朝の身支度を終えた私は、全身鏡で制服姿を確認してから、いつものように馬車に乗り込み学園へ向かった。
一人きりの馬車の中で大きなため息をついてしまう。
昨日はいろんなことがありすぎて……。
帰りの馬車の中で、シオン殿下に子どものころから私のことが好きだったと言われたけど、現実味がなさすぎてその言葉を素直に信じることができなかった。でも、お優しいシオン殿下が私を騙すとは思えない。じゃあ、どうして殿下はあんなことを言ったのかした?
そこでふと私は、シオン殿下のウワサの中に『恋多き男』というものがあったことを思い出した。
あ、そっか。シオン殿下ほどのお方になると女性を喜ばせるために、ああいう冗談を言ってくださるのかもしれない!
男性に免疫がないので思いっきり動揺してしまった。でも、あれは『まぁ、お上手だこと。フフッ』とか言いながら、サラリと流すのが正しい対応だったのかもしれない。
私ったら、殿下のご冗談を本気にして恥ずかしいわ!
私が反省しながら馬車から降りると、少し離れたところに生徒たちの人だかりができていた。その中心には、王家の紋章黒百合の花が描かれた馬車が止まっている。
その馬車から降りてきたのは、輝く金髪に紫色の瞳を持った王子様だった。人だかりの中から歓声が上がったけど、私の心は少しもときめかない。なぜなら性格が悪すぎるローレル殿下だったから。
ローレル殿下を取り囲んだ生徒たちは、我先にと挨拶をしている。そして、挨拶と共に降り注ぐような賛辞(さんじ)がローレル殿下に贈られている。
一見、爽やかそうに見える笑顔は、よく見るとウソ臭い。
あの賛辞は、本来ならシオン殿下が受けるべきものなのに、ローレル殿下のせいで、シオン殿下は謂(いわ)れのない中傷を受けている。
早くシオン殿下の悪いウワサをなんとかしないと!
そんなことを考えていると、ふとローレル殿下がこちらを見たので、私は慌てて視線をそらした。速足でその場から離れる。
早く悪いウワサを流しているのは、ローレル殿下だとシオン殿下に知らせたい。
でも、私が学園内で堂々とシオン殿下に声をかけることはできない。私達はあくまで秘密の関係だから。
私はソワソワしながら放課後になるのを待った。
昨日、別れ際にシオン殿下が『また明日ね』と言ったので、放課後になればゼダ様がお迎えに来てくれるはず。
私の予想通りで、放課後にゼダ様が迎えに来てくれた。
「お迎えにあがりました。リナリ……」
「行きます!」
私が前のめりになりながら返事をしたせいか、いつも淡々としているゼダ様が珍しく驚いている。その場に居合わせた友人ケイトは、嬉しそうに「ふふっ、いつも仲良しね。行ってらっしゃい」と手を振ってくれた。
ケイトは、私とゼダ様が付き合っているって勘違いしているのよね。この誤解も早めに解かなければ。
サロンにたどり着くと、いつも通りシオン殿下がわざわざソファーから立ち上がって出迎えてくれた。
どこか儚げな表情を浮かべているシオン殿下は、「リナリア、来てくれて嬉しいよ」と言いながら、ホッと胸をなでおろした。その仕草があまりに優雅で見惚れてしまう。
……はっ⁉ 今は殿下の美しさに、見惚れている場合ではないわ!
ソファーに座らず、私はシオン殿下に詰め寄った。
「殿下、どうしても聞いていただきたいお話があります!」
ニッコリと微笑んだシオン殿下は「殿下じゃなくて、シオンだよ」と、のんきなことを言っている。
ああっもう……! 控えめにいってシオン殿下は大天使様のようだわ‼
昨日の帰りの馬車で感じた悪寒のようなものは、きっと気のせいだったのね。
「あの、シオン殿下!」
「シオン、だよ」
シオン殿下はニコニコしながら少しも譲ろうとしない。このままでは、話がまったく進まないので私は覚悟を決めた。
「……その、シ、シオン……」
シオン殿下は嬉しそうに微笑むと「なぁに、リナリア」と甘えるような声を出す。心臓がもたないので、私はシオン殿下から距離を取りながら話し始めた。
「実は、私、過去にお茶会であったことを思い出したんです」
「それって、リナリアと私が出会ったあのお茶会のこと?」
私が頷くと、シオン殿下は「もしかして、私と出会ったことを今まで忘れていたの?」と悲しそうな顔をする。
「違いますよっ⁉ シオン殿下とのことはすべて覚えています! そうではなくて、思い出したのはローレル殿下のことです」
私が『ローレル殿下』と口にしたとたんに、シオン殿下の美しい紫色の瞳がスッと細くなった。
「ローレルがどうかしたの?」
そう言ったシオン殿下は、相変わらず優しい声音で口元は微笑んでいるけど、目が少しも笑っていない。『美人が怒ると迫力がある』というのはこういうことを言うのかもしれない。
「あの、えっと、その……。まだ子どもだった私は恐怖のせいか、あのお茶会のときにローレル殿下に脅されたことを今まで忘れてしまっていたのです。シオン殿下の悪いウワサを流しているのは、ローレル殿下です。ローレル殿下がシオン殿下を陥れようとしているのです」
シオン殿下は憂いを帯びた表情で私から顔をそむけた。こんな緊迫した状況なのに、シオンの首筋に色気を感じてドキッとしてしまう。
私ったら、こんなときまで、いやらしい目で見てすみません!
