秋の風が優しく吹き、連れてくる甘い花の匂いを嗅ぐ。
「窓を開けられたか?」としわがれた声でガーデルは訊いた。
「うん」
カルは背中越しに応える。
「天気は?」
「いい天気だよ、ガーデルさん」
瞳の中にある赤色がふんわり強くなったカルが、布団で横になって眠っている白髪の人物、ガーデルにそう言う。
ガーデルは喉を揺らしながらゆっくりと「ありがとう」と告げ、そうしてカルはガーデルが眠っている布団の前に椅子を出し、そこに座る。カルの後ろの机には、本が三冊置かれていた。その本たちはカルのお気に入りの本で、ガーデルにお勧めし読んでもらったものだった。
「もう夕方には発つだろう?」
カルは頷いた。
「うん。街の人たちに見つかる前に行かなきゃいけないからね」
カルの背後には、既に荷物がまとめられていた。
「そうか……悲しいな。せめて祝福されて向かってほしかったよ」
ガーデルはカルに向かってそう言うと、カルは「うーん、僕はそうでもないよ」と言う。
「今回の件は僕にも責任があるんだ。壊してしまった建物があるし、それで傷つけてしまった人もいると思う。だから仕方ないよ」
「……ふむ」
ガーデルは自分の髭を触りながらその言葉を受け取った。
「そういえば、司教はどうなった? シャルロットが騎士に聞きに行ったと言っておったが」
ここ最近シャルロットが街へ出かけ、騎士の人間たちと交渉をしていた。現在カシーアの騎士団は隣町からの派遣騎士のおかげで機能を取り戻しつつある。今回の一件の一部の責任は、騎士にもある。ギャングに入り込まれ、利用された。その結果、騎士もシャルロットを頼らざるを得なくなり、その選択が、司教の策略通りだった。
その影響で、カルらへの街からの当たりが強かったとしても、騎士団の人間だけはシャルロット一行に対し守護するスタンスを取っている。
なんせ、――カルが最後に司教に止めを刺したというのを、とある騎士が目撃していたからだ。
だからこそ、『司教の居所』について、シャルロットは騎士団に掛け合っていたのだ。
するとカルは浮かない顔を浮かべてから、口を開いた。
「僕が最後の一撃を食らわせた後、行方が分からなくなったみたい。あの人の聖装とよばれる術式によって死んではいないと思うけど」
「なるほどな。結局元凶は逃走か……」ガーデルは言いながら右手で握り拳を作る。
「うん」
肯定すると、その場にどんよりとした悲しい雰囲気が流れた。
「あっ」とそれを察知して、カルはすぐ自分が出来る笑顔を作って、
「大丈夫だよ。司教を倒すのが僕らの目的じゃない」
「……だが。のう」
「どうしたの?」
ガーデルは何かを心配している様だった。
彼は考え込むような表情を見せ、そして口を開く。
「今後あいつらが、またお前たちの前に現れるかもしれんだろ。それは何だか、いい嫌がらせだな」
「あー……。そうだね。きっと今後も邪魔してくると思うよ」
「……大丈夫なのか?」
「まだ分かんない」
カルは不安そうに呟き、そして自分の右手の平を見つめた。
「確かに僕は、最後の最後に『赫病』での攻撃で奴らを退かせた。でもあれは、あそこまで暴走が続いたことと、僕に少しだけ意識があったから出来たことで、本当ならあの場面、僕に意識がないはずなんだ。……多分、聖都に居るときの『人為的な暴走状態』が長かったせいだと思う。だから暴走中でも、何んとか意識を取り戻すことが、できたんだと思う」
カルが最後に行った広範囲の攻撃、それは本来できない規模の攻撃だった。赫病の侵食値を多少操作できるものの、あの規模、そして百越えの数値の力なんて操れない。
そこまで言うと、ガーデルは「では」、と言葉を添えてから、
「決め手となった攻撃をもう一度再現することは?」
「……できないと思う」
……そう。あの攻撃はもう二度と使う事は出来ない。確かにあの時カルは暴走状態でも意識を獲得し、その凄まじい力を扱えた。だが本来『赫病』というものは暴走した場合、制御ができないものなのだ。その制御が出来たというのはカルが言った通り奇跡である。カルの経験と、意識が介在する余地が存在したことで起った、奇跡である。
「……でもねガーデルさん。僕は大丈夫だよ」
途端にそう切り出して、ガーデルは驚いたような顔を見せた。
「僕はね、決めたんだ」
「……決めた?」
「うん。……――僕は戦えるようになる。そして、司教に追われても自力で逃げ出せるくらい、成長するんだ」
「――――」
それを聞いたガーデルは目を見開いた。
「……ほ、本当か? 大丈夫なのか? 力が怖くないのか」
カルの心変わりはガーデルにとって驚くべきことだった。カルの心に課せられたトラウマ――赫病という深い傷。それを背負いながら生きるというのは、簡単な事じゃない。自身は他者から避けられ続けるし、制御が効かない力は時に身を滅ぼしてしまう。
