黒髪ボブカットに真紅の瞳の人物が、宿を歩いていた。
灰色のローブを着て、張り付けたような笑みを絶やさない彼女は、宿に入ると一直線に受付へ歩いていき、あの女性店員と目が合った。
「一〇二のシャルロットよ、部屋の鍵を貰っても?」
彼女は自らをシャルロットと名乗り、店員に話しかけた。店員は「ああ」と呟いて。
「一〇二のシャルロット様ですね。お帰りなさいませ。合言葉を」
「獣に心あらず、あるのは本能のみ」
「…………」
シャルロットは一言一句漏らさずに合言葉を告げた。その言葉に、店員は少し固まる。でもすぐ動き出し、店員はシャルロットに言われた『一〇二』の鍵ではなく、『一〇一』と書かれた鍵を取り出した。
「あ~シャルロットさん。朝方に水道の故障で一〇一に移りましたよね? ごめんなさい、気を遣わせてしまって。でも大丈夫ですよ。私、顔は覚えているので」
店員はそう言いながら、『一〇一』の鍵を手渡した。どうやら店員の女性は、気を遣って『一〇二』の名前を言われたと勘違いしたようだった。シャルロットを名乗る人物はそれを聞いて瞬時に『おかしい』と感じたが、店員の言葉を否定できるだけの情報がなかった彼女は、また張り付けたような下手な笑みを作って。
「ありがと」
『一〇一』の鍵を受け取った。
*
部屋の変更は前情報には無い事だった。
だが水道の故障により部屋の移動。確かにエピソードに現実味がある。なので、容易に嘘と断定するのは、多少強引だとシャルロットは思う。
そうやって自分なりの納得をしながら廊下を進み、一〇一の部屋の前に立った。そしてシャルロットは、鍵穴に受け取ったものを刺しドアを開けた。
「……」
中に人気はなかった。でも確かに一見、荷物のような物が机の上に置かれていて生活感はまばらにある。だが違和感はあった。情報では室内に、『彼』がいる筈では? と。
彼女は警戒しながらも部屋に一歩足を入れ、全身が部屋に入った瞬間、
ドアの裏に刻まれていた魔法陣が光り出した。
「――っ!」
振り返るがもう手遅れだった。
術式が作動しドアは強引に閉まる。彼女が周りを見回すと部屋の壁にはほとんど見えないが、細かい結界が張られていた。
「……はは」
どうやらこの部屋は、入って来た人物を閉じ込めるような仕掛けが施されていたようだった。
彼女は思わず腹から乾いた笑い声を出す。
「ふふ、あはは。なるほどなるほど、流石は魔女、不用心なフリして案外用心深いじゃないですか。グッドだ」
そう嗤いながら、彼女の声は徐々に男の声に変化していき。
彼女の体が光り出すと、徐々に光の粒が身体から剥がれ、――その光の中からは白一色に金色のボタンがついた衣服を着た強面な男性が現れた。
そして彼は、右手の一冊の本を開き、
「『魔女の結界』ですか。解析に時間がかかりますが、いい機会だ。魔女の術式を弄れるなんて、私は幸せ者ですね」
彼はそう呟きながら、部屋の壁に触れた。――そしてにわかに宿が揺れ出す。
「――っ!」
結界を解除させようとする影響で宿が揺れている中、廊下を走り『一〇二』のドアを開けた人物がいた。その人物は、あの偽シャルロットに鍵を渡した女性店員だった。
部屋の中には読書をしていたカルが椅子に座っていた。
女性店員とカルの目が合い、そして店員は冷や汗を流しながら、
「いま隣の部屋にシャルロットさんの身分を偽った人がいます!」
「え?」
カルは宿の揺れに気が付いていたが、隣の部屋に人が入ったことを感知していないようだった。
焦った表情の女性店員は、カルを見て、次に縋るように言葉を紡いだ。
「カルさん。今すぐ使い魔を呼んでください。シャルロットさんに、『襲撃』を知らせなきゃ……!」
右手を広げカルに向けながら言う。そんな女性の焦りをみて、やっとカルも事の重大さを理解した。朝から感じていた違和感、胸騒ぎの正体の答え合わせを済ませてから。カルは徐々に真っ青な顔に変化して、
「……分かりました」
