大学二年生になると教授ごとに変わる授業のやり方にも随分慣れてくる。この教授は出席さえしていれば単位は比較的貰いやすいとか、逆にやたらと大量のレポートを提出させるだとか、高校の頃と違い授業の仕方も様々である。
翔太が文学部を選んだのに特別な理由があったわけではない。ひとまず大学は行っておいた方が良いだろう、どう考えても文系だからとりあえず自分のレベルで行ける一番高い偏差値の文学部にしておくか、程度の気持ちだった。将来何になりたい、という具体的なヴィジョンはまだ見えておらず、漠然とこのまま平穏無事に学生生活を終えていくのだろうと思っている。
この日の授業は午後の一コマを終えれば予定が入っていなかったため、翔太は『さくら堂』のアルバイトを入れていた。『さくら堂』は午前十時から午後六時までの営業時間となっており、不定休の店だ。昨今のアンティークブームで若い客もそこそこ来店しており翔太が接客することも少なくないが、基本的に桜庭は学業を優先して良いと言ってくれているので授業の無い時間にふらりと寄って働くという緩い契約でアルバイトをしている。
店の最寄り駅で電車を降り、駅前の商店街を抜けて一か月ですっかり通い慣れた路地の奥へと入ってゆく。ふわりと漂って来るのは近くのカフェのコーヒーの香りだ。桜庭はそこで焙煎されている豆がお気に入りらしく、翔太も時々飲ませてもらっている。
巨大な招き猫と狸が並んだ店先まで来た時、翔太は思わず首を傾げた。店内に明かりは灯っておらず、店のドアは施錠されていて入ることが出来ないのだ。今日はアルバイトに入ると昨日の帰り際に桜庭に告げていて、その時には今日は休業するとは一言も言っていなかった。
「急な仕事かな……いや、あの人のことだから日頃の不摂生が祟って体調を崩したとか」
翔太がアルバイトとして雇われた際に急に出張が入ることがあるという説明はされていたが、何の連絡も無く店が閉まっているのはこの一か月で一度も無い。むしろちゃんとした食事を摂っているのか甚だ疑問な一回り年上の男のことだ、体調不良で寝込んでいる可能性の方が高い気がする。
翔太は事前に教えられていた桜庭の番号に電話をかけてみることにする。スマートフォンから登録されている番号を呼び出して通話ボタンをタップすれば、少しの時間を置いて桜庭が応答した。
『あ、月岡君か。どうしたの?』
「どうしたのじゃありませんよ、店閉まってるんですけど。今日バイトに行くって言いましたよね俺」
桜庭の声は電子変換されたものとはいえ体調が悪そうには聞こえなかった。少し安心する。だがどうやら彼は外出中らしく、がやがやとした街の喧騒が小さく聞こえていた。
『ああ、そうか……そうだったね。悪いけど、今日は休みにしておいてくれないかな』
「え、でも今日は四時に
萬田というのは近所に住む『さくら堂』常連の好々爺だ。都内に持ちビルをいくつも所有しているらしく、本人曰く有り余った金で遊んで暮らしているらしい。時折店を訪れ、桜庭に欲しい品を探してくれるよう頼んでいるのだ。翔太も何度かそのやり取りを見ていて、若者と接する機会が無いから嬉しいと言いながら菓子を貰ったりすることがある。
『あ、そうだった。萬田さんに連絡して日をずらして貰うか……いや、でも明日から奥様と旅行って言ってたっけ。うーん……悪いけど月岡君、僕の代わりに話を聞いておいてくれないかな』
「いやいや無茶言わないでくださいよ。俺は骨董の知識なんて何にも無いんですから……あの、何かあったんですか?」
先ほどから桜庭の言葉の歯切れが悪い。普段からゆるゆるふわふわとした人だが、素人の翔太から見ても相当に骨董の知識が豊富な教養人であると言える。このように要領を得ない話し方をする人ではないのだ。
桜庭は少し黙ってから大きなため息をついた。
『実は……昨日の夜からコバンが帰って来て無くて』
「……コバン?」
『そう、猫のコバン』
桜庭が言うには、こういうことであった。
『さくら堂』は一階が店舗で二階が住居というつくりになっている。白猫のコバンは昨日翔太がアルバイトをしている時間に一度外から帰ってきてご飯を食べた後にまた出かけていったが、そのまま今朝になっても帰って来なかったというのだ。桜庭曰く、しょっちゅうふらりと外へ出かけていく猫だが朝まで帰って来ないのは初めてらしい。
「もしかして朝から探し回ってるんですか?!」
『あー……うん、まあ、そんなとこ』
「……わかりました、じゃあ俺がコバン捜索を引き継ぎますから、桜庭さんは一度戻って店を開けて、萬田さんが来るのを待っててください」
『え、でも』
「でも、じゃないです。俺には萬田さんの相手は出来ないですけど、猫探しなら出来ます。あと、どうせ朝から何も食べて無いんだろうからちゃんと食ってください」
朝になってもコバンが帰って来ていないことに気づいた桜庭は、きっと朝食も昼食も抜いているに違いない。読書や作業をしているときはいつもそうなのだ。
『だって』
「子どもみたいなこと言わない。萬田さんを困らせるわけにいかないでしょう?」
ぐ、と言葉に詰まったのが電話越しにもわかる。彼の飼い猫なのだから当然なのだろうが、桜庭がここまで白猫のコバンに情緒を乱されるのが意外だった。
『わかった……月岡君の言う通りだ。僕は一度店に戻って、仕事を終えたら合流しよう』
「そうしましょう。案外コバンも帰って来てるかもしれませんしね」
そうだね、と桜庭の声が力なく笑った気がした。