「ふむ」
男は唸る。そして、目の前の椅子に腰かけた落ち着きがない少年に視線を合わす。そのとたん、少年は怯えるように肩を揺らした。そんな様子を物珍しそうに見つめながら男は口を開く、
「それで、君が……」
語り出したかと思ったらいきなり口籠った。すぐに布団の中で腕を蠢せ、枕元にあった紙切れを手繰り寄せる。
「君が。……シャ、シャルロットの旅仲間かい?」
「……は、はい」
「そうかい。随分可愛らしい子供じゃないか。きっとシャルロットも可愛がっているんだろうね」
そう言われてカルは氷のように固まってしまった。「緊張しているね」とガーデルは少年のぎこちなさに気づいていた。そして「ふむ」と白い髭を触りながら考え込むと、思い出したかのようにはっとして、「そこの棚の中を開けてみなさい」と優しく指示した。
「え?」とカルはきょとんとした。ガーデルははにかんだ笑みを浮かべて口を開く、
「いいから。キッチンの足元の棚だ。あと、流しの方には冷蔵庫もある。そっちも覗いてきなさい。それで、中にある気になる物は、全て持ち出しても構わない」
「……ど、どういうことです?」
「いいから、ね?」
突然の要求にしっかり戸惑うカルだったが、固唾を呑み込んで椅子から立ち上がる、キッチンの足元にある棚まで進んで、取手を掴み両手で開いた。
「さあ、どれがいい?」
その棚の中には、『沢山のクッキー』と『果物』が入っていた。
「……これは?」
「好きなのを持って食べなさい。冷凍庫にいくと、飲み物も冷やしてあるさ」
カルはそう言われ、困った。……どうやらガーデルは子供が好むものをよく知っているようで、カルくらいの小さな子がお菓子に目がないことなど、とうに熟知しているようだった。カルは戸惑いつつも己の欲求に勝てずクッキー三枚を手に取り、椅子に戻る。
「食べていいの?」
「もちろん。子供の為に焼いているんだ」
「子供?」
「うちの前は花畑だろう。だからよく子供がやってくるんだ。彼らに、お菓子をたまに渡すんだよ」
「……そう」
気の抜けた返事に気の抜けた顔をしたカルは、恐る恐るとクッキーを齧る。すると甘味が口に広がり、にわかに口角が上がった。
……なんてことを自覚すると、恥ずかしくなり顔が熱くなる。
「気に入ってくれたようだね」
「……んっ!」
ガーデルが呟くと、カルはまた赤面した。
「恥ずかしがることはないさ」
「でも、恥ずかしい。……っ」
……流れで正直に言い滑ってしまい、カルは更に赤面した。もう赫かった。
その様子を見てガーデルは目を細め、面白いものを見たと言いたげに微笑みを浮かべる。
「正直だね。きっとシャルロットには、正直じゃないんだろうが」
「っ、うるさい、です」
「はっはっは」
見透かされたように言われると更に気恥ずかしくなって、カルは耳は赤くした。
ガーデルは知っていた。こういう子供は本来、とても可愛いものだ。でもシャルロットの性格は、この子の素を引き出すには向いていない。(だからまずは、子供らしいことをしてあげるべきなのだ)と。
カルは喉を二度鳴らし、
「それで、ガーデルさんはどうして僕を? 依頼なら、大抵の場合シャルロットの方が役立ちますけども」
本題を切り出してみるも、老人はどこか思考を別の所に向けているような顔色となり、ふむとまた唸ってからカルをじっくりと眺めた。
「……ぱっと見君が、赫病であるとは分からないね」
「――なッ!」
まさかの言葉に驚愕する。病の事を言い当てられ、ぐっと息を飲んだ。
(……どうしてガーデルさんは知っているんだ? まだこの人に僕は『右腕』を見せてないのに……。まさか聖都? 聖都の関係者?)
