おそらく夕方なのだろう、淡い橙色の光が窓から入り込んで室内を照らしていた。
図書室の明かりが自動的につき、僕は何気なく棚の間を進みながら言う。
「ここにある本はいったい何なんだろう? 千葉くんたちの知ってる作品とかある?」
後ろを千葉くんがついてきながら返す。
「そうですね……ああ、これなら読んだことあります」
足を止めて振り返ると、千葉くんが棚から一冊の本を取り出すところだった。
「泡坂妻夫の『11枚のとらんぷ』です。でも、単行本を見るのは初めてだな……」
と、興味深そうにながめる。
僕は困惑しながら返した。
「えっと、僕はそれ、知らないな」
「知らないんですか?」
「うん」
千葉くんが不思議そうに僕を見てから、本を元の棚へ戻す。
「江戸川乱歩は知ってますよね?」
「誰ですか、それ」
僕はますます困惑した。何だか嫌な予感がするぞ。
「それなら横溝正史はどうです? 松本清張、高木彬光、連城三紀彦とか」
「ごめん、どれも知らない」
僕の記憶にはどの作家も存在しない。本当に聞いたことがないのだ。
千葉くんの背後で、田村くんと前島さんが横の通路に入っていくのが見えた。
「困ったな。あ、最近の作家の方が分かりますかね? 今村昌弘、青崎有吾とか」
千葉くんの問いに僕はやっぱり苦笑いを返すだけだ。
「ごめん、ちっとも分からない」
「それなら、野々村さんの好きな作家は?」
千葉くんに問いかけられて僕は即答する。
「
「誰ですか、それ」
今度は千葉くんが困惑する番だった。
「有名な推理作家ですよ。作品は実写化もアニメ化もしてて、すごい人気なんです」
「米澤穂信みたいな?」
「うーん、誰だか分かりません」
まったく話が噛み合わない。これでは間が持たないぞと思った時、羽山さんが割り込んできた。
「どうやら、二人のいた世界は別物らしいね」
はっとして千葉くんが振り返り、羽山さんは平然とした顔で続ける。
「俺は野々ちゃんと同じ世界の人間だから、野々ちゃんの話が理解できる。でも、千葉くんの言う作家には誰一人として心当たりがない。つまり、別々の世界だと考えるのが筋じゃないかい?」
ああ、なるほど。でも、そうすると疑問が残る。
「だけど、田村くんは言ってましたよね? 僕とどこかで会ったことがあるって」
「そうですよね、まったく別というわけではないのかもしれません」
と、千葉くんが腕を組む。
「もしくはパラレルワールド」
羽山さんの言葉に僕の中で何かが反応した。既視感とは違うけど、知ってる気がする。
千葉くんは神妙に両目を細めた。
「つまり、この世界は何だとお考えですか?」
「パラレルワールドが統合された場所、かな。もちろん野々ちゃんは一人だし、そのパラレルワールドのうちの一つの野々ちゃんだ。パラレルワールドの野々ちゃんはいなくて、だからこそ、食い違いが生ずるんじゃないかと思うよ」
羽山さんの話は正直に言ってよく分からない。でも、素直に受け入れてしまう自分がいることも否定できなかった。
「なるほど、パラレルワールドですか。現時点ではその可能性が高そうですね」
千葉くんはしぶしぶ納得するように息をつき、僕へ向き直る。
「とはいえ、活躍している作家は違っていても、ミステリーというジャンルそのものは共通しているんです。せっかくなので、ミステリー談議でもしませんか?」
「いいね。それなら食い違うこともなさそう」
僕が明るく返すと、千葉くんはにこりと微笑んだ。
「では、どこか座れる場所を探しましょう」
と、部屋の奥へ歩き出す。
一角に丸テーブルと椅子が四脚あるのを見つけ、僕と千葉くんは並んで座った。羽山さんは僕の向かいに腰を下ろした。
少し離れたところから、田村くんと前島さんの話す声が聞こえた。
気が済むまで話をして図書室を出ると、前島さんがさっそく羽山さんへ声をかけた。
「先輩、後で話が」
「ああ、夕食が終わったら俺の部屋で」
田村くんから何を聞き出せたのか、話を聞くのは夕食の後だ。
前島さんは黙ってうなずき、前を歩く二人を見つめた。彼が右手の薬指にはめていた指輪は消えていた。
夕食の後、僕らは再び羽山さんの部屋へ集まった。もちろん扉には鍵をかけてある。
「それで、どうだった?」
ベッドに座りながら羽山さんがたずね、椅子に腰を下ろしながら前島さんは返す。
「田村は土屋さんと幼馴染だそうです。恋愛関係にあるわけではなく、兄妹のようにして育ってきたそうで、むしろ彼女は千葉の方に気があるとか」
想像していたのとは違う展開だ。僕も椅子に座り、前島さんに注目する。
「田村はどうかと言うと、恋愛に興味がないらしいです」
「そうなのか。じゃあ、千葉くんに対しては?」
「いい友人だと話していました。どこで魔法アイテムを使うか迷いましたが、思いきって今の状況についてどう思うかたずねてみました」
僕はごくりとつばを飲み込んだ。
前島さんはどこか無表情にも見える真剣な顔で言った。
「一言で言うとおもしろい、だそうです。恐怖や怯えは感じていないようで、彼は今の状況を楽しんでいました。嘘はありませんでした」
無性に背筋がぞっとした。この状況を楽しめるって、いったいどんな神経をしているんだ。
羽山さんは
「妙な話だね。犯人の一人だから、そういうことが言えるのかもしれない」
「そうだとしたらサイコパスですよ。人殺しを楽しめるなんて尋常じゃない」
すかさず前島さんが言い返し、僕も泣きそうな顔になりながら口を開く。
「犯人ではなく、純粋にゲームを楽しんでいたとしてもサイコパスです」
感覚が僕らとはまったくかけ離れている。田村くんのことは明るい好青年だと思っていただけにショックが大きい。しかし、人は見た目によらないものだ。内面がどうなっているかなど、見ただけでは分からなくて当然だ。
「どっちにしても危険人物かもしれないね。今後、田村くんには注意した方がよさそうだ」
と、羽山さんが結論し、僕と前島さんはうなずく。
田村くんと土屋さんの仲がいいのは幼馴染だからであって、やけに距離が近く見えたのは長年一緒にいるからだった。さらに土屋さんは千葉くんに想いを寄せていて、おそらく千葉くんは気づいていない。
彼ら三人の事情は理解できたが、結局誰が犯人なのかは分からないままだ。
「それで、次はどうしますか?」
と、僕がたずねてみると羽山さんは腕を組んだ。
「前島くんの情報だけでは、犯人に近づけそうもない。もっと他に情報が欲しいけど、また誰かが殺されるのを待つというわけにもいかないよね」
一刻も早く犯人を見つけてこのゲームを終わらせたい。自分たちが殺される前に、他の人たちが殺される前に。
「論理的な推理をしないといけないんですから、やっぱり証拠が欲しいですよね」
と、前島さんがわずかにうつむく。
「目撃証言でもいいけど、確実にこの人が犯人だ、この人しかありえない、くらいまで言えるといいよね」
「現時点では、そこまで確信できるほどの情報がないんですよね……」
僕はそう言ってため息をついた。まったくどうしたらいいんだ。
「仕方ないね。明日になるのを待つしかない」
羽山さんもため息まじりに言った。今はとにかく新しい情報が出てくるのを待つしかない。
せめて明日の朝は誰も殺されていませんように。僕は胸の中で強く願った。