申し訳ない気持ちになっていると、シオン殿下は消えそうな声で私の名前を呼んだ。
「リナリア……」
優しいシオン殿下を残酷な真実で傷つけてしまった。
私がどう慰めたらいいのか悩みながら右腕をそっと伸ばすと、シオン殿下は両手で私の手を握りしめた。
「ひどいよ、リナリア」
「申し訳ありません。ローレル殿下が犯人だなんて、信じられないのは分かりますが……」
シオン殿下は握りしめていた私の手にそっと自分の頬を押し当てた。そのとたんに、私は伝えようとしていた言葉がすべて吹き飛んだ。
えっ⁉ 何、この陶磁器のように白く滑らかな殿下のお肌は⁉
私が本気でシオン殿下にお肌のお手入れの仕方を聞こうか悩んでいると、殿下は「私のことは、シオンと呼んでとお願いしているのに」と悲しそうに呟く。
「あ、すみません」
シオン殿下からは、深いため息が聞こえてくる。
「お願いするだけじゃダメみたいだね。次にリナリアが私のことをシオンと呼ばなかったら、どうしよう……お仕置きが必要かな?」
ああ、思案する殿下も麗しいわ……いや、違う違う! 今は殿下の悪いウワサをなんとかしないと!
私は真っすぐにシオン殿下を見つめた。
「私は殿下の悪いウワサを無くしたいのです」
シオン殿下に「悪いウワサって?」と聞かれたので、私は言葉を濁した。
「それは……殿下のお耳に入れるようなものでは……」
「リナリアは優しいね」
クスッと笑ったシオン殿下は「第二王子のシオンは、性格が悪いとか乱暴者とかかな?」と言ったあとに寂しそうな目をする。
「ご存じだったのですね」
「まぁね。リナリアはこのことについてどう思う?」
「もちろん、信じていません!」
勢いでシオン殿下にグッと近づいて力説すると、殿下はフワッと嬉しそうに微笑んだ。その神々しい笑顔を直視してしまった私は、一瞬意識を失いかけたけど、なんとか足に力を入れて踏みとどまる。
シオン殿下は「他には、私は『恋多き男』とも呼ばれているね。それも信じていない?」と探るようにこちらを見つめた。
「あ……それは」
私が口ごもると、シオン殿下はカッと瞳を見開く。
「それはって、もしかして、このウワサは信じているの?」
「あ、えっと、はい。シオン殿下のことを、世の女性はほっておかないと思いますし……」
「だから、私がリナリア以外の女性と仲良くしていると?」
私が小さくコクンと頷くと、シオン殿下はニッコリと微笑んだ。その笑みは、先ほどとは違いなぜか背中がゾクッとする。それは昨日、馬車の中で見た笑顔と同じだった。
あの笑顔は、私の見間違いじゃなかったのね。
優しいシオン殿下がこういう笑い方をするのは意外だったけど、そんなことでは私の憧れはなくならない。むしろ、今まで知らなかった一面を知れて嬉しくなってしまう。
こういうちょっと凄みのある殿下も素敵だわ。
「ねぇ、リナリア。私と勝負しない?」
「勝負、ですか?」
突然の誘いに私が戸惑っていると、シオン殿下は制服の内ポケットから手のひらサイズの小箱を取りだした。
「これは今、流行っているカードゲームだよ。リナリアは、やったことある?」
「いいえ」
「元は戦の戦略を学ぶために作られたものだったんだけどね。今ではいろんな遊び方ができるんだ」
小箱からカード束を取りだしたシオン殿下は、長い指を動かし器用にカードを切るように混ぜている。
「カードは全部で四十八枚あってね。王、騎馬、歩兵や弓兵なんかのカードがある。これを使って勝負をしようよ。負けたほうは、相手の言うことをなんでも一つだけ聞かなければいけない。そういう罰ゲームをつけよう」
私は少し考えたあとに、「例えば、私がシオン殿下の悪いウワサを消したいので協力してください、とお願いしたら聞いてくださるということですか?」と尋ねると、シオン殿下は「うん、そうだよ。罰ゲームは絶対だからね」と微笑む。
「もし、私が負けたらどんな罰ゲームを……?」
笑みを浮かべたシオン殿下はその質問に答えてくれなかったけど、私は勝負を受けることにした。
なぜなら、最低男サジェスが考えたウソの告白をするという罰ゲームよりひどい罰ゲームなんてないから。
しかも、優しいシオン殿下が考える罰ゲーム。きっと私ができないことや嫌がることは言わないと思う。
「殿下。その勝負、受けて立ちます」