それは初めての体験だった。ひた隠しにしていることを言い当てられる感覚は慣れるものではない。現に無意識に心拍数が増え、数多の不安が押し寄せてきて、ぞっと猛吹雪の中に囚われたような感覚がカルに舞いかかる。
それを見たガーデルは、すぐに次の言葉を添えた。
「勘違いさせてしまったなら謝ろう。まず、安心したまえ。儂は君の敵じゃない。『聖都』とは全くの無関係だ」
わざわざ『聖都』という言葉を用いてきた老人に、カルは訝しんだ「……なら、どうして知っているんです?」と恐る恐る問うと、
「シャルロットから聞いた」
老人の言葉に、カルは固まった。
「儂はシャルロットとは昔からの間柄でね。きっと彼女は儂を信頼しているのだろう。もちろん儂も彼女には、多少常軌を逸した情をもっている。ごめんね。騙すつもりはなかったんだ」
「ど、どういうことです……?」
言葉の意味が分からず困惑しながら訊くと、眼前の老人は「そうか」と息を呑んでから、
「依頼者は儂じゃない。シャルロットのほうだよ」
「え?」
……やけにあっさりというもので、カルは愕然とした気持ちの落差を覚える。だがすぐ脳内には疑問が溢れ、零すように言う。
「シャルロットが?」
確かに、はなから不審だとは思っていた。
(……今まで、僕が依頼を任せられることはまずなかった。だって、僕は赫病だ。
何かあった時、近くにシャルロットがいなければ、僕じゃなく周りに危険が及ぶ。
なのにどうしてシャルロットは、いきなり血相変えて僕に依頼を任せたのだろうかと、不思議に思っていた。
シャルロットが一番僕の赫病に気を遣い、そして過保護にしてきたはずだ。
いや、もちろん別に依頼を任せられて嫌な気分って訳じゃない。
だって僕は、ずっとシャルロットのお世話になること……迷惑をかけ続けることを、あまりいいと思っていなかった。だって僕は、……赫病だから)
「なぜ……?」
魂が抜けたような言葉が口から滑る。
ガーデルはとくに顔色を変えない。しかし、その疑問に応えようと、シワだらけの目を細めて、また微笑みを浮かべしわがれた声で続けた。
「簡単な話だよ。君の『友人役』を頼まれてね」
――白髭の老人がそう言うと共に、生ぬるい風が窓から部屋へと侵入し、カルの髪を揺らす。
「…………」
(友人を頼まれるとはどういうことだろう。
ユウジン? 友達ってこと?
確かに僕に友達はいなかった。
でもそれは赫病のせいで……あ、もしかして、赫病が安定してきたから?
シャルロットは僕の赫病が安定したタイミングで、僕の為に友達を作ろうとしてくれている?)
……。そのとき人生で初めて、見え透いた気遣いを察知したときの言い難い恥ずかしさを、カルは身をもって体感した。そして部屋に侵入した風に運ばれるように、少年の右手に老人の老いた両手が触れる。彼の両手はじんわりと暖かく、そしてざらざらとしていた。
「今は赫病が安定しているようだね。これはいい傾向だ。たしか聞いたところによると、『侵食値』を調整ができるんだろう?」
右手――赫病の症状が出ている右手を彼は朧気に見つめながら、語り始める。
「……そうですね。でも、時間がかかりますし、何より勇気が必要です」
そう答えると、ガーデルは伏目になり「そうか」と呟いてから。
「八カ月まで、まだ『聖都』に居たんだろう? あの場所でどういう扱いを受けたのか、想像できる。辛かったね」
「…………」
しんみりとした声で労いの言葉をかけられ、カルはその言霊に心の臓を激しく震わせ、静寂の中に涙をこぼしそうな気持に駆られた。同時に、もう八カ月もシャルロットと旅をしていることに想わず感慨を覚える。
「君は、どうなりたい?」
そんな中、ガーデルはぽつり訊いた。
その問いに少年は、口をつぐんで言いよどむ。
「……分からない」
「そうか。それもいいだろう」
「いいの?」
ガーデルはカルから視線を外し、彼の前の壁を朧気に見つめ始め、そしてゆっくりとしたテンポで落ち着く声色を駆使した。
