
――私が、人を、殺した。
「……あの時の責任は私にある」
ぽつりと零すように、シャルロットは言う。
「違います。御父上が……」
「違う」
すぐに老人は横槍を入れるが、それをシャルロットは、芯の入った一言で両断した。
そして彼女は、――静かに杖を取り出した。それを見て老人はゆっくりと布団に伏せ、天井を眺めた。室内にはカルが入れた秋の風が寂しく吹いていた。
「……さあ、俺の役目を終わらせてください」
シャルロットは老人に近づき、自身の杖を胸に押し当てた。シャルロットは、苦悶の表情を浮かべ、腕が震える。
「最後に質問よ」
絞り出したように、シャルロットは言う。
「はい、如何しましたか?」
その時にはもう彼の姿が老人ではなく、立派でかっこいい最初の友人、一緒におままごとをして、一緒に走って、かくれんぼして、彼が自分の頬に着いたチョコレートを拭ってくれた。
そんな些細な記憶が、秋風に運ばれていった。
「……あなたの人生は、どういうものだった?」
そう訊いた。すると、友人はすーっと息を吐いて。
「…………」
「…………」
「楽しいものでした」と、しわがれた声で囁いた。
「そう」
「………………………………」
「……お役目ご苦労様」
「――――」
「近衛騎士団、三番隊 隊長。ガーデル・エクラ」
杖の先端から、彼の魔力を吸い取る。
この世界で、一番痛みなく、死ぬ方法がある。
それは、他人に、魔力を全て、ゆっくりと穏やかに抜かれることだ。
落ち着いて、静かに、息をして、魔力を抜かれる。
そうすることによって――安らかに眠るように、死ぬことができるのだ。
「あなたのことは忘れない。……お疲れ様です、ガーデルさん」
シャルロットはまた一つ、大切だったものを、守り切れなかった。
全ての行為を終えて立ち上がる。全身に侘しく伝う魔力には、老兵が培い、そして損なった経験が流れている気がした。