小さく頷いた。
*
宿を抜け出した二人は人が行き交う道路へ出る。宿は騒ぎになっていて、他のお客が中から走って逃げていた。宿の揺れが長く続いている影響で、不安が人々に伝播していたのだ。
「カ、カルさん! どこへ逃げます?」
外へ出たはいいものの、その先の行動で詰まった。問いかけらているカルは来訪者の正体のせいで真っ青になり、息を整えることがまるで出来ていなかった。
「シャルロットさんへの連絡は?」
そう訊いて肩を揺らすと、カルははっとして、
「しました。でも、あっちの状況によってはすぐに来れないかも……」
女性店員はそう呟いたカルを見て目を見開く。
「……なるほど。とにかく、宿から離れましょう」
女性店員も気が付いていた。カルの手が震えていることも、目が泳いでいることも。
女性店員は別にシャルロットからカルの世話をお願いされていた訳ではない。なんなら、今回のシャルロットが向かったギャングの件も、騎士が外に常駐していたこともしらない。ただ一つ、彼女はシャルロットからお願いされていた。
『もし合言葉を一度も間違わない私が現れたら、隣の部屋の鍵を渡してほしい』
シャルロットは宿に来た時から、『一〇二』と『一〇一』の部屋を借りていた。
女性店員は最初、シャルロットのお願いの意味を理解できなかった。だが、自分の年上の女性が十代の男の子と旅をしているというのは、深く考えなくとも訳アリだ。だからあくまで最初はシャルロットの訳の分からない用心に付き合う事にした。
その用心が今、こうして意味を成した。
「……そういえば……朝から騎士が、このあたりに居たはず」
「騎士?」
女性店員が考えていると、カルがぼそっとそう呟いた。
言われてから必死に周りを見回す。逃げ惑う人や、同じ位置から立ち尽くして宿の様子をみている人ばかりいて、鎧を着た騎士は見当たらなかった。
「み、見当たりませんね」
「……っ」
「とにかく逃げましょう。ここから離れるんです」
「ぁ……」
カルが小さな「ぁ」を口から零す。それにぞっとした何かを覚えた店員は、恐る恐るとカルが見ている建物へ視線を向けると。
「えっ?」
『一〇一』の部屋の壁が分解されていた。
「……どっ。どういうこと?」
壁が割れ、剥がれ、細かく分離し、その残骸が空中に浮かんでいた。身の毛のよだつ光景と思うと共に、どこか神々しい景色に開いた口が塞がらなった。あんな魔術は見た事がない。そして、あんな景色を見た事がなかった。ゆっくり分解された壁、そして浮く残骸、――次の瞬間、そんな部屋の中から真っ白い光が垣間見え、室内から姿を現したのは、
強面の男だった。
「やっと、解析できました」
彼の姿が現れた瞬間、空気が一変した。冷たい風が流れ込むように、周囲に重苦しい沈黙が広がる。
黒い髪に細い瞳、白を基調とした上着のしたに灰色のシャツが見え、所々に施された鉄のアクセサリーと清潔感が強い衣装に厳粛な印象を振りまく。彼は女性店員の方向を見ながら呟き、左手を腰後ろに添え、右手で開いていた本を勢いよく閉じた。
女性店員は怯えた。男の神々しい雰囲気と、得体の知れなさのギャップに気持ち悪くなる。そうして無意識に彼女はカルの手を握って、
路地裏に駆け込んだ。
「……っ、逃げるよ!」
カルは無気力な腕を引っ張られながら一緒に路地裏に逃げ込んだ。
女性店員にとってカルの事は知らないし、事情もまるで分からない。だが、シャルロットがあの男の襲撃を警戒し、自分を頼ったのを覚えている。だから走った。少年を守るために。
確かに女性店員はシャルロットと繋がりはない。でも彼女は知っている。
カルとシャルロットの仲の良さと、姉弟のような微笑ましさを。
だが、カルはまるで魂が抜けたかのように、思考停止していた。何故なら彼は知っていた。宿の壁を分解して現れた服装を、過去に見たことがあったのだ。
その白を基調とした服に金色のボタンが付いた服は、
――聖都ラディクラムの『司教』のものだ。