手記を手に取ると私は表紙をめくった。そこには美しい文字で『マリア・ノース』と書かれている。
私が「マリア?」と呟くと、母が「この手記を書いた方よ」と教えてくれた。
「この方が……」
数十年前にノース伯爵家の長女に生まれ、のちに王家に利用されて捨てられてしまったといわれる人。
「お母様。マリア様にいったい何があったんですか?」
母はため息をついた。
「その時代の王家は、お金に困っていてね」
「王家が?」
今の豊かな王家からは考えられない。
「まぁ王家というより国中(くにじゅう)がという感じだったらしいけど。雨が降らない時期が続いて多くの作物が枯れてしまったそうよ」
そういえば、数十年前に干ばつがあったと歴史の授業で習った。
「ノース家は、貿易が中心でしょう? 国内で作物がなくても他国にはある。王家はそれを手っ取り早く手に入れるために、他国と取引しているノース家と婚姻関係を持とうと考えた」
「それ自体は別に悪い話ではないですよね? 王家はお金や食料の不安が消える。ノース家は王家との繋がりができる。どちらにも利益があるように思えます」
「そうね。でも、多額の援助を受けているにも関わらず、マリア様の婚約者になった第二王子は、そう考えていなかったの。王家からの打診なのに、ノース伯爵家がお金を積んで無理やり婚約者の座に収まったと思い込んだのよ」
「な、何がどうなったら、そうなるんですか?」
「原因はいろいろあるでしょうけど、一番の原因はノース家が公爵家や侯爵家ではなく、伯爵家だったこと。そして、第二王子から見たら、マリア様の外見はとても地味に見えたそうよ。だから、華やかな容姿の自分にふさわしくないと思ったんでしょうね」
私も『モブ女』と言われてつらかったけど、マリア様も私と同じようにひどいことを言われていたのかもしれない。
「数年後、ノース伯爵家の援助のおかげで、なんとか王家の立て直しに成功して、祝いのためにパーティーが開かれたの。そこで、婚約者がいるにも関わらず第二王子は隣国の美しい姫と恋に落ちてしまった」
「隣国の姫……。お母様。私、なんだか嫌な予感がします……」
「まぁ、その通りよ。王家の目的はお金と作物だったから、隣国の姫も条件を満たしていたのよ。しかも、伯爵家と繋がるより、隣国の王族と繋がったほうが得策だと当時の国王陛下は考えた」
「マリア様はどうしたんですか?」
「パーティーのひと月後に、都合よくノース家の馬車が盗賊に襲われて、行方不明になったそうよ」
「そんな……」
「その後、ノース家は必死にマリア様の行方を捜したけど、王家は何もしてくれなかった。しかも、三か月後には、王家が勝手にマリア様は死亡したと発表し、第二王子と姫の婚約が成立したの」
「ひどい……」
「その後もマリア様は見つからず、三年後にノース家も仕方がなくマリア様の死亡を受け入れたわ。そのとき王族は『ようやくあきらめた』と喜んだそうよ。気分が悪い話でしょう?」
私は何も言えずにうつむいた。心の底から怒りが込み上がってくる。
「結果、王家が苦しいときに援助したノース家は、マリア様の死亡により、なんの利益を得ることもなく王家との縁が切れたわ。だから、ノース家は王家に利用されて捨てられたと陰で言われているの」
「事情は分かりました。……お母様、第二王子とそのお姫様は、その後どうなったんですか?」
邪魔者のマリア様が都合よくいなくなったから、幸せに暮らしたの?
