時はS.D.R.一二七〇年。
産業革命を迎えたゲネシス王国。その中央都市ウーヌスは、町全体が薄くスモッグに覆われている。しかしその薄暗さと裏腹にフロックコートの男性やドレスに身を包んだ女性などから、景気の良さゆえの華々しさを感じさせた。
そんなウーヌスにあるひときわ目を引くチーズような白い立方体の
アルカ。
『ペルケトゥムの方舟』と呼ばれる天才的な頭脳を持つ彼女は、その身体の半分が金属で出来ている。いや、機械に成り代わっている。その身体は人々の尽力によってすでに四百年の時を生き、しかし劣化に伴って臓器それぞれが役目を果たし終えつつもあった。
両腕と右脚は事故による酷い損傷の影響で切断されており、四肢の内三つも機械金属にお世話となっている。
人造ろ過機で透析を行い、その血をまた人造ポンプで送り出す。それがアルカの奇妙な身体の内情だった。
なによりも彼女がまるで伝説のように語られるのには、決定的な理由があった。
誰一人として。
作り物の腕に嵌め込まれた歯車を工具で締める。カチカチ、と金属は引っかかるような音を立てて、それは正しい動きを取り戻す。金属の小さなふたを閉じると、少女は両腕を前に突き出して手を握ったり開いたりした。
「うん。上出来だ」
街並みではまず見ない時代錯誤なショートボブのブロンド、宝石を嵌め込んだような互い違いの色の瞳、それから陶器のような肌を持った、誰もが口をそろえて美人と褒めるだろう少女は、満足そうに笑みを浮かべて頷く。成長不良らしい低身長を加味しても彼女は齢十二ほどに見えた。
そして見た目に似つかわしくない古めかしい口調と、その物々しい金属の義肢は、見る人をぎょっとさせるだろう。
隣でそんな彼女のアシストをするのは栗毛のような茶髪にとび色の目をした好青年だ。研究者にしては身なりがいいのは彼の出自による。ツイードのスリーピースーツやシャツの袖の刺繍など、見る人が見れば一級品だと分かるものだった。しばらく贅沢はしていないので、この服は実家を飛び出してきた日に着ていたものだが。
「悪い、エドワード。後ろのリボンを結んでくれるかな」
エドワード、と呼ばれた好青年は文句も言わずに彼女の背中にある白いリボンの装飾に手を伸ばす。
場所は列車内。石炭を燃やすことで車輪を動かす蒸気機関車の中だ。蒸気が吹き出す音は絶え間なく聞こえていた。
乗客はアルカと、エドワードと、それくらいだった。田舎のソウウルプスに向かう乗客は数少ない。
アルカは窓側の席で、かつ人がいないのをいいことに、ボリュームのあるオリーブ色のドレスを右脚の付け根まで捲り上げる。もちろん、エドワードにはドロワーズまで見えていたが、エドワードは顔を染めることなく、静かに螺子締を手渡す。
助手ではなく、弟子と謳っているエドワードは普段からアルカの身の回りの世話まで担っていた。これらは日課であり、二人には当たり前のことだった。
アルカはスカートを降ろすとため息をついた。
「やはりこの類の服は動きづらくてかなわないな」
「でもとてもお似合いですよ、アルカ様」
「どうも。でもボクには似合っているかどうかなんて、どうでもいい話なんだ」
おっと、とアルカは声を出す。
手に握られたチェーン付きの懐中時計の短針は、ローマ数字の十を差しかけている。
「もうそろそろ着く頃だ、エドワード。降りる準備をしよう」
「はい」
アルカはドレスとお揃いのボンネットを被ると、顎の下で紐を縛った。相変わらず蝶々結びは苦手のようで、エドワードが手を貸す。最後にシルクの白手袋をはめて、これでアルカは完璧な少女になる。
外は暗い。真っ暗以上の闇は、今この列車がどこを走っているのか、本当に走っているのかすらよくわからない。エドワードは目を凝らすが何も見えない。事前調査でソウウルプスは盆地だと聞いていた。つまり、トンネルの中を走っているということだろう。
列車はスピードを落としながら駅へと入って行った。レンガ造りの駅構内は無数のガス灯でぼんやり照らされている。大きな施設のわりに、やはり行き交う人は少なかった。