「誰かに、『何かになってほしい』と言われることがあるかもしれない。もしかするとシャルロット自身が、君に『ある種の希望』を、見ているのかもしれない。だがそれはただのエゴだ。気にする必要はない。まあ最も、シャルロット自身もそれを分かっている筈だから、無理強いはしないだろうが」
言われて、ふとカルは思い出す。確かにこうあってほしいというエゴは何度か聞いたことがあるが、別に押し付けるような物言いで言われたことはない、気がする。
それに、彼女なりの不器用を感じた。
「そうですね、一度も無理に言われたことはないです」
「そうだろうね」ガーデルは分かったように言う。
「どうして分かるのですか?」
「まあ、身に覚えがあるというだけさ。シャルロットの昔とそっくりだ」
「……そうなんです?」
「ああ」
ガーデルは深く頷いた。
「案ずることはないさ。いつか君にも自分の中で『こうなりたい』が出来るだろう。それが人生において、とても大事な、支柱になるんだ」
「――――」
「ここで少し、現実的なことを話しておこう。これはきっと君にとって、耳が痛い話だろうが、必ずやってくる未来の話でもある。最初はうるさいとでも思っておけばいい。ただ心の端っこにでも、この現実を張り付けておくと、その時に役立つ」
妙な言い方にカルは不思議な疑問と不安を覚える。しかしカルはそれに対し、強い拒否感を表に出す事はない。そうする理由がなかったからだ。
「……はい」
カルは多少怖気づきながらもそう引き目で言うと、やけにハキハキとした言い草で老人は語り始めた。それは恐らく、人生の先輩の大きすぎる、余計なお世話だった。
「いいか、カル。君はいつか一人になる。シャルロットは優しいが、あいつもまだ途中だ。いずれお前らは別れ、或いは隔離される時がやってくるだろう。なんせ物事に、永遠はないからだ」
「――――」
「生き方を決めろとはいわない。だが、生き方を決められる土台に立つ必要がある。そのためには努力をしなければならない」
「――――」
「だがゆめゆめ忘れるな。『繋がり』は大切だ。人は他人と繋がらなければ、いつか狂う。繋がりを大切にし、そして『繋がりの喪失』も、一つの結果であると思いなさい」
ガーデルは優しくいうが、どこかしらに厳しさがあるように思えた。難しい事をいうので全てを理解したとはいえないものの、ふんわりとガーデルの言う『孤独』は、カルにとっての『恐怖』だと察することができた。
――暗闇に幽閉され、魔術をかけられ暴走を促され、身体の内側から激しい『赫怒』が溢れ出る当時の感覚。今が孤独であると、それらの情景が簡単に蘇る。そういう点でカルは、シャルロットに救われていた。彼女のふざけている部分が、底なしの自信が、明るさが、たまらなく彼の救いになっていた。赫病の安定化も彼女の功績が大きい。
今や赫病は、落ち着きつつある。
だからカルはそろそろ考えなければならないのだ。
「自立はいずれ必ずくる」とガーデルは最後に締めくくった。
「……まだ、現実味がないです。でも、そうですよね。いつかは一人に」
カルはガーデルの話を聞いて考える。
突然のことでまだ呑み込めないし、理解できないこともあった。だが少なくとも、自立はいずれやってくるや、一人になるというのは、自分の中の嫌な未来としてはっきりと理解はある。故にカルはそれに対して、ぐっと息を殺してしまうくらいの息苦しさを覚えた。そんな表情の歪みをみたガーデルは小さく息を吐いた。
「こうは言ったがね。まだ考え込む必要はない。いずれくるだろう障壁を話したまでだ。急くこともない。それらはただ、流れていればやってくる川石なのだよ。今意識するべきは、川の流れを止められないようにすることだ」
「う、うぅん。ちょっと例えが分からないです……」
「要するに『死ぬな』ということだ」
ばっさりと要約したもので、カルはきょとんとして目の前の老人をみた。
「なるほど……?」
「……まあ、生きていれば何かある。その何かを、『結果』と思えということだ。喋りすぎたな。すまない」
「いえ、こちらこそごめんなさい。まだ分からない事だらけで」
ガーデルはとたんに喉を鳴らし、「喋りすぎた」と無理やりその話を終わらせた。