そんなことが許されるなんて……。
私が暗い気持ちになっていると、予想外に母はニッコリと微笑んだ。
「違うから安心しなさい。でも、これから先は、マリア様とノース伯爵家だけが知っている真実のお話」
母は悪戯っぽい表情を浮かべながら、私が手に持っている本を指さす。
「さっき、それを『手記』と言ったでしょう? 手記は、自分が経験したり、体験したりしたことを書き記したもののことよ」
私はハッとなった。
「ということは、マリア様は生きていたんですね!」
嬉しくなった私は、マリアの手記をパラパラとめくった。そこには結婚式のことや、子どもが生まれたことなどが書かれている。
「幸せそうで良かった……。この手記はどこで書かれたものなんですか?」
「隣国よ。行方不明になったマリア様が名前を変えて、隣国の公爵夫人になっていた……というのが、王家も知らないノース家最大の秘密なの」
「公爵夫人……?」
「その本を読んでみなさいよ。とっても素敵なラブロマンスだから」
私は、母に言われるままに手記のページをめくった。
マリア様の手記には、日ごろから婚約者である第二王子に冷たくされ暴言を吐かれていたことが書かれていた。
ノース家は何度も婚約の解消を訴えたけど、王家は決してそれを許さなかった。
国王陛下は「第二王子に言い聞かせる」と言うけど、第二王子の態度は変わらない。
『それならば』とノース家は本気で、王家の立て直しに奔走した。その結果、第二王子のマリア様への態度が変わればいいけど、そうならなければ、そのときこそ、ノース家が望んだ通り、婚約の解消をすることを国王陛下に認めさせた。
マリア様も「今は国が大変なときだから」と第二王子からの冷遇に耐えていた。
数年後、ようやくそのときが来た。
王家の立て直しが成功した。しかし、第二王子のマリア様への態度は変わらなかった。だから、ノース家は婚約の解消を王家に求めた。
本来なら婚約破棄でも良かったくらいだけど、一刻も早く王家と縁を切りたいノース家とマリア様が、できるだけ穏便に関係を終わらせようとした結果だった。
祝いのために開かれたパーティーが終わった数日後に、マリア様と第二王子の婚約の解消が正式に告げられる予定だった。
でも、そのパーティーでまだ婚約者がいるにも関わらず、第二王子は他国の姫と関係を持った。
第二王子は、パーティーの場に嫌々だけど、婚約者としてマリア様を伴っていたので、姫も第二王子に婚約者がいると分かった上での行動だった。
長い間姿が見えない第二王子を捜していたマリア様は、二人が愛し合う現場を見てしまい悲鳴を上げた。その結果、多くの貴族が第二王子の不貞を知ることになった。
第二王子曰く「もうすぐ婚約解消されるのだから、俺が誰と何をしようが別にいいだろう?」とのこと。
ここまでバカにされては、ノース家も婚約解消などと生ぬるいことを言ってはいられない。それだけではなく、第二王子が他国の姫に手を出したことも大問題になった。
王家が取れる手段は、第二王子の有責でノース伯爵家に慰謝料を支払い、婚約破棄を成立させること。そして、隣国の姫と第二王子を結婚させることのみ。
それなのに、慰謝料を支払いたくない第二王子は、マリア様に無実の罪を被せようとしてきた。
危険を感じたノース伯爵は、マリア様を隣国に避難させるために、秘かに護衛をつけて馬車で逃がした。
手記によれば、その途中で王家からの刺客に襲われた……のではなく、怪我をした行き倒れを見つけたそうだ。
可哀想に思ったマリア様は、青年を介抱するように護衛に指示した。
護衛からは「傷が深くこのままにしておくと危ない」とのこと。それを聞いたマリア様は、自身が乗っている馬車に瀕死の青年を乗せた。
しばらくして馬車内で気がついた青年は、マリア様に短剣を突きつけた。汚れているけど身なりがいい。短剣を持つ手が、かすかに震えていた。
「傷が深いわ。動かないほうがいい」
「俺を、追って来たのか?」
「いいえ」
「俺を、殺すのか」