アルカは顔にかかった髪を払うと、エドワードの手を支えに列車から降りる。
生物学から、化学、工学、言語学、歴史学。どれも悪くない分野だが、アルカにとって一番とは言えない。神話学者、それがアルカの正式な職業名。
アルカはふと口角を上げて、空に向かって目を細めた。
「パゴタ傘はしばらくお預けだ」
実験による事故で色素を失ったアルカの左目が赤く光るのを、エドワードはしっかりと見た。
さて、アルカの本来の目的はこの太陽の街、ソウウルプスに再び太陽を返すことではない。アルカは神話学者である。それはついでに解決できればいい、というちょっとしたボランティア程度の目標だ。
ソウウルプスではS.D.R.──つまりウーヌスで一般的とされる央暦を採用していなかった。それは信仰する宗教が異なるからだ。ソウウルプスは山に囲まれた盆地で、鉄道が開通するまで閉鎖的な場所だった。それゆえウーヌスからあまり離れているわけでもなかったが、ソウウルプスは独自の教えにより、伝承や神話を作り上げていたらしい。
暗い道、サイコロ状の敷石で敷き詰められた石畳がガス灯で照らされている。立ち並ぶ家々には人の生活を感じるが、朝十時というわりに人の活動による熱が伝わってこない。
エドワードは目の前の少し盛り上がった段差に、アルカを呼び止めた。
「気を付けてください」
「ああ、ありがとう」
アルカは住宅街に差し掛かったところで歩みを止めると、足をすり寄せた。太陽がしばらく顔を見せていないせいで、秋初めにも関わらず酷く寒い。機械の手脚は問題なさそうだが、生身の方が冷えてきているようだった。
「随分閑散としてしまっている。この閉塞感はよくなさそうだな」
「ソウウルプスって、前はそれほどにぎわっていた町なんですか?」
「ボクが以前訪れたのは百年も前のことだが、ここは田舎のわりに明るい街だった。列車もなかった時代だから、観光地にはなり得なかったが」
寂しさを宿らせた目でアルカは街並みを眺める。華やかだったかつてを思い出しているようだ。
「手っ取り早く、聞き込みから始めましょうか」
アルカの調子を上げるべくエドワードは話題逸らしに、ひと際灯りの強い一軒を指さす。
「そうだな」
アルカは一軒のパネルドアのノッカーに手をかけた。そして数回、扉を叩く。
訪問に家から女性が顔を出した。
「はい、どちらさま」
彼女の視線はエドワードを捉えている。
「どうも。少しお話いいかな」
下から聞こえてきた少女の声に、女性は怪訝な顔をして目線を下げた。手袋に包まれた手を振るアルカを認めて彼女は後ずさる。
「……どちらさま?」
「こんにちは。ボクはウーヌスから来た神話学者……ああ、神話学者っていうのはあらゆる神話について分析したりまとめたりする研究者の類というわけだが」
つらつらと早口なアルカの説明に女性は混乱しているようだった。
アルカはエドワードのコートの袖を引く。アルカは見た目のせいで、話を上手く取り合ってもらえないことが多い。エドワードが一歩前に出て、割って入った。
「私たちはここにこの明けない夜について調べに来たんです。それでどうかご協力いただけないかと」
「そうなのね。けれど、わたしは大した情報を持っていないわよ? 関係あるかどうか……分からないけれど、強いて言うなら今年の春は不作だったことくらいね」
「何が不作だったのですか?」
「春小麦もそうだし、トウモロコシとか野菜もね。今年は冬が長かった上に夏もあまり気温が上がらなくって、その上にあの湿気。ずっと霧がかかったみたいな湿度のせいで、ただでさえ収穫量が少なかったっていうのに作物が軒並み腐っちゃったのよ」
エドワードはそれは大変だ、と他人事のように聞く。
今年は豊作だとタイムズにもあったはずだ。ソウウルプスだけは例外だったらしい。
「ではソウウルプスに伝わる民話や伝承など、ご存じではありませんか?」
「そういうことが知りたいならあそこはどうかしら」
女性は少し悩むそぶりを見せてから、丘の上の大きな箱型の建物を指す。窓がないせいか、異様な物体が闇の中に鎮座しているように見える。