それほどの強大かつ危険な力は、年端も行かぬ少年には、重すぎる。そう考えていた。
カルははっきりとした意思を宿した瞳を、ガーデルに向けた。
「力は怖い。暴走はいつだって嫌だ。でもね。今回僕は、初めて自分の為に力を使った。ずっと僕の人生は自分の病を制御できなくて、苦しい事ばっかりだった。でも……シャルロットと出会って旅を始めて、僕は段々と気が付いていたんだと思う」
「……」
そんな事を堂々という少年の顔には曇りなんてなかった。はっきりと口を動かし、両目を開き、そっと口角を上げて、少年はいきなり、ガーデルを見つめて、
その視線にガーデルは心臓を掴まれたかのような感覚に駆られた。
「ねえガーデルさん。――人は変われるよ」
「……そうか」
カルはもう、一人前に、成長していた。
そんな彼をみてガーデルはにわかに静止し……次の瞬間、溢れんばかりの涙を、目から流した。
「え?」
すぐガーデルは涙を抑えるように腕で顔を隠す。
「あ、ぁあ。悪い。うれしくてな。おまえが、じぶんを、ゆるすときがきて」
「……どういうこと?」
「ふふ、ふふふ。そうかぁ」
カルは戸惑った。それは、――ガーデルは嬉しそうに泣いてはいなかったからだ。悲しいというか、苦しいと言うか、胸のあたりをぎゅっと抑えて、顔を歪ませていた。カルには理解ができないものが、この老人に、あるようだった。
ガーデルは少しの間泣くと、ふっと顔を上げて、
……カルの頭に大きな大人の手を乗せた。
「立派になった。お前はもう、大丈夫」
「うん」
その言葉に、カルは小さく頷いた。心に暖かなものが芽生え、それを噛みしめながらカルはそっと両目を閉じた。
「……ふむ。そろそろ時間のようだ、カル」
「……うん」
「行っておいで。待ち合わせをしているんだろう?」
「そうだね……今日までお世話になりました」
カルは立ち上がり、玄関へ歩いて行った。
ガーデルとはお別れである。ここ数日面倒を見てもらったのもあるし、彼からは、シャルロットからでは貰えない優しさを、貰った気がした。
「カル」
ドアを開けたところで、背後からそう呼び止められた。カルはゆっくり振り返ると、そこには布団から顔を出し、秋風を全身に受けて微笑んでいる。彼がいた。
「君に、輝かしき魔術の旅を」
「――――」
それは彼にお勧めした三冊のうちの一冊の、最後の一文の台詞だった。
「うん。赫かしき魔術の旅よ」
カルはその言葉を受け取り、泣きそうになる自分の感情を封じ込めて、そっと優しい笑顔を、ガーデルに浮かべたのだった。
*
街から外れ、森の入口に立つシャルロットは、ワイン工場の息子であるナタと別れの挨拶を済ませると、ナタは足早に道から林に入っていった。そんな事を歩み寄りながら眺めていたカルは、そこから二十歩ほど歩いたところで、シャルロットと目が合う。
「お別れは終わったの?」
とは、カルの言葉だ。
言いながら、彼はシャルロットの横に立った。
「うん。一応お世話になった人たちにはそれぞれ挨拶をしてきたよ」
とシャルロットは疲労感を醸し出しながら言った。
「シャルロットは、ガーデルさんとは話さなくてよかったの?」
「……うん」
「そっか。ラディーナさんはどうだった?」
「まだ意識はないけど、安静にしていれば大丈夫だって」
「……なら、よかったのかな。でも、本当なら僕は、あの人に謝らなきゃいけないのに」
カルは下を向きながらいうと、シャルロットはその言葉を肯定した。
「そうだね。私たちのせいであの人には怪我をしてしまった。なら、ごめんなさいの一つ言うべきだ。でもそう悠長なことはできない。街の人たちの不安が爆発するのが先か、ラディーナさんの意識が戻るのが先かで考えたら、私達は、この街を発つしかない」
シャルロットを言い終えると、空を見上げた。
「カシーアにはまたいつか、帰ってこよう」
「……うん」
……いつか、この旅の結末を迎えるとき、二人はこの街に戻ってくる。
旅はいずれ終わる。永遠なことは人生にない。それでも、二人には旅をする理由があった。人と触れ合い、自然を渡り歩き、空を眺め、そして、――生きる。
旅は、未熟な二人にとっての、人生である。
「さあ行こう、カル」
「行こう、シャルロット」
二人は旅を続ける。
それは、そっと優しく、眩しいほど美しい、いや、輝かしい。
旅である。
*
「……ちなみにシャルロット。さっきからローブの中に何を隠しているの?」
ふと言及すると、あからさまにシャルロットは動揺した。
「ぇ? な、ナンノコトカナ」
「白々しいな」
ローブの中に入っていたワインは、次の村で売ったそうです。