「いいえ。村まで運んで医者に見せます」
「どうして、俺を助けてくれるんだ?」
「……あなたが、未来の私のように見えたから。私も追われているの。このままでは、私もあなたのように行き倒れる運命が待っているのかもしれない」
驚くように目を見開いた青年は、力尽きたようでまた意識を失った。
行き倒れていた青年は、実は隣国の公爵家の跡取りだったけど、信じていた者に嵌(は)められて殺されそうになったところを逃げて来たらしい。
そこからは心に傷を持った二人の、不器用だけど温かい交流が書かれていた。
*
私は夢中で読んでいた本から顔を上げると、興奮気味に母に尋ねた。
「お母様。このあと二人はどうなったんですか? 青年が公爵家を継いで結婚されたのですよね?」
母は「読んだら分かるから」とクスクス笑っている。
「そうですね。あとでじっくり読ませていただきます」
私は本を閉じた。
「ようするに、マリア様は幸せになったのですね」
「そうよ。隣国で名前を変えて、公爵家にゆかりのある貴族の養子に入り、婚約期間を経てから無事に公爵様とご結婚よ。実家のノース家も早い段階でマリア様が生きていたことが知らされていて、それが王家にバレないように細心の注意を払っていたそうよ」
「見つかったら、何をされるか分かったものじゃないですもんね……。そういえば、マリア様の元婚約者の第二王子はどうなったんですか?」
母は深いため息をついた。
「第二王子は、姫と婚約して結婚まで秒読みだったのに、また別の夜会で他の女性に手を出してね。このままでは国同士の問題に発展するからと秘かに処刑されたわ。ただし表向きは、処刑ではなく落馬して亡くなったことになっているわね。処刑するように強く後押ししたのは、ノース伯爵家に干ばつのときに救われた貴族達よ。裏ではノース伯爵家も動いていたわ」
私は過去のノース家がやられっぱなしではなかったことに、ホッと胸をなでおろす。
「じゃあ、お姫様は?」
「結婚相手が亡くなってしまったから国に戻ったの。そこで、新しく爵位を継いだ若き公爵に一目惚れ」
「若き公爵……まさか?」
「そう、そのまさかで、すでにマリア様と婚約している公爵を奪おうとしたの。マリア様に心底惚れていた公爵が姫になびくはずもなく、愛する人への無礼な態度に公爵が激怒して、姫は二度と社交界に出ることが許されなかったそうよ。戒律が厳しい修道院に入れられたとか?」
母の言葉を聞いて、私の怒りはようやく収まった。
「その第二王子の一連の行動で、パーティーを出会いの場にしていることが問題視されてね。パーティーが開かれることが減っていったの。でも、そしたら貴族の若い男女が出会う場がなくなってしまうでしょう? だから、今のように学園に通う仕組みができたってわけ」
「そうだったのですね」
過去にこんなことがあったのなら、ノース伯爵家が王家に利用されて捨てられたと言われるのも納得ができた。
マリア様が生きていたことは、ノース伯爵家の人間しか知らないので、他の人から見ればノース伯爵家は王族に都合よく利用され捨てられても、文句のひとつも言わない弱小貴族だ。
母は優雅にお茶を一口飲んでから、「もう分かったと思うけど」と言った。
「その事件以来、ノース伯爵家は、王家とかかわりを持たないと決めたのよ。それができたのは、ノース家が隣国の公爵家と手を組んで、アマリアス商会を立ち上げ大陸中で手広く商売を始めたからなの」
「アマリアス商会……アマリア……マリア? もしかして?」
母は優雅に微笑んだ。
「ご名答。隣国の公爵家はマリア様が嫁いだ先よ。公爵家とノース家は実は親戚関係なの。公爵家だけじゃない。私たちは資金も縁も大陸中にあって、いつでもこの国から出て行くことができるのよ。この国に残っている理由は商売の拠点があるから。でも、それすらもいつでも移動できるわ」
フフフと笑う母はとても楽しそう。
「だからね、リナリア。ノース伯爵家は王家に媚(こ)びないんじゃない。王家に媚びる必要がないのよ」