「あれは?」
「ソウウルプスで一番の養蚕工場です。あそこのお嬢さんはそういうものに詳しいと聞いたことがあるわ。ウーヌス大学にも二年ほど通っていたらしいし」
「ウーヌス大学の卒業生がここにもいるのか!」
アルカは興奮した様子で詰め寄る。吐く息は白かったが、高ぶりで寒さは忘れているようだった。
「卒業生ではなく、中退らしいですけれども。お爺さんがいろいろなさっていたようで、彼女は一人孫ですが血を継いで聡明だと」
「なぜ彼女は中退したんだ?」
「これも聞いた話ですわ。あまり大きい声では言えないのだけど」
どうやらご両親が亡くなって、急遽あの養蚕工場を継ぐことになったのだとか。
「おや、つまり彼女は養蚕工場の経営者をやっているわけだ」
「いいえ。今の経営者は彼女の叔父ですわ。ウーゴ・セルバンテスはウーヌス有数の資産家なのでしょう?」
良くある話だ。
エドワードはふと遠い親戚の話を思い出す。
事故などで急に親を亡くした時、大学に在学することが困難になることは多い。金銭的に余裕があれど、大抵は次の当主となり家を支える必要がでてくるのだ。特に女性となれば、そもそも大学に通うのは贅沢だと非難する人も少なくないだろう。大きな養蚕工場の娘ということは、おそらくあの丘の上一帯の地主の娘に違いない。面子も気にして、大学を諦め田舎のソウウルプスに帰って来た。
そうしたら親戚の金持ちが経営を代わると言い出して、彼女からすれば大学は中退、その上にただの一作業員──作業員らのまとめ役なんかをやっているのかもしれないが──という雇われの身に、宙に浮いた存在に落ちてしまった。
「なるほど。詳しくありがとう」
「大した話ではありません」
伝承を聞くには役割不足だったが、情報通らしくいろいろなことを教えてくれた。
アルカは満足げに笑みを浮かべて礼をする。
「さて、思わぬ収穫だ。丘の上の養蚕工場へ向かうとするか」
アルカの迷いない足取りにエドワードは少し後ろをついて歩く。
エドワードはふと思い出したかのように、ウーヌスの資産家の名前を取り上げた。
「しかし先ほど聞いたウーゴ・セルバンテスですが、彼は数年前に没落したはずでは? 過去にそんな記事を見かけた覚えが」
「そうだな」
「……つまり、養蚕工場はどういうことなんです?」
「娘は……あまり政治に詳しくなかった、というわけだろうな。まあ、大学に二年通って中退ということは政治学を学んでいたわけではなさそうだ」
アルカは手袋に包まれた人差し指でくるくると円を描く。
ウーヌス大学の政治学科は三年制だ。しかも家督を継ぐためだけに学びに来ている一部の生徒のために、一年、二年で卒業できるシステムを備えている。彼女が優秀である話を踏まえるなら大方理系学生ということだろう。
「養蚕工場の経営は? ウーゴ・セルバンテスが虚栄を張っているだけで、不安定極まりないのでは──」
「エドワード」
アルカは足を止めて振り返った。エドワードは思わずつんのめって、慌てて体を引く。
「ボクたちの目的を忘れるな。ボクたちは探偵じゃない。お悩み相談屋でも、何でも屋でもない。役目は、ここの神話書を完成させることだ」
再び丘に向かって歩き出すアルカをエドワードは追いかける。エドワードは寒さと緊張感から動きの鈍っている手を握り締めた。
「……アルカ様。私は列車に乗る前からずっと気になっていたんです。どうして急にソウウルプスの伝承を集めようなんて言い出したのですか?」
「ただの好奇心だよ。今までだって急に思い立ってはいろんなところに足を伸ばしていた」
「本当にそれだけですか?」
「嘘を吐く必要が?」
「……」
質問で返されたことに、エドワードは口を噤む。
この流れは何を言ってもはぐらかされるだけだと知っている。もし他の意図があるということに自覚があろうとなかろうと、アルカは飄々として答えるのだ。
アルカの才に一目惚れし、ペルケトゥム研究所の門戸を叩いた五年前から、この人はいつもそうだ。
「……伝承、得られるといいのですが」
「そうだな」
二人は丘の上へと伸びる暗い道を登って行った。