とある街の路地裏に骨董屋『さくら堂』があることを知ったのは、
元来友人たちと賑やかに休日を過ごすよりも居心地の良い静かなカフェでじっくりと読書に浸る方が好きなタイプで、入り浸れそうなカフェや趣味の良い店を探していた。
最寄りからひとつ隣の駅で降りたのは気まぐれだった。大学一年生の頃は大学と家、アルバイト先のコンビニの三か所を拠点に行動範囲の狭かった翔太だが、二年生になり少し大学生の生活に慣れてきた頃合いで冒険してみたくなったのかもしれない。駅前の商店街を歩き、少し奥まった路地に入ると所謂隠れ家風のカフェであったり小さな雑貨屋が軒を連ねていた。その一角に『さくら堂』は鎮座していたのだった。
古びた木造二階建て。一階が店舗で二階は住居なのだろうと想像できた。軒先には薄汚れた大きな招き猫と間抜けな顔をした狸の置物。入り口を挟んでオリエンタルな趣のある良くわからない陶器の人形がある。木製の引き戸が玄関で、その上部に控えめな木製の看板があり『さくら堂』と筆文字が書かれていた。正直な話、あまりにも入りにくい店である。
窓ガラス越しに店内を覗いてみれば、薄暗い中古そうな調度品や壺などが所狭しと並んでいるのがわかった。そこでようやく骨董を扱う店のようだと合点がいった。
これは一見さんお断りタイプの店かもしれない。そう思い踵を返そうとした翔太の足元でリィンと小さな鈴の音が聞こえた。足元を見れば、白い猫が翔太の脚に頭を押し当ててすりすりと体をこすり付けている。猫が体を揺らすたび、白い体に良く映える赤い首輪についた小さな鈴がリィンと鳴った。
「なんだ、お前。この店の猫か?」
身を屈めた翔太は自分の脚に体を擦り付ける白い猫の頭をそっと撫でる。猫は「ナー」と独特な声で鳴き、翔太を見上げてから『さくら堂』の玄関先を見た。翔太もつられてそちらを見る。
店の玄関ドアには半紙に癖のある筆文字でアルバイト募集と書かれていた。
そんな出会いがあり、翔太がこの『さくら堂』でアルバイトを始めてから一か月が過ぎようとしていた。
木製の引き戸である店の玄関ドアを入ると一番に目に入るのは古く大きな柱時計だった。揺れる振り子がガラス越しに見え、文字盤周りは蝶や鳥の細かい意匠が施されており美しい。七色に輝くように見えるそれらの意匠は螺鈿細工で出来ているのだという。
その周りには大小様々な古めかしい棚やランプ、壺に皿、壁には掛け軸や絵画など東西で分けられることなく雑多に並べられている印象があった。とにかく物が多いのだ。
自前のエプロンをつけた翔太は陶磁器の壺をひとつ持ち上げて中を覗き込み、思い切り眉間にしわを寄せた。
「
翔太の不機嫌な声が向かった先は、カウンターテーブルで文庫本を開き優雅にコーヒーカップを口に運んでいる和服姿の男だった。
骨董品店『さくら堂』の店主である
「あーその壺そんなところにあったんだねえ。最近ずっと見ないなーと思ってたんだよ」
「ちょっと……盗難とかに遭ってもわからないんじゃないですか」
「わからないかもねえ」
商売をやる気があるのだろうか。正直繁盛しているとは言い難いこの店の経営がどういう状況にあるのか、一介のアルバイトでしかない翔太には知る由もないがアルバイトを雇うくらいの余裕はあるのだと信じたい。先月分の給料は無事振り込まれていたので翔太にしてみればそれさえ滞らなければ良いのだが。
「まったく、少しは働いてくださいよ」
「ひどいことを言うなあ月岡君は。僕だってね、ちゃんと働いてるんだよ。君の知らないところでね。それに掃除片付けは君の仕事だろう?」
相変わらずののんびりとした口調で失礼なアルバイトの小言を受けながす桜庭は翔太から見れば店のカウンターで本を読んだりコーヒーを飲んだり、時折訪れる客相手に世間話をしているようにしか見えない。ただ彼の言う通り、翔太はこの店に掃除と片付けのアルバイトとして雇われているのでそれを翔太の仕事と言われてしまえば何も言えなかった。翔太が雇われる前はどうしていたのか甚だ疑問ではあるが。
桜庭は再び文庫本に目を落とし読書の続きに戻ってしまった。翔太は仕方なく陶磁器の壺を逆さにして柄が長く伸びるハンディワイパーを無遠慮に突っ込み内部の埃を取ってゆく。この店に置かれている物には値札がついておらず、店の調度品なのか商品であるのか判別がつきにくいのだが、壺の下にはいかにも古めかしい木箱が置かれているのでこの箱に入れて売る商品なのだろう。どれほどの価値のある物なのかわからないため最初は恐々と掃除していたのだが、桜庭は翔太が何に触れようがどう扱おうが全く口を出して来ないので今ではあまり気にしないようになっていた。
ちらり、と今一度文庫本に目を落とす桜庭を横目に見る。身長は翔太より高いので一八〇センチくらいはありそうな長身で比較的やせ型に見える。翔太が知る限り彼は常に着物を着て店に出ており、その着物は無地のものから凝った柄物までずいぶんとたくさんの種類を着こなしているようだった。あまり外に出ないのだろう、少し不健康そうにも見える白い肌にウェーブがかった亜麻色の髪が目に少しかかっており、初対面の時に驚いてしまったほどにまつ毛の長い男だった。俳優にでもなれそうな恵まれた容姿と言えるだろう。この顔で今年三十二だというのだからますます不思議な男だ。
伏せられた長いまつ毛がふんわりと温かく発光するランプに照らされている。まるで絵画か映画のワンシーンのようだなと翔太は思った。
その伏せられた瞼が不意に持ち上がり、暗緑色に見える瞳がぱちりと翔太を捉える。
「月岡君、僕の美貌に見惚れてないでお仕事お仕事」
「ッ……見惚れてません」
自分の顔の良さを理解している男はたちが悪い。図星を指された翔太は誤魔化すために咳ばらいをしながら手にしたハンディワイパーで棚の上の埃に意識を無理やり移動させる。すると、リィンと小さな鈴の音が聞こえた。
「あ、おかえり」
とっとっとっと足音を立てながら店の奥からやってきたのは白い体に赤い首輪の猫だ。初めて出会ったひと月前より一回りも大きく育った気がするが、翔太がついついこの猫を可愛がって餌を色々と持ってきてしまうからかもしれない。
「コバン、お前また太った?」
コバンとはこの猫の名前だ。コバンは飼い主である桜庭の失礼な言葉を完全に無視して一直線に翔太の足元へやってくると、ごつんと脚に頭を押し付けてから金色の瞳で見上げてナーと鳴いた。
「そんな酷い事言うから、嫌われますよ」
「どうせ僕は懐かれて無いからね。月岡君はなんでそんなに懐かれてるの?」
それは俺も知りたい、と翔太は思った。