リナリアの後ろ姿が見えなくなってから、私は深いため息をついた。
驚いた……。
あまりに驚きすぎて、リナリアをエスコートすることすら忘れてしまっていた。
ついさっき、馬車の中でリナリアの顔が近づいてきたかと思うと、リナリアの唇がかすかに私の頬に当たった。それだけで、全身が熱でもあるかのように熱くなってしまう。
かっこ悪い……。
リナリアの前ではいつでも冷静な男でありたいのに、それがとても難しい。
ついさっきまでサジェスを殺したいほど憎いと思っていた。でも今は、リナリアが愛おしすぎて胸が苦しい。
馬車内でひとしきりリナリアへの愛おしさを噛みしめた私は、馬車を学園へと戻らせた。護衛のギアムには「学園で私が戻るまで待つように」と伝えている。
私が乗った馬車が学園にたどりつくと、すぐにギアムが合流した。いつもの眠そうな態度ではなくキビキビと動いている。
私の目的を察しているようだ。こういう勘の良さもギアムが上流階級に優遇される理由のひとつだった。
ギアムと共に学園内を歩き、庭園の休憩所へと向かう。そこには、リナリアの友達ケイトの姿はもうなかったが、サジェスはテーブルに突っ伏すように一人で頭を抱えていた。
「サジェス」
私が声をかけると、サジェスは弾かれたように顔を上げた。
「……シ、シオン殿下」
慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「先ほどは、大変申し訳ありませんでしたっ!」
「謝る相手が違うんじゃない?」
私がクスッと笑うとサジェスは「そ、ですね……」と気まずそうな顔をする。
「リナリアから何があったかすべて聞いたよ。リナリアは君を許さないって」
本当のことは言っていないが、決してウソはついていない。サジェスの顔が絶望に染まっていく。
「……そんなに、リナリアが好きだったの?」
驚くサジェスの首を私は右手で強くつかんだ。苦しそうに顔を歪めるサジェスの耳元で囁く。
「ねぇ、知っていた? リナリアってさ、はじめは君のこと『ケイトのお兄さんって優しそうで素敵ね』って言っていたんだよ」
リナリアをこっそりと見守っているときに、その言葉をリナリアの口から聞いた瞬間、サジェスを殺してやろうかと思った。
「リナリアは、兄弟がいないから優しいお兄さんに憧れていたんだ。あのままリナリアに暴言を吐かずに優しくしていたら、いつか好きになってもらえていたかもね」
サジェスは苦しむのも忘れて、信じられないものを見るようにこちらを見ている。
「本当だよ、サジェス。悔しいけど、君は誰よりもリナリアの夫に相応しかったんだ」
ケイトの優しい兄。ライラック伯爵家の次男。人当たりが良く友人が多い。そのすべてが、婿養子を取らないといけないリナリアの伴侶の条件にピッタリと当てはまっていた。
「君が何もしなければ、あと数年で君たちの婚約が決まっていたかもね」
実際、リナリアとサジェスの親たちの間では、そういう話も上がっていたようだ。もちろん、私は徹底的に邪魔をしてやろうと思っていたが、その前に勝手にサジェスが自滅してくれた。
「サジェス、自分からわざわざリナリアに嫌われてくれて本当にありがとう。おかげで私も君を殺さずにすんだよ」
驚いていたサジェスの瞳に激しい憎悪が浮かんだので、私は満足してつかんでいたサジェスの首を強く押し突き飛ばした。
激しくむせながら地面に尻もちをついたサジェスを、ギアムが素早く押さえつける。
私は「えっと、なんだったっけ?」と言いながらわざとらしく腕を組んだ。
「あ、そうそう。確か君はリナリアに、『俺に押し倒されても抵抗もしない』とか、『そうやってシオン殿下も誘ったのかよ⁉』とか言っていたよね?」
私はギアムに押さえつけられているサジェスを見下ろした。
「あれ? サジェス、どうして抵抗しないの? もしかして、ギアムを誘っているの?」
カッとなったサジェスは、「んなわけあるかっ⁉」と叫びながら、暴れようとしたが、大柄のギアムに押さえつけられて少しも動けない。
そんなサジェスを、虫けらを見るような目で見つめながら、私は「君がリナリアにしたことは、こういうことだよ」と淡々と告げた。
「君のことは殺したいけど、私がリナリアと一緒になるには残念だけど殺人は犯せないんだ。仕方がないから、腕一本で許してあげる」
私は「彼の利き腕はどっちかな?」とサジェスではなくギアムに聞いた。
「この感じだと、右ですね」
「じゃあ、左を折っちゃって」
「はい」と同意の言葉と同時に鈍い音がして、サジェスの悲鳴が辺りに響いた。
「利き腕は残してあげるよ。だって君はこの学園を辞めて、これから騎士学校に転校するからね。サジェスは、本当はずっと騎士になりたかったんだよね?」
私は、痛みで浅い呼吸を繰り返すサジェスの赤い髪をつかんでウンウンと強制的に頷かせた。
「リナリアの名誉のために、今回のことは公表できないからね。でも、私は君を許すつもりはない。だから、君にはリナリアの前から消えてもらうよ。サジェス、君はこの学園に入学したものの、騎士になりたいという夢をあきらめきれず、途中で転校してしまう設定だよ」
激痛に耐えているサジェスは何も反論してこない。
「君の愚行のおかげで君のご両親、ライラック伯爵家にも盛大に恩が売れそうだよ。なんたって、私は強姦未遂の息子の罪を黙っていてあげるんだからね。せっかくだから、ライラック伯爵には、リナリアと私の婚約の後押しでもしてもらおうかな?」
サジェスの目から静かに涙が溢れ、地面に小さな黒いシミを作っていく。
「あーあ、可哀想なサジェス。リナリアを好きにならなければ良かったね」
私はもう一度サジェスの髪をつかんで無理やり頷かせようとしたが、サジェスは、今度は決して首を縦に